누가복음 QT48 220304금【나를 불쌍히 여기소서】누가복음 18장 31~43

누가복음 18장 31~4318:31 예수께서 열 두 제자를 데리시고 이르시되 보라 우리가 예루살렘으로 올라가노니 선지자들로 기록된 모든 것이 인자에게 응하리라18:32 인자가 이방인들에게 넘기워 희롱을 받고 능욕을 받고 침 뱉음을 받겠으며18:33 저희는 채찍질하고 죽일 것이니 저는 삼 일만에 살아나리라 하시되18:34 제자들이 이것을 하나도 깨닫지 못하였으니 그 말씀이 감취었으므로 저희가 그 이르신 바를 알지 못하였더라18:35 여리고에 가까이 오실…

ルカの福音書 QT47 220303木【金持ち青年の神】ルカ 18章 18~30

ルカ 18章 18~3018:18 また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。18:20 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」18:21 するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」18:22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」18:23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。18:24 イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」18:26 それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」18:28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」18:29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、18:30 必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」   最近、金持ちの青年の話が何度も繰り返されました。個人的にみことばが繰り返されるか、つながるときは、神様の御声がのボリュームが大きくなることだと思っています。みことばの共同体は、私たちに与えられている大切なものが偶像に変質しないように、それを用いてイエス・キリストに従うべきです。「イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。24,25」人間の欲がらくだのように大きいから、天国の門は針の穴のように狭くなります。どう考えても天国の入り口の大きさの問題ではなく、人間の欲の大きさの問題です。   まず、イエス様はお金の力について認められました。確かにお金は大きい力を持っています。お金の力よりも神様のみとこばの力を信じる人がそれほどいないということです。教会ではいつもお金が全部ではないということを繰り返していいますが、そのような話をする人もお金に力があることを知っています。お金は充分に信じられるようなものになります。お金があるかどうかによって、世と神様に対する人間の態度も変わります。   イエス様が社会的な人間がお金を求めることを悪いと言われていることではないと思います。聖書はお金と富について偏って話していません。富が貪欲になれば悪いことになるですが、富は神様がくださるものです。自立できる経済力は基本的な人らしさです。私たちは日常にそれを満たさなければなりません。しかし、お金を作る人はいません。時代の上に自分の役割をしてお金を受け取るのです。時代にお金がなければ、お金を稼ぐ方法もありません。金持ちの青年は青年ですから、確かに環境と機会の助けの上で金持ちになりました。自分の力で金持ちになったと思うことは、お金と自分について理解してないことです。   お金そのものを悪魔視しないように、お金を偶像視することをしてはいけません。お金が信じられるのは、それを所有し、蓄積する時です。神様のみことばに聞き従い、挑戦することによって、神様を経験することはできます。神様を経験した証しが積み重ねれば重ねるほど、信仰は大きくなります。同様に、お金が蓄積されるされるほど、それを信じる信仰も大きくなります。神様のみことばを信じる信仰は小さくなり、自分が信じられるものを信じるようになります。偶像はそのようにして神様の座を占めます。イエス様は金持ちの青年に、単刀直入に言われます。お金を貧しい人々に分け与えてから従いなさいと。偶像を捨てて神様に従いなさいということです。しかし、金持ち青年は拒絶しました。彼はお金を信じているので、イエス様のみことばを信じて従うことはできなかったからです。お金の力を信じる信仰が神様のみことばを信じる信仰よりも大きくなることを堅く拒絶します。

누가복음 QT47 220303목【부자 청년의 하나님】누가복음 18장 18~30

누가복음 18장 18~3018:18 어떤 관원이 물어 가로되 선한 선생님이여 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까18:19 예수께서 이르시되 네가 어찌하여 나를 선하다 일컫느냐 하나님 한분 외에는 선한 이가 없느니라18:20 네가 계명을 아나니 간음하지 말라, 살인하지 말라, 도적질하지 말라, 거짓증거하지 말라, 네 부모를 공경하라 하였느니라18:21 여짜오되 이것은 내가 어려서부터 다 지키었나이다18:22 예수께서 이 말을 들으시고 이르시되 네가 오히려…

