누가복음 QT44 220228월【하나님의 나라】누가복음 17장 20~37

누가복음 17장 20~3717:20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요17:21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라17:22 또 제자들에게 이르시되 때가 이르리니 너희가 인자의 날 하루를 보고자 하되 보지 못하리라17:23 사람이 너희에게 말하되 보라 저기 있다 보라 여기 있다 하리라…

ルカの福音書 QT43 220226土【骨まで高慢】ルカ 16章 19~31

ルカ 16章 19~3116:19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。16:20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。16:21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。16:22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。16:23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。16:24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』16:25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。16:26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』16:27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。16:28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』16:29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」   イエス様の「乞食ラザロのたとえ話」を読むと、金持ちがラザロに直接に悪を行ったことはないと思われます。ただし、金持ちはすべてに豊かでしたが、その家から落ちる物で食べていたラザロにはけちだったようです。乞食にはラザロという名前がありますが、金持ちには名前がありません。ラザロは、たとえ乞食として生きていましたが、自分の名前が与えられていますが、イエス様は、名が知られていたはずの金持ちには名前を付けてくださいませんでした。彼は自分の名前に代わるものを持って生きたからです。金持ちという名前に置き換えられる「お金」で粘鉄した人生だからです。   金持ちといっても大きい財閥ではありません。町の中で比較的に金持ちです。金持ちは自分で豊かだとは思いません。依然として不足しているものがあり、さらに満たさなければならないという欲を持っています。ということでイエス様は、乞食ラザロを一緒に登場させることによって金持ちがどれだけ祝福されたのがを表します。   ラザロは死後に天国に行き、金持ちは地獄に行きました。聖書は空間的な意味での地獄についてあまり描写していませんが、稀に地獄について描かれたのがここです。ということで、ルカ16章に基づき、「地獄には水一滴の憐れみがないところ」と言っています。渇いた人間に水一滴の慈悲がないなら、地獄というところは、苦痛というより残酷という言葉がもっと似合うかもしれません。金持ちは死んで地獄に行ったのではなく、地獄で生きて地獄に行ったことではないでしょうか。飢え渇いた者に憐れみがないという生き方をして、死んでからその水一滴の慈悲がないところに行ったので地獄であることは変わりません。   金持ちは後悔しているようですが、反省はしていません。金持ちは、自分の家族が地獄に来るかと心配してラザロを自分の家に送ってもらいたいと願います。確かに家族は愛していたようです。アブラハムはこう答えます。「神様のみことばが既にあるので、みことばを読んで守る人は地獄に来ることがありません」と言いますが、金持ちはそうではないと言い張ります。「地獄に行ってそれを経験しなければ、みことばを信じられない」ということです。愚かさが罪です。アブラハムは言います。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」   金持ちは「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。24」「ラザロを私の家族に送ってください。27」など、いろいろ求めますが、金持ちは、まだ、ラザロが自分の家の前で物乞いをしている乞食であると思っているようです。地獄の中であっても高ぶります。骨まで高慢で地獄の中でも人を差別し、自分勝手に動かそうとする金持ちを見ると、果たして地獄は地獄かと思いました。神様が悔い改めない人を地獄を送って悔い改めさせるのではなく、地獄に行っても悔い改めない人が集まる所が地獄であることが分かりました。  

누가복음 QT43 220226토【뼛속까지 교만】누가복음 16장 19~31

누가복음 16장 19~3116:19 한 부자가 있어 자색 옷과 고운 베옷을 입고 날마다 호화로이 연락하는데16:20 나사로라 이름한 한 거지가 헌데를 앓으며 그 부자의 대문에 누워16:21 부자의 상에서 떨어지는 것으로 배불리려 하매 심지어 개들이 와서 그 헌데를 핥더라16:22 이에 그 거지가 죽어 천사들에게 받들려 아브라함의 품에 들어가고 부자도 죽어 장사되매16:23 저가 음부에서 고통 중에 눈을 들어 멀리…

