누가복음 QT28 220209수【귀신을 쫓아낸다는 것】누가복음 11장 14~28

누가복음 11장 14~2811:14 예수께서 한 벙어리 귀신을 쫓아 내시니 귀신이 나가매 벙어리가 말하는지라 무리들이 기이히 여겼으나11:15 그 중에 더러는 말하기를 저가 귀신의 왕 바알세불을 힘입어 귀신을 쫓아낸다 하고11:16 또 더러는 예수를 시험하여 하늘로서 오는 표적을 구하니11:17 예수께서 저희 생각을 아시고 이르시되 스스로 분쟁하는 나라마다 황폐하여지며 스스로 분쟁하는 집은 무너지느니라11:18 너희 말이 내가 바알세불을 힘입어 귀신을…

ルカの福音書 QT27 220208火【求める者に与えられるもの】ルカ 11章 1~13

ルカ 11章 1~1311:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」   弟子の一人がイエス様に祈り方について質問したとき、イエス様が教えてくださったのが「主の祈り」であり、私たちはそれを暗記しています。主の祈りを唱えるたびに、それが礼拝儀式で形式的に言い返すのではなく、イエス様がこう祈りなさいと教えてくださった祈りの公式、原則であることを思い起こさなければなりません。主の祈りの中にある主題を見つけ、それに私たちの心と日常を適用すれば、私たちが祈るべきものが何であるかが分かります。   今朝の本文は、主の祈りで終わらず、5節以降にイエス様のもう一つのたとえ話につながります。これのテーマも祈りです。主の祈りと離れている別の話ではなく、主の祈りを教えた後にそれを具体的に例示しているものです。ある人に家に夜、友達がやってきて、その友人をもてなしたかったのですが、パンがなかったので、隣人にパンを借りに行った話です。   隣人はすでに夜が深く、扉を閉まったので、貸すことができないと断りましたが、イエス様は義理のためには貸さなくても、あきらめず求め続けることで、結局は与えられると言われます。あきらめずに祈るということ、与えられるまで祈り続けるということです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。9,10」   もしかしたら、この聖句を基に祈りましたが、答えられなかった経験があるかもしれません。長い間、たくさん祈ると答えられると信じて祈り続けましたが、自分が思っていたどおりに与えられなかったことです。私にはあります。本文の最後の部分を見ると、この祈りの正体が明らかになります。求めているのは、5節の「三つのパン」、8節の「必要なもの」、そして9節、10節の「求めるべきもの」、「探すべきもの」、「開くべきもの」、11節と12節で子どもが求める「魚と卵」です。そしてそれらと呼応する最後のもう一つの言葉は、13節の「聖霊」です。   友人をおもてなしするために受け取らなければならないのは聖霊です。私たちがとりなしの祈りをどのようにしてきたのかを考えると、祈りが答えられなくて失望する人はおそらくいないと思います。神様は利他的なとりなしの祈りに答えてくださいます。愛なしでは真似も出せません。もし私たちが自分の欲求を下ろし、お互いの必要のために絶えずとりなして祈りるなら、それぞれの祈りが答えられると思います。ところが、いつまでも利己的で欲張りの私たちはそれができません。できるためには聖霊様が必要です。   私はこの例え話が主の祈りの中でも11章4節のためのイエス様の説明であると思います。「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。」聖霊がうちにおられなければできないことだからです。

누가복음 QT27 220208화【구하는 자가 받는 것】누가복음 11장 1~13

누가복음 11장 1~1311:1 예수께서 한 곳에서 기도하시고 마치시매 제자 중 하나가 여짜오되 주여 요한이 자기 제자들에게 기도를 가르친 것과 같이 우리에게도 가르쳐 주옵소서11:2 예수께서 이르시되 너희는 기도할 때에 이렇게 하라 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며 나라이 임하옵시며11:3 우리에게 날마다 일용할 양식을 주옵시고11:4 우리가 우리에게 죄 지은 모든 사람을 용서하오니 우리 죄도 사하여 주옵시고 우리를 시험에…

