出エジプト記 QT36 20210515土【主は私たちの中におられるのか】出エジプト 17章 1~7

出エジプト記 17章 1~717:1 イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」17:4 そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」17:5 主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。   神様はイスラエルの民を次の旅へ導かれます。「イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。」イスラエルの民は、神様の命令に従ってレフィディムまで行きました。   ところが、その地にはまた、飲む水がなかったのです。民は怒りて、モーセに敵対して恨みます。荒野で渇いた口から悪口を出している人々は必死でした。民が基本権を求めるのは当然です。荒野の真ん中で水なしに誰一人として生きることはできません。不便は恨みになり、それは怒りになりました。   それはもう一つの感情になりますが、それは「疑い」です。「彼らが主は私たちの中におられるのか、おられないのかと言って、主を試みたからである。7」苦難が襲われたとき、「神様、なぜですか」という抗議はすぐに「神様は本当にいますか」とい運動家疑いへと変わります。神様がおえられるなら、聞き従って行く道に、「なぜこのような状況に会うのですか?」それは自問になって、「神は存在しない虚像ではないか」となります。   信仰の底は人生の底に下りなければ分かりません。なにもなかったのなら、神を疑うこともなかったでしょう。疑いというのは、確かに否定的なものですが、そもそも民に信仰がなかったら、疑いもなかったはずです。弱い信仰が苦難に会うと疑います。ですから弱さも疑いも信仰の一形です。   詩篇には、浄化された疑いの言語があふれるのではないでしょうか。それも信仰でありますが、まだ完全に信頼する信仰ではありません。信仰でありますが、問題が生じると、神様より問題が大きく見えてしまう信仰です。信仰を養うためには、神様をさらに体験しなければなりません。神様を知るだけ信じることが出来ます。その疑いが解決されると、信頼は深まるでしょう。民は疑っていますが、神様は岩から水を出します。

출애굽기 QT36 2105015토【여호와는 우리 중에 계신가】출애굽기 17장 1~7

출애굽기 17장 1~717:1 이스라엘 자손의 온 회중이 여호와의 명령대로 신 광야에서 떠나 그 노정대로 행하여 르비딤에 장막을 쳤으나 백성이 마실 물이 없는지라17:2 백성이 모세와 다투어 가로되 우리에게 물을 주어 마시게 하라 모세가 그들에게 이르되 너희가 어찌하여 나와 다투느냐 너희가 어찌하여 여호와를 시험하느냐17:3 거기서 백성이 물에 갈하매 그들이 모세를 대하여 원망하여 가로되 당신이 어찌하여 우리를 애굽에서…