ルカの福音書 QT42 220225金【不義の管理者の知恵】ルカ 16章 1~18

ルカ 16章 1~1816:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。16:13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。16:17 しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。16:18 だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。   今朝の本文では、一人の管理者がオーナーから預けた資本をうまく管理することができず、無駄にしたことで解雇されます。解雇によって生活が困難になる管理者は、オーナーにお金を借りた人々を呼んで部分的ですが、その債務額を免除しました。それは、自分がオーナーに追い出されても彼らが恵みを忘れずに、助けてくれると思ったからです。確かに越権行為で文書偽造です。ところが、オーナーはむしろ彼を賢いといって褒めます。これが職場を移動するときに会社公金を流用するまたは会計操作することが賢いということではないでしょう。   このたとえ話は難しいです。注釈の意見を探してみましたが、どんな解釈もどこか理解できない部分が残ります。ただ、このたとえ話を通して語られる結論的なメッセージは、まず、小さなことに忠実であること、次はお金に仕えないこと、最後は人の上に立たないことです。しかし、たとえ話の解釈をその結論を一致させることは難しいです。この本文はこれからの課題にしてもう少し勉強してみたいと思います。   できる限りを考えると、ここでイエス様は物質の世俗的な属性を認めています。それは腐敗しやすく、汚れやすいものです。お金が不義ではなく、人間の不義がお金に触れるので、お金が不義になります。人間に貪欲がある限り、お金は不義になる危険にさらされています。お金を利子なしで貸し、物を利益なしで売ることはありません。利率を策定することも返済期日を定めることもオーナーではなく、オーナーに委任された管理者です。ユダヤ社会に高利貸し業は律法で禁止されており、高利によって人々の心を失い、資金回転を鈍らせるなら収益率は落ちてしまいます。それらすべてが管理者の責任です。   管理者が債務者の債務を一部減免してくれたのは、もしかして管理者が金額を正し、会計精算をしたことかもしれません。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」という言葉は、お金は不義になりやすいですが、それでも神様の管理者はそれを持って善用しなければならないということです。管理者の解雇を人間の死と考えると、理解しやすいです。お金とともにこの地に生きていますが、人間は死後を考えなければなりません。経済活動は不可欠なことでありますが、それに貪り、執着してはいけません。与えられた財政と権限を自分の欲望ではなく神様が委任されたことに善用しなければなりません。管理者が解雇されたのは、貪欲という他の主人に仕えていたからかもしれません。   このたとえ話を通して、イエス様が整理してくださった三つの結論はすでにいいました。小さなことに忠実であること、お金に仕えないこと、人の上に立たないことです。小さなことだから忠実しないことと、お金にこだわること、自分が人より優れていると思うことはすべて欲から出るものです。「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」その欲心を捨てて管理者になるとき、賢くなります。

누가복음 QT42 220225금【불의한 청지기의 지혜】누가복음 16장 1~18

누가복음 16장 1~1816:1 또한 제자들에게 이르시되 어떤 부자에게 청지기가 있는데 그가 주인의 소유를 허비한다는 말이 그 주인에게 들린지라16:2 주인이 저를 불러 가로되 내가 네게 대하여 들은 이 말이 어찜이뇨 네 보던 일을 셈하라 청지기 사무를 계속하지 못하리라 하니16:3 청지기가 속으로 이르되 주인이 내 직분을 빼앗으니 내가 무엇을 할꼬 땅을 파자니 힘이 없고 빌어 먹자니 부끄럽구나16:4내가…