ルカの福音書 QT26 220207月【信仰と法】ルカ 10章 25~42

ルカ 10章 25~4210:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」   良きサマリア人のたとえ話が始まったのは、神様を愛し、隣人を愛するという教えの実例編です。数日前、息子の学校の作文の宿題を親に助けれてもいいということて手伝いました。テーマは「善きサマリア人の法の制定に賛成するのか、反対するのか」でした。危機に陥った人がゴールデンタイムで現場にいた人の助けを受けることができれば命が助かります。ですから、善きサマリア人の法は、緊急の人を助けなければならない義務を規定する法律です。牧師が子どもの宿題に良きサマリア人の物語を扱ったので、聖書の背景と主題を少し説明しました。それから結論的に「反対」する立場を論述しました。   「良きサマリア人の物語は、新約聖書のルカ福音に出てくるイエス様がなされたたとえ話です。あるサマリア人が困ったユダヤ人に会ったが、そのまま通り過ぎずに助けてくれた話です。しかし、同族のユダヤ人の祭司とレビ人は、困難なユダヤ人を見ましたが、そのまま通り過ぎてしまいました。この良きサマリア人の教訓は、多くの人々が知っており、誰もが良いことであると認めています。ということで、もうすでに良きサマリア人の法を制定し、施行している国もあると聞きました。韓国においても良きサマリア人法を制定する動きがあります。良きサマリア人のような人が大勢いて、困難な人々が助かる良い社会になればとてもいいと思います。   しかし、法というのは強制性を持っています。良きサマリア人の法律を制定すると、良いことを法的に強制することになります。助ける人が危険が伴うときも義務的に助けなければならないのかという議論もあり得るでしょう。定められた法に違反すると処罰することは当然ですが、法をもって良いことを強制することはできないと思います。空腹の人にパンを与えるのは確かに良いことですが、パンを与えなかったということで処罰を受けてはならないからです。だから、良きサマリア人は必要ですが、それは社会の道徳と市民意識の成熟がしなければならないことであり、法律で強制することではありません。したがって、私は良きサマリア人は大賛成ですが、良きサマリア人の法の制定は反対します。」   当初、この物語は永遠のいのちを受け継ぐ信​​仰についてのことでした。良いこと、信仰の働きは強制することができません。だから、イエス様がこの自発的なサマリア人の模範を語られたのです。良きサマリア人の法制化に反対する理由は、当時イエス様が頑なになった律法の弊害に反対しながらこの話をされたからです。作文で語った「社会の道徳と市民意識の成熟」というのは、すなわち「憐れみを実践する信仰」です。律法を読んでみると悪いことはありません。しかし、強制された律法は、神を愛し、隣人を愛することを妨げます。体制がないと混乱してしまいますが、体制が整えられると、本質が転倒されやすいです。信仰と善を守る完璧なシステムはありません。ということで、今朝の本文にあるマリアはよいことをしました。自分の義を表すために多くの働きをするよりも、みことばで自分を照らし、礼拝の場にとどまる方がほど有益です。  

누가복음 QT26 220207월【믿음과 법】누가복음 10장 25~42

누가복음 10장 25~4210:25 어떤 율법사가 일어나 예수를 시험하여 가로되 선생님 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까10:26 예수께서 이르시되 율법에 무엇이라 기록되었으며 네가 어떻게 읽느냐10:27 대답하여 가로되 네 마음을 다하며 목숨을 다하며 힘을 다하며 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하고 또한 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라 하였나이다10:28 예수께서 이르시되 네 대답이 옳도다 이를 행하라 그러면 살리라…