ルカの福音書 QT46 220302水【パリサイ人の宗教、取税人の信仰】ルカ 18章 9~17

ルカ 18章 9~1718:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」18:15 さて、イエスに触れていただこうと、人々は幼子たちまで連れて来た。ところが、弟子たちはそれを見て叱った。18:16 しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。18:17 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」   今朝のたとえ話は、9節でその主題と目的、理由をまとめてから始めます。「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。 9」イエス様が一貫的に怒っておられる対象は、信じない人ではなく、信じるが、その信仰が曲がってしまった人々です。   取税人は自分を知っているので苦しんでいましたが、パリサイ人はいわゆる自分の信仰に自分がだまされて自分を知らず、自信満々でした。パリサイ人は自分が「奪い取る者、不正な者、姦淫する者と同じではなく、この取税人のようでない」と言いましたが、言い方が巧妙です。「奪い取らない、正しい、姦淫しない」ではなく、「私は彼らと違う」と言いました。   自分を合理化する人です。客観的な事実は認めず、私は彼らとは違うということです。このような宗教を持ったパリサイ人が正義を持って貪らない生き方をしたことに同意することはできません。神様にささげる祈りさえも自らだますことを見ると、その宗教から真実と良心を期待することはできません。   「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。12」パリサイ人は定まった断食を守り、十分の一の献金をささげました。断食と十分の一献金は人の欲の問題です。断食し空腹を覚える時に、神様からの供給の恵みを覚え、大切な収入の十分の一を聖別して神様にささげるたびに、その主権が神様にあることを覚え、告白するのです。   ところが、これが宗教になると、十分の一をささげる人はしない人に対して特権意識を持ち、さらに金額の多い人と少ない人を等級に分けることになります。そこに功労意識があります。自分の十分の一で維持される神殿で敬虔でもなく、信仰もない取税人が入っていることがすでに気に入らないのです。自分は取税人より上にあるべきだと思いますし、自分が注目を受けなければならないと思います。主導権も自分が持たなければならないと思います。   ささげますが、神様に喜んでささげたことでなければ、教会の功労主義者になります。それが誇りになり、恨みになり、争いになって教会は崩れ落ちます。聖徒がささげる大切な献金によって、教会は維持され、礼拝し、宣教していきます。ですから,共同体はその献身にお互い感謝しなければなりません。しかし、本人の立場では神様にささげたものでなければならないのです。神様にささげたものをその手から奪い取ってはいけません。イエス様の結論は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」でした。

누가복음 QT46 220302수【바리새인의 종교, 세리의 신앙】누가복음 18장 9~17

누가복음 18장 9~1718:9 또 자기를 의롭다고 믿고 다른 사람을 멸시하는 자들에게 이 비유로 말씀하시되18:10 두 사람이 기도하러 성전에 올라가니 하나는 바리새인이요 하나는 세리라18:11 바리새인은 서서 따로 기도하여 가로되 하나님이여 나는 다른 사람들 곧 토색, 불의, 간음을 하는 자들과 같지 아니하고 이 세리와도 같지 아니함을 감사하나이다18:12 나는 이레에 두번씩 금식하고 또 소득의 십일조를 드리나이다 하고18:13 세리는…

ルカの福音書 QT45 220301火【不義の裁判官とやもめ】ルカ 18章 1~8

ルカ 18章 1~818:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」   今朝は、やもめと不義な裁判官のたとえ話です。このたとえ話は、1節で「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」というテーマをあらかじめ出しています。どういう時であっても落ち込まずに祈らなければならないという結論は明らかです。話しはこうです。やもめに悔しいことがあったので、裁判官に繰り返し嘆願しましたが、この裁判官は神を恐れず、人を人とも思わない人なので、弱者の悔しい請願をずっと聞いてくれませんでした。しかし、やもめの執拗さに面倒な心になってそれを聞いてくださるという話しです。   最後の8節で神様が「速やかにさばきを行ってくださいます」と言いましたが、ここで「速やかに」に翻訳されたギリシャ語「エン・タケイ(ἐν τάχει)」には、確かに「速やかに」という意味がありますが、同時に「確かに、必ず」という意味もあります。もし時間を示す「速やかに」という意味でなければ、神様が「必ず、確かに」その悔しさを解いてくださるという意志的な表現になります。実は、そうでなければ、後半節と呼応できません。早いうちに解決できなくても、いつかは必ず解決できる。ところが、誰がその時まで耐え忍び、祈り続けるかという意味で「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われたのです。   このたとえ話は、たくさん祈り、長く祈れば、神様が面倒で聞いてくださるということではないと思います。不義な裁判官という登場人物に不義ということにも注目する必要があります。ここで不義な裁判官は神様ではありません。神様を恐れない人です。この裁判官は、被害者の悲しみを考えたり、社会的な正義を悩む人ではありません。そうであれば、私たちの祈りを妨げる、祈りを挫折させる霊的な力かも知れません。   イエス様が再び来られるまで、私たちの祈りを妨げるもの、神様を恐れず、弱者を無視し、不義を行うものと戦い、弱者を助け、正義を貫く人が果たしているだろうかということです。やもめの祈りは、裁判官に対する単なる請願ではなく、不義な裁判官の無視にもかかわらず、落ち込まず、義を追い求め、耐え忍ぶ戦いです。「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」ここの信仰は、無理やり欲しいことを願い続けることではなく、神様の憐れみと義を実践することではないでしょうか。

누가복음 QT45 220301화【불의한 재판관과 과부】누가복음 18장 1~8

누가복음 18장 1~818:1 항상 기도하고 낙망치 말아야 될 것을 저희에게 비유로 하여18:2 가라사대 어떤 도시에 하나님을 두려워 아니하고 사람을 무시하는 한 재판관이 있는데18:3 그 도시에 한 과부가 있어 자주 그에게 가서 내 원수에 대한 나의 원한을 풀어 주소서 하되18:4 그가 얼마 동안 듣지 아니하다가 후에 속으로 생각하되 내가 하나님을 두려워 아니하고 사람을 무시하나18:5 이 과부가…

