누가복음 QT21 220201화【전도자와 오병이어】누가복음 9장 1~17

누가복음 9장 1~179:1 예수께서 열 두 제자를 불러 모으사 모든 귀신을 제어하며 병을 고치는 능력과 권세를 주시고9:2 하나님의 나라를 전파하며 앓는 자를 고치게 하려고 내어 보내시며9:3 이르시되 여행을 위하여 아무 것도 가지지 말라 지팡이나 주머니나 양식이나 돈이나 두 벌 옷을 가지지 말며9:4 어느 집에 들어가든지 거기서 유하다가 거기서 떠나라9:5 누구든지 너희를 영접지 아니하거든 그 성에서…

ルカの福音書 QT20 22031月【娘よ】ルカ 8章 40~56

ルカ 8章 40~568:40 さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。8:42 彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。8:43 そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。8:44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。8:45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。8:46 しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」8:47 彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。8:48 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」8:49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」8:51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。8:52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」8:53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。8:54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」8:55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。8:56 両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。   本文でイエス様が二人の女性を救われます。女性の名前は不明ですが、ただ一人は12歳で、その父はユダヤ人の会堂司ヤイロです。もう一人の女性は長血をわずらっている病気の人です。12歳の少女が病気になって死にかかっています。父ヤイロは、イエス様に駆け寄って助けを求めました。それでイエス様はヤイロの家に向かわれます。   この話が終わる前にもう一人の女性が出てきます。彼女は12年間長血をわずらい、すべてを失ったかわいそうな人でした。長血というのは、下血が止まらない婦人病です。12年間、いわば不正な病気にかかって疎外されたので、家族も財産も残っていなかったと思います。彼女は少なくとも中年です。ヤイロよりも年うえかもしれません。一人は12歳の少女で、もう1人は12年を闘病した中年の女性です。二人ともその事情が悲しいです。少女は幼くて悲しく、中年の女性はその長い喪失の時間が悲しいです。   長血の女性が人々の間に手を差し出してイエス様の裾に触れました。ヤイロがイエス様なら娘を生かされると思ったように、女性もイエス様の服に触れることだけて癒されるという信仰を持っていたからです。女性がイエス様の裾に触れた時、イエス様がその場で止まりました。おそらくイエス様が止まってからすぐに話をした人はヤイロだったとおみます。 「イエス様!なぜ、止めますか?時間がないです。私の娘が死んでいきます。急いで行かなければなりません。」   この女性は、イエス様の前に出てきて、恐れています。長血にわずらっていたので、ぼろぼろの女性の服には血痕が付いていたかもしれません。女性は人々が注目している中で身の置く所なく立っていました。ヤイロは娘のためにイエス様を促していましたが、このの女性のために何かをしてくれる人は誰もいませんでした。女性は、そんな悲しみの中で幼いごろのお父さんを思い出したかもしれません。この女性も12歳の時があったでしょう。お父さんはもうすでに亡くなり、娘も老いて病気です。自分のために泣いてくれる、助けてくれるお父さんはいません。うんざりしていたかもしれません。   死んでいく娘を生かしてもらいたいと隣で促しているヤイロ、老いて頼るところのない病気の女性、その間に立っていたイエス様がこの女性を呼びます。「娘よ」と呼ばれます。イエス様が娘よ!と呼ばれたのは、病気だけを見たのではなく、心も見たことです。イエス様は「娘」の体と心を癒した後、ヤイロの娘も生かします。かわいそうな女性に「娘」と呼んだイエス様の声帯の響きが耳元に長く残っていました。

누가복음 QT20 220131월【딸아】누가복음 8장 40~56

누가복음 8장 40~568:40 예수께서 돌아오시매 무리가 환영하니 이는 다 기다렸음이러라8:41 이에 회당장인 야이로라 하는 사람이 와서 예수의 발 아래 엎드려 자기 집에 오시기를 간구하니8:42 이는 자기에게 열 두살 먹은 외딸이 있어 죽어감이러라 예수께서 가실 때에 무리가 옹위하더라8:43 이에 열 두 해를 혈루증으로 앓는 중에 아무에게도 고침을 받지 못하던 여자가8:44 예수의 뒤로 와서 그 옷가에 손을…