ルカの福音書 QT25 220205土【あいさつしてはいけないこと】ルカ 10章 1~16

ルカ 10章 1~1610:1 その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。10:2 そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。10:4 財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい。道でだれにもあいさつしてはいけません。10:5 どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。10:6 そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。10:7 その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。10:8 どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。10:9 そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。10:10 しかし、どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。10:11 『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』10:12 あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。10:13 ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。10:14 しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。10:15 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」   イエス様は弟子たちに伝道のために地域を訪問すると、「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい」と言われました。9章に続いて、伝道者の財政観が繰り返されます。伝道者ある家に定住し、他の家に移らないようにと言われ、働く者が報酬を受けるのは当然だと言われました。その中に目立つ言葉があります。「道でだれにもあいさつしてはいけません。4」と言われたことです。挨拶しないということはどういうことでしょうか。   黙想を公開するところなので、今朝も私の話をしたいと思います。10年間の留学生活を終えて宣教師派遣のため、韓国にしばらく帰っていた間に2011年東北大震災が起きました。その年4月に東京の神学校へ入学の予定でしたが、日本は混乱に陥り、航路は途切れ、飛行機が飛びませんでした。   ある教会で私が日本に遣わされたら、初期費用の一部を支援するというありがたい提案がありました。それで私が教会に訪れましたが、それは実行できませんでした。帰ってくる道で偶然と日本で一緒に留学した知人に会いました。知人の夫婦は、日本の神学校の入学のために日本に入るということを聞いて飛び出て出金をし、宣教献金ですといいながら私に渡しました。うかとそのお金を受け取り、感謝の言葉もきちんとできず、逃げるように帰ってきました。   実は飛行機が飛ばないだけでなく、航空券を購入するお金もありませんでした。そのお金は正確に3人家族の航空券の金額でした。助けがあると思ったところでは助けられず、帰り道に予期せずに出会った人から助けられました。その時、神様は私に二つのことを言われました。まず、「今が日本に入る時である」ということです。私たちは空港で待機して、誰もいないまるで貸し切りのような飛行機に乗って日本に入ってきました。   神様から言われたもう一つは、「人に求めるな」ということです。人は大切です。助けたり、助けられたり、互いに協力しなければなりません。しかし、伝道者が人に頼ってはいけません。それはおそらく他のすべての仕事も同じであると思います。宣教師で遣わされるなら、神様に頼って行かなければなりません。「道でだれにもあいさつしてはいけません」は、その意味が難しかったですが、その日、神様が私に言われた「人に求めるな」であると理解しています。   日本に到着しましたが、入学するお金はありませんでした。奉仕していた市川福音キリスト教会に、韓国の教会から宣教献金が入ってきたことがありますが、先生がそれを両替すると、私の入学金と学費とぴったりであってそうです。私がいない間、教会と先生はそれを私の入学金と授業料として支払ってくださいました。ということで、入学ができ、そのように始めた第2の日本の生活はこれまで欠けがありません。後に、財政に苦しんでいた神学校も、私に奨学金を与えてくださいました。私は日本で教会を起こし、神学校に財政サポートと献身者の人材を送りますと約束しました。   働き手はただ働きます。そのために人にあいさつしません。もちろん、人の愛と思いやりによって伝えられ、与えられることをよく知っています。その感謝を忘れてはいけません。そして受けることよりも与えることが幸いであることもよく知っています。受けることが証ではなく、分け与えることが証になるためにさらに流さなければならないと思っています。神の国の財政は、それを知る人々の信仰の循環の中で豊かになってきます。ここに告白します。究極的に、神様のみが私の唯一かつ完全な供給者です。

누가복음 QT25 220205토【아무에게도 문안하지 말며】누가복음 10장 1~16

누가복음 10장 1~1610:1 이후에 주께서 달리 칠십인을 세우사 친히 가시려는 각동 각처로 둘씩 앞서 보내시며10:2 이르시되 추수할 것은 많되 일군이 적으니 그러므로 추수하는 주인에게 청하여 추수할 일군들을 보내어 주소서 하라10:3 갈지어다 내가 너희를 보냄이 어린 양을 이리 가운데로 보냄과 같도다10:4 전대나 주머니나 신을 가지지 말며 길에서 아무에게도 문안하지 말며10:5 어느 집에 들어가든지 먼저 말하되 이…

ルカの福音書 QT24 220204金【わたしに従って来なさいと言われても】ルカ 9章 51~62

ルカ 9章 51~629:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。9:52 そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした。9:53 しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。9:54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」9:55 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。9:56 そして一行は別の村に行った。9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」9:59 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」9:60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」9:62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」   イエス様がエルサレムに向かっているのは、十字架を背負うためです。十字架への道の上でも、人々はイエスを信じませんでした。病人と悪霊を追い出しましたが、人々はイエス様を受け入れませんでした。イエス様が何をしても、自分が信じるものを捨てない限り、イエス様を信じることはできません。それは今でも同じです。自分に信じるものがある限り、イエス様を信じることはできません。イエス様が拒絶されているのを見て怒りを覚えた弟子たちは、彼らを火で滅ぼすべきだと呪いますが、イエス様はそれも叱責され、他の場所に移動されます。   イエス様がどこに行っても弟子たちは従いますと公言します。このような稚気ある弟子たちに、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と言われます。すべての動物と人が自分の住む所を作って住んでいるわけですが、イエス様が特にキツネと鳥にたとえた理由を考えてみました。キツネは狡猾で、空中の鳥は鷲です。キツネと鷲は腐った肉を食べます。狡猾で腐ったものを食べる者が力と富を得、誇っていますが、十字架の道はそれを追い求めるものではないということでしょう。   今朝の説教は、箴言28章の「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。1」でした。「追う者もいないのに逃げる」という言葉は何か痛いです。イギリスの心理学者スティーブ・テイラーが「現代人は少しずつ狂っている」と言いましたが、認めざるを得ない診断だと思います。不安でなければ耐えられない現代人はすべてそうです。誰も追いかけてくる者がいないのに、リスがチェンホイールで回るように飛び回ります。獅子に追ってくるなら逃げるだろうが、追ってくる獅子はいません。ただ、自分が被害意識も持たず、獅子のように大胆に生きれば良いのです。   日常は重要です。生きるということは、いかに幸いなことでしょうか?どんな人生であっても、人生という贈り物を受けた人間は幸いです。しかし、使命を受けた人は日常に縛られません。優先順位を決めるということは、重要なものと重要でないものを区別し、重要ではないものを捨てるためのではありません。すべてのものに対して意味を守るためです。   イエス様に召された人々がイエス様に条件をかけました。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」ということです。イエス様は親をなくした人に葬儀もさせない、家族に挨拶もさせないような方ではありません。父親を葬るというのは、親を扶養し、後でなくなったら従いますということです。親を奉養しないこの時代の言葉に置き換えれば、退職し、子どもたちを結婚させてから従いますということです。   それは時間的な優先順位ではなく、価値の優先順位です。自分が価値があると思うことに先に従うだけです。捨てないと従えません。そして従わなければ握っていたことも取れなくなります。個人的に親がなくなったばかりなので、よく思い出します。親が望んでいた出世のところか、心配ばかりかけたことと、老いて病気にかかった親を寂しくおいていたことが、思い出す度に申し訳ないです。誰でも子どもなら皆そう思いますし、言い訳の余地もありませんが、すべての人は親から離れ、神様の言葉と召しの前に一人で立たなければなりません。自ら聞き従い、身をささげなければなりません。それが優先順位です。