ルカの福音書 QT41 220224木【放蕩息子の兄】ルカ 15章 11~32

ルカ 15章 11~3215:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」   本日は「放蕩息子のたとえ話」です。失われた羊のたとえ話で、九十九匹の羊がパリサイ人と律法学者であると言いましたが、そうであるなら放蕩息子の話でも、パリサイ人と律法学者が誰かの姿で隠れているはずです。それが放蕩息子の兄です。イエス様は、宗教的、道徳的に優れていると自負していたパリサイ人と律法学者を兄と重ね、たとえ話でおられます。放蕩息子のたとえ話は、放蕩息子の道徳性と父の赦しに焦点を置きがちですが、父が兄に弟を受け入れるように頼んでいるというメッセージを見逃してはならなりません。ティム・ケラーの本『放蕩sする神』(The Prodigal God)で「イエス様が教えておられる対象は、不道徳な外部の人ではなく、道徳的な内部の人である」と言いました。逆説的で、恐ろしいですが、パリサイ人と律法学者が神様に近づけないのは、彼らの「罪」のためではなく、彼らの「自己信仰」のためです。変化と改革の対象は未信者ではなく、「自己信仰」で歪んでいて教会の中にいる人であるということです。ティム・ケラーは、正鵠を射り、「あなたの罪悪と良い行いの両方の背後に自ら救い主になりたいという渇望が隠れている」と言います。   数日前、アンドレ・ジッドの『狭き門』について書いたことがありますが、宗教主義に反対していたアンドレ・ジッドは『放蕩息子の帰宅』も書きました。アンドレ・ジッドの『放蕩息子の帰宅』には、放蕩息子が家を出たのが、父が嫌いだからではなく、宗教主義の兄を避けて逃げたのだと言います。彼は父から離れたことがなく、ただ、家を離れたということです。つまり、父は神様であって神様を離れたことはなく、家は宗教をいい、宗教から離れたということです。形式化され、規範化された教会を離れたということです。この話には聖書にはない放蕩息子の弟が登場します。逃げられず、帰ってきた放蕩息子は、弟には宗教から抜け出すように家出を誘います。『狭き門』と『放蕩息子の帰宅』は、宗教主義に窒息していたアンドレ・ジッドの悲鳴のような物語りです。イエス様の放蕩息子のたとえ話も、究極的に罪人を受け入れない宗教主義者たちを懲らしめているのです。放蕩息子に向かって回心しなさいというより、先に兄​​が悔い改めをしなければなりません。

누가복음 QT41 220224목【탕자의 형】누가복음 15장 11~32

누가복음 15장 11~3215:11 또 가라사대 어떤 사람이 두 아들이 있는데15:12 그 둘째가 아비에게 말하되 아버지여 재산 중에서 내게 돌아올 분깃을 내게 주소서 하는지라 아비가 그 살림을 각각 나눠 주었더니15:13 그 후 며칠이 못되어 둘째 아들이 재산을 다 모아가지고 먼 나라에 가 거기서 허랑방탕하여 그 재산을 허비하더니15:14 다 없이한 후 그 나라에 크게 훙년이 들어 저가…

ルカの福音書 QT40 220223水【悔い改めない九十九匹の羊】ルカ 15章 1~10

ルカ 15章 1~1015:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」   九十九匹の羊と失われた一匹の羊のたとえ話しも、置かれている状況というものがあります。たとえ話は、どのような状況でどのような主題をもって語られたのかを考えながら理解しなければなりません。イエス様はユダヤ社会が禁じていた取税人たちや罪人たちと一緒に食事をしたことで非難されていました。イエス様はその状況で取税人たちや罪人たちと一緒に食事される理由を言われながら、失われた羊のたとえ話をされました。ですから、ここで失われた羊一匹というのは、取税人や罪人であるに違いありません。   それでは、悔い改める必要のない正しい人とは誰でしょうか。すでに悔い改めて正しくなった人でしょうか?それとも悔い改めをせず、自称の義人を言い続ける人しょうか?悔い改めもせずに正しいと言い張るのはパリサイ人と律法学者です。九十九匹の羊はおそらく彼らです。イエス様は、取税人や罪人を悔い改めさせるために来ましたが、自分で正しいと自負するパリサイ人と律法学者を救うために来られたのではありません。5章32節には、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」と結論しました。自称の義人は招かれていません。   イエス様は、1%の失われた少数を救うことを、99%の多数を救うことよりも喜ばれました。ということからこれを「博愛」とは思えません。明らかに差等があります。1%を埋め込んで100%を満たそうではありません。99%と同じ1%でもありません。100%に含まれる1%でもなく、99%より大切な1%を救うことが目的です。   イエス様は1%に目を止められました。99%の律法主義者ではなく、1%の悔い改める人が選ばれた人です。悔い改める必要のない正しい人、つまり、決して悔い改めない自称の信仰の九十九人ではなく悔い改める一人のためです。上位1%ではなく、罪人1%が救われるのが100%の恵みです。多数より少数、家出した羊を好むことではありません。罪を悟り、悔い改める心を好まれます。そしてイエス様それを憐れみ、救うことを喜ばれます。