ルカの福音書 QT44 220228月【神の国】ルカ 17章 20~37

ルカ 17章 20~3717:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。17:25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。17:26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。17:28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。17:31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。17:35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」17:37 弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」   神の国がいつ来るかという質問に、イエス様は神の国はすでに来ていると答えられました。イエス様ご自身が今、ここに来ておられるのが神の国が始まっているということです。天国は誰かが描いた花道のようなものではありません。イエス様を信じ、その御言葉に従う聖徒が、今、ここで経験するのが神の国です。聖徒は、終末を恐れず、神様とともに歩む人です。言い換えれば、死を恐れず、御言葉に従って歩む人です。そういう意味で神の国は、まだ完全体ではありません。十字架を負って従う人々を通して建てられていきます。御言葉を求める人々、それに従う人々によって、神の国は建てられます。   神の国は、イエス様とともに始まり、その日の裁きでよって完成されます。イエス様から始めてイエス様によって完成されます。だから、神の国はイエス様の中にある国です。食べて飲んで楽しんで所有物に執着している時、その日に裁きがきます。人々は神の国が見えない、触れないと不平を言いますが、裁きを他人の事だと思います。再び来られるイエス様が本物と偽物を区別されるとき、それは世の中ではなく教会の中です。聖徒は、今、ここでイエス・キリストに従わなければなりません。   福音を二つに分けて保守的な神学は魂の救いのための福音であると言い、いわゆる進歩的な神学は社会正義のための福音だと言いますが、神の国は分断国ではありません。天国は罪のないところなので、この地で福音を携えて生きる聖徒は、自分の中の罪を知り、告白し、救われますが、同時に神の国の民は、世に蔓延している罪に染まらず、それと戦い、この地上に神の国を回復します。やがて二つに分かれるのは、イエス様が来られるその日、本物と偽物です。イエス様の中にいる人とそうではない人が分けられます。神の国はそこにあるのではなく、あそこにあることでもなく、今、ここにあります。  

누가복음 QT44 220228월【하나님의 나라】누가복음 17장 20~37

누가복음 17장 20~3717:20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요17:21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라17:22 또 제자들에게 이르시되 때가 이르리니 너희가 인자의 날 하루를 보고자 하되 보지 못하리라17:23 사람이 너희에게 말하되 보라 저기 있다 보라 여기 있다 하리라…

ルカの福音書 QT43 220226土【骨まで高慢】ルカ 16章 19~31

ルカ 16章 19~3116:19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。16:20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。16:21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。16:22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。16:23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。16:24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』16:25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。16:26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』16:27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。16:28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』16:29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」   イエス様の「乞食ラザロのたとえ話」を読むと、金持ちがラザロに直接に悪を行ったことはないと思われます。ただし、金持ちはすべてに豊かでしたが、その家から落ちる物で食べていたラザロにはけちだったようです。乞食にはラザロという名前がありますが、金持ちには名前がありません。ラザロは、たとえ乞食として生きていましたが、自分の名前が与えられていますが、イエス様は、名が知られていたはずの金持ちには名前を付けてくださいませんでした。彼は自分の名前に代わるものを持って生きたからです。金持ちという名前に置き換えられる「お金」で粘鉄した人生だからです。   金持ちといっても大きい財閥ではありません。町の中で比較的に金持ちです。金持ちは自分で豊かだとは思いません。依然として不足しているものがあり、さらに満たさなければならないという欲を持っています。ということでイエス様は、乞食ラザロを一緒に登場させることによって金持ちがどれだけ祝福されたのがを表します。   ラザロは死後に天国に行き、金持ちは地獄に行きました。聖書は空間的な意味での地獄についてあまり描写していませんが、稀に地獄について描かれたのがここです。ということで、ルカ16章に基づき、「地獄には水一滴の憐れみがないところ」と言っています。渇いた人間に水一滴の慈悲がないなら、地獄というところは、苦痛というより残酷という言葉がもっと似合うかもしれません。金持ちは死んで地獄に行ったのではなく、地獄で生きて地獄に行ったことではないでしょうか。飢え渇いた者に憐れみがないという生き方をして、死んでからその水一滴の慈悲がないところに行ったので地獄であることは変わりません。   金持ちは後悔しているようですが、反省はしていません。金持ちは、自分の家族が地獄に来るかと心配してラザロを自分の家に送ってもらいたいと願います。確かに家族は愛していたようです。アブラハムはこう答えます。「神様のみことばが既にあるので、みことばを読んで守る人は地獄に来ることがありません」と言いますが、金持ちはそうではないと言い張ります。「地獄に行ってそれを経験しなければ、みことばを信じられない」ということです。愚かさが罪です。アブラハムは言います。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」   金持ちは「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。24」「ラザロを私の家族に送ってください。27」など、いろいろ求めますが、金持ちは、まだ、ラザロが自分の家の前で物乞いをしている乞食であると思っているようです。地獄の中であっても高ぶります。骨まで高慢で地獄の中でも人を差別し、自分勝手に動かそうとする金持ちを見ると、果たして地獄は地獄かと思いました。神様が悔い改めない人を地獄を送って悔い改めさせるのではなく、地獄に行っても悔い改めない人が集まる所が地獄であることが分かりました。