ルカの福音書 QT19 22029토【信仰の家族】ルカ 8章 19~25

ルカ 8章 19~258:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。8:20 それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。8:21 しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」   マタイの福音書10章にある、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。37」を読んで、信仰の初期に引っ掛かったことがあります。神様より家族を愛してはならないという制限は、受け入れ難いものでした。   周りに聞いてみましたが、明解な答えはありませんでした。読み続けるうちにさらに厳しい言葉もありました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。ルカ14:26」   高齢の親に仕えることはせずに、遺産をめぐって兄弟と争い、子どもは自分の代理満足とする時代の群衆 を考えると、家族を愛するためにイエス様を愛することができないというのはまったく言い訳であることに気づきました。愛に制限容量というものはありません。イエス様に仕えるなら、今よりもっと家族に仕え、、さらに愛することもできます。   イエス様の家族が訪れましたが、イエス様は彼らを追い払い、信仰の共同体が本当の家族であると言われました。これはイエス様が家族を愛していないからでしょうか。イエス様は、十字架の上で、苦しみの中で母の老後を思い、ヨハネに母マリアを頼みました。イエス様の家族は、後にみな信仰の家族になります。   利己主義の中で最も厳しい利己主義は家族利己主義です。自分の家族を愛するなら、隣人とその家族も愛される存在であります。その共感のうえに自分の家族も社会と共同体の中で守られます。共同体において家族利己主義を克服する人が、誰よりも幸せで、互いに愛する暖かい家庭を築きあげることができると思います。

누가복음 QT19 220129토【믿음의 가족】누가복음 8장 19~25

누가복음 8장 19~258:19 예수의 모친과 그 동생들이 왔으나 무리를 인하여 가까이 하지 못하니8:20 혹이 고하되 당신의 모친과 동생들이 당신을 보려고 밖에 섰나이다8:21 예수께서 대답하여 가라사대 내 모친과 내 동생들은 곧 하나님의 말씀을 듣고 행하는 이 사람들이라 하시니라8:22 하루는 제자들과 함께 배에 오르사 저희에게 이르시되 호수 저편으로 건너가자 하시매 이에 떠나8:23 행선할 때에 예수께서 잠이 드셨더니…

ルカの福音書 QT18 22028금【種を抱く地】ルカ 8章 1~18

ルカ 8章 1~188:1 その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。8:2 また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。8:4 さて、大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。8:6 また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。8:7 また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。8:8 また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」8:9 弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。8:12 道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。8:13 岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。8:14 茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。8:15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。8:16 明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。8:17 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。8:18 ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」   本日は、種まきは人のたとえ話です。イエス様はこのたとえ話をした後に解釈もしてくださいました。種は神様の御言葉であり、地はそれを受ける人の心です。最初のたとえは、道端に落ちた種です。皆が聴覚的には聞くことができますが、それが神様の御言葉を聞くことではありません。みことばは耳で聞ききますが、それを考えません。御言葉を噛み砕いて悟らなければ、道端に散らばれた種です。二つ目は、岩の上に落ちた種です。岩の上の種が芽を出すことがありません。聞くことに根がないからです。文字通り御言葉を受ける根性がありません。だから、状況に応じて揺れ動きます。信じているようですが、状況を変われば、状況に沿って行ってしまいます。三つ目は茨の真ん中に落ちた種です。これも同じです。「生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません」のように御言葉を悩まず、世とお金の心配が多いです。現実が恐いので、神様の御言葉を信じるようがはありません。   たとえ話の最後は良い地に落ちた種です。イエス様は良い地についてこう言われました。「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。15」神様の言葉は説明しません。時代や状況に関係なく、その場で宣言されます。ですから、それを聞いて自分の時代と自分の人生に解釈して適用することを省略しては、誰も良い地になって神様の御言葉を受けることができません。牧師の説教に群がる時代には、神様の御言葉はありません。自分が神様の御言葉を聞くことができる人が、牧師の説教からも神様の御言葉を聞くことができます。   「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」の時、「腐心」という言葉を思い出しました。心が腐るということです。地が種を抱かなければ芽は出ないように、人が御言葉を抱かなければ、神様の御言葉が実を結びません。麦は腐りますが、その中にある種目が次の命を発芽させます。自分で腐心して自分の御言葉として発芽させなければ、どんなに聞いてもそれは他人のものです。今日のたとえ話を文脈で位置を確認してみると、多くの人々がイエス様に集まった時です。イエス様は、多くの人々が集まったときに聴衆が多くなったことを喜ばれたのではなく、御言葉を聞くことに対する真偽について警告されたわけであります。今、どの地でいても、それは運命的に固定されていることではありません。心を腐らせ、御言葉を悩むことができる人なら、神様の御言葉をその人に人生の中で実を結ぶ良い地になっていくでしょう。  