누가복음 QT40 220223수【회개하지 않는 아흔 아홉 마리 양】누가복음 15장 1~10

누가복음 15장 1~1015:1 모든 세리와 죄인들이 말씀을 들으러 가까이 나아오니15:2 바리새인과 서기관들이 원망하여 가로되 이 사람이 죄인을 영접하고 음식을 같이 먹는다 하더라15:3 예수께서 저희에게 이 비유로 이르시되15:4 너희 중에 어느 사람이 양 일백 마리가 있는데 그 중에 하나를 잃으면 아흔 아홉 마리를 들에 두고 그 잃은 것을 찾도록 찾아 다니지 아니하느냐15:5 또 찾은즉 즐거워 어깨에…

ルカの福音書 QT39 220222火【献身が能力の源です】ルカ 14章 25~35

ルカ 14章 25~3514:25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。14:28 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。14:29 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、14:30 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。14:32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。14:33 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」   今日の本文には、私たちが知っているいくつかの話が絡み合っており、またつながっています。今まで私たちは、つながっている文脈ではなく、切れた文章で理解していましたが、本文は重要な意味を持つ接続詞を用いながらイエス様が言われようとする主題を一貫して伝えています。   イエス様の共同体に人々が増え始めました。イエス様はその時に厳しく言われます。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。26,27」量的な成長が起きた時、それが目的ではないことを強調するよう、群衆や組織の中で薄くなっていく「完全な献身」に対する警戒を語られたのです。   そしてイエス様はいつものように、この主題を説明するためのたとえ話をされました。それは「塔を建てること」と「王が戦いを備えること」です。塔を建てる人は、全工程の工事規模と予算を立て、工事の可能性を計ってから工事を着工しますし、王が相手の国と軍事力を計ってから戦争を始めるという話です。ところが、すべてを捨てて従いなさいと言われた「弟子道」と「作業工程と予算策定、軍備比較」という教訓がよくつながりません。この話は、よく計算して、予算を立てなければならないという意味ではありません。無理であると判断したら、あきらめたり、予算が足りないと思ったら、仕事を始めないという教訓ではありません。   イエス様はこのたとえ話が終わった後、33節を通して結論を​​下しますが、まず、それを確認します。 33節は「そういうわけで」(ウトス、οὕτως)で始まりますが、 (ウトス、οὕτως)という言葉は、先に出た内容の原因として結果を語るための接続副詞です。マタイの福音書 7章 12節の「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」では(ウトス、οὕτως)が「ですから」に翻訳されました。   結論の33節の全体を読んでみると、「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」とあります。すべてを捨てることができなければ、イエス様の弟子になることはできないということと、塔を建てることと王が戦いを備えるという例え話の目的は、明らかに「完全な献身」を語られるのが分かります。塔を建てることと王の戦いの話は、規模を見積もることを知る知識の校訓ではありません。文脈に沿って理解すれば、イエス様は「完全な献身」の意味でこのたとえ話をされたことが明らかです。   献身は一時的なものではなく、塔が完成するまですることであり、献身は戦いを始める時ではなく、戦いが終わり、勝利するまですることです。口で塔を建てると言うのが信仰ではなく、戦うと言うのも信仰ではなく、それに最後まで献身するのが信仰です。神様を信じて従う献身より、計算が早ければ従えないということです。イエス様に従うときは、完全な献身を覚悟しなければなりません。イエス様は人に献身を頼みません。   ここでもう一つ、文章として理解していたみことばが34節に続きます。「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。34」翻訳されていませんが、ギリシャ語の原語には、この文章にも「オーン、οὖν」という接続副詞がありました。これも「ですから」という因果関係を示す言葉です。ですから、「完全な献身」こそ「塩味」を出すということです。自分のための執着を捨てる力、キリストに従う力、塔を竣工する力、戦いに勝つ力、塩味を出しながら生きる力が「完全な献身」から出るということです。朝の御言葉が文脈につながることを見つけて嬉しかったです。そして今朝の本文は35節で終わります。 「聞く耳のある者は聞きなさい 35」