누가복음 QT244 220204금【나를 좇으라 하셔도】누가복음 9장 51~62

누가복음 9장 51~629:51 예수께서 승천하실 기약이 차가매 예루살렘을 향하여 올라가기로 굳게 결심하시고9:52 사자들을 앞서 보내시매 저희가 가서 예수를 위하여 예비하려고 사마리아인의 한 촌에 들어갔더니9:53 예수께서 예루살렘을 향하여 가시는고로 저희가 받아 들이지 아니하는지라9:54 제자 야고보와 요한이 이를 보고 가로되 주여 우리가 불을 명하여 하늘로 좇아 내려 저희를 멸하라 하기를 원하시나이까9:55 예수께서 돌아보시며 꾸짖으시고9:56 함께 다른 촌으로…

ルカの福音書 QT23 220203木【不信仰な曲がった時代】ルカ 9章 37~50

ルカ 9章 37~509:37 次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。9:38 すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。9:39 ご覧ください。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。9:40 あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」9:41 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」9:42 その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。9:43 人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。イエスがなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。9:44 「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」9:45 しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。9:47 しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」9:49 さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」9:50 しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」   イエス様が祈っていた間に、弟子たちは町である親に息子に入っている悪霊を追い出すようと頼まれましたが、できませんでした。親は息子を連れてイエス様を直接訪れました。これを聞いたイエス様はこう言われます。「イエスは答えられた。ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」マタイ、マルコ、ルカがともにこれを記していますが、この厳しい言葉はイエス様が悪霊につかれた子の親にしたことではなく、「弟子たち」に言われた言葉です。   マタイの福音書とマルコ福音書では、後に弟子たちがイエス様になぜ自分たちは悪霊を追い出せなかったですかと質問しますが、それぞれの答えはこうです。 「マタイ 17:20 あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」。「マルコ9:29この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」信仰がない、または祈りが足りないということですが、それだけではわかりにくいです。信仰と祈りの充分な分量が分からないからです。   イエス様が祈っておられた時に弟子たちが町で病気を治し、悪霊を追い出そうとしていたこと、そして悪霊につかれた息子の親がイエス様のところに来て弟子たちを恨みながら、つげぐちをしたこと、そして今朝の本文、ルカの福音書の中で、誰が偉いなのかをめぐって議論が起こったこと、それにイエス様が」「一番小さい者が、一番偉い」と言われたことなどを考えると、弟子たちはすでにイエス様の権威と自分たちに委任された力を信じて、町で賑わっていたかもしれません。イエス様は、それを「不信仰な曲がった時代」と懲らしめられたのではないでしょうか。   これに関連して、マタイの福音書の7章の言葉で確認できるいくつかの事実があります。イエスの権威と力は、聖徒に与えられるということですが、それ自体が信仰の証ではなく、それが信仰を証明するでもないということです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』7:21‐23」主の名によって多くの「権能」を行ったとしても、イエス様は「不法」を行う者、その人を知らないと言われます。マタイによる福音書の7章の「不法」は、今日、ルカによる福音書の「曲がった時、不信仰」です。仕えようとせず、信仰が地位になるとき、それが信仰のないものになり、曲がった時の不法になります。