누가복음 QT18 220128금【씨를 품은 땅】누가복음 8장 1~18

누가복음 8장 1~188:1 이 후에 예수께서 각 성과 촌에 두루 다니시며 하나님의 나라를 반포하시며 그 복음을 전하실새 열 두 제자가 함께 하였고8:2 또한 악귀를 쫓아내심과 병 고침을 받은 어떤 여자들 곧 일곱 귀신이 나간 자 막달라인이라 하는 마리아와8:3 또 헤롯의 청지기 구사의 아내 요안나와 또 수산나와 다른 여러 여자가 함께하여 자기들의 소유로 저희를 섬기더라8:4 각…

ルカの福音書 QT17 22027木【恵みを愛する人】ルカ 7章 36~50

ルカ 7章 36~507:36 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。7:37 すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。7:38 そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。7:39 イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。7:40 するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。7:41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」7:43 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。7:44 それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。7:45 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。7:46 あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。7:47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」7:48 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。7:49 すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」7:50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」   本文では二人が登場しますが、一人はシモンというパリサイ人で、もう一人は名前が分からない一人の女性です。ただし、彼女は「罪深い女」として登場します。対照的です。パリサイ人は落ち着き、女性はみにくいです。どちらもイエス様に善意を行いました。パリサイ人のシモンはイエス様を自分の家の食事に招き、女性はイエス様に香油を注ぎました。しかし、パリサイ人のシモンは誰にも与える足を洗う水をイエス様に与えませんでしたが、女性は涙と香油でイエス様の足を洗いました。パリサイ人のシモンはそのような女性を蔑視しました。   ここでイエス様は比喩で教えられます。貸し主が一人に五百デナリを、他の人には五十デナリをそれぞれ貸しました。ところが、どちらもお金を返済することができない事情になって、貸し主は2人ともの債務を免除してくれたということです。そしてイエス様はパリサイ人のシモンに聞かれます。「二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか 42」。誰が利益なのかではなくて、それに対して誰が愛するのかと聞かれました。   みことばを照らして自分を観察し、省察しなければならないのは,聖書の知識の以前に自分を知るためです。自分を知って自分の罪を知れば知るほど、赦しの恵みは大きくなってきます。そして神様の恵みを知れば知るほど、自分は神様の前でちっぽけな存在であることに気づきます。イエス様を愛する人は福音に感激する人であり、福音に感激する人は、行いの敬虔な人ではなく、自分の心が罪で悲しむ人です。教会の世俗化と聖徒との争い、葛藤と憎しみは、帳消しにしてもらった負債意識、つまり赦された罪意識のないパリサイ人のような形式的な宗教だからです。   恵みに満ちている聖なる悔い改めの祈りというのはありません。それは自分自身を飾るための巧妙な高ぶりです。悔い改めの祈りとは、恥ずかしくて悲惨なものです。地面に頭をくっ付け、髪の毛で足を洗ってもさらに下がりたくなるもの、もっと隠れたいと思う恥と絶望です。誰かが自分を踏みにじっても抵抗しそうにない自己絶望の状態です。心に罪を気づいた聖徒は福音に感激し、イエス様を愛します。パリサイ人のシモンは自分自身について正しく知っていませんでした。だから、イエス様について知りませんでした。しかし、女性は自分が誰であるかをよく知っていました。だから、イエス様を見ると涙が出てきました。高額の香油よりも彼女の涙が香ばしいです。

누가복음 QT17 220127목【은혜를 사랑하는 사람】누가복음 7장 36~50

누가복음 7장 36~507:36 한 바리새인이 예수께 자기와 함께 잡수기를 청하니 이에 바리새인의 집에 들어가 앉으셨을 때에7:37 그 동네에 죄인인 한 여자가 있어 예수께서 바리새인의 집에 앉으셨음을 알고 향유 담은 옥합을 가지고와서7:38 예수의 뒤로 그 발 곁에 서서 울며 눈물로 그 발을 적시고 자기 머리털로 씻고 그 발에 입맞추고 향유를 부으니7:39 예수를 청한 바리새인이 이것을 보고…

ルカの福音書 QT16 22025水【救いの大きさ】ルカ 7章 18~35

ルカ 7章 18~35 7:18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、 7:19 こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」 7:20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」 7:21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。 7:22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。 7:23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 7:24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 7:25 では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。 7:26 では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。 7:27 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。 7:28 わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。 7:29 ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。 7:30 ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。 7:31 それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。 7:32 広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』 7:33 バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、 7:34 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 7:35 しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」 牢屋に閉じ込められたバプテスマのヨハネは自分の弟子たちを送り、イエス様がキリストであることを確認します。それはヨハネが待っているキリストとイエス様が一致していないと思ったからです。イエス様が革命を起こし、ヘロデを追い出すなら、ヨハネは釈放されます。しかし、イエス様はご自身が来るべきメシヤであることを言われますが、イザヤ35章を引用して癒すために来られたことを明らかにしてされます。病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人のために、目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられるため、すなわち癒しと救いです。イエス様は政治的審判者として来られたのではなく、魂の救い主として来られました。イエス様はヨハネに失望してはならないという意味で「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです 23」 と言われます。 ヨハネの弟子たちが帰った後、イエス様はマラキ3章1節を引用して、バプテスマのヨハネがキリストの道を準備するために来た人であることを明らかします。さらに28節の「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」ヨハネよりも大きな者はいないと評価されます。ところで、ここで難しいのは、ヨハネのことで「神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。28」というみことばです。男性は子を産むことができません。「女から生まれた者」という表現は、すべての人類を言います。イエス様は、すべての人の中でヨハネが最も大きいと言いました。しかし神の国では、ヨハネが最も小さい者だと言います。なぜ、ヨハネの大きさは地上といわゆる天国で異なるのでしょうか。 バプテスマのヨハネはイエス様の道を備える使命者として来ましたが、不義な暴力によって命を失う人です。イエス様の十字架の事件はバプテスマのヨハネが死んだ後のことであって、ヨハネはイエス様の十字架、すなわち罪を贖う恵みを受けた人ではありません。ただし、その恵みを成し遂げるためにキリストが来られたとき、その道を開く人として来ました。ということで人としては他の人と比べられないほど大きいな者ですが、十字架の恵みで神の国に入ったことではありません。 わたしたちは誰でもバプテスマのヨハネのような義を持って天の国に入る人はいません。私たちの天国は、子羊のイエス・キリストの十字架の贖いのみで入ります。イエス・キリストが十字架から流された血で自分を罪を贖ったということを心に信じ、救われた者だけがその信仰によって天の国に入ります。その天国には、偉大なバプテスマのヨハネは十字架の恵みを持っていません。だから神の国では、イエス・キリストの名によって入ったすべての人々よりも、バプテスマのヨハネは小さい者です。私たちに臨んだ救いの大きさを黙想する一日になることを願います。