누가복음 QT10 220119수【마태를 부르신 것은】누가복음 5장 27~39

  예수님은 27절에서 또 한 명의 제자를 부르십니다. 레위라 하는 세리입니다. 이 사람은 마태복음을 쓴 마태입니다. 마태는 유대인이고 레위지파 사람입니다. 출애굽기와 레위기에서 읽었듯이 레위지파는 성전의 예배를 위해서 부름받은 사람들입니다. 그런데 그런 마태가 세리가 되어 세관에 앉아있는 것입니다. 우리가 알듯이 세리는 단순한 세금징수원이 아니라 부정으로 금전으로 취하여 당시 백성들의 원성을 받던 몰염치한 사람들이었습니다. 백성들을 하나님에게로 인도해야…

ルカの福音書 QT9 220118火【腐っていくもの、臥しているもの】ルカ 5章 12~26

ルカ 5章 12~265:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」5:13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。5:14 イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。5:16 だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」   イエス様は肉体の病気で社会的な欠乏を持つ者を回復させました。ツァラアトは肉が腐って、膿が出て、やがて骨まで食い込まれ、指と足指が切られ、最終的には手足まで落とすような怖い病気です。それなのに本人は神経が麻痺して無感覚です。人々はこの恐ろしい感染症の不正なものだと思い、社会から隔離し、差別しました。重度の場合は、その顔と体を見ることもできないほどむごたらしいです。腐って膿が流れますが、誰もそれに触れずに治療することもありません。   それが罪で腐っていく人の心です。人々はツァラアト病者のように心を隠して生きていきますが、その中にあるものは腐敗しています。ツァラアトの人のように無感覚になり、腐っていることを知らないだけです。イエス様は病気から癒してくださった後、「あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様は、罪によって腐って崩れ落ちる心に直接手を触れてくださり、癒してくださいました。ツァラアトの人は、発症後、初めて自分の顔に誰かの手が触れたと思います。心が腐って犯罪し、断罪する人々の心にもイエス様の手が触れれば癒されるでしょう。   中風をわずらっている人は人々によって担架に乗せられてきました。自力では行動することもできないからです。ツァラアトの人の場合には、きよめられることをと願う本人の意志を確認し、その後13節の「わたしの心だ。きよくなれ」と言われ、イエス様の慈悲の心が彼を癒しましたが、中風病者を癒した決定的な動機は、20節の「彼らの信仰」です。「彼ら」とは、中風病者を連れてきて、屋上に上って瓦をはがし、そこから中風病者の寝床を、イエス様の前につり降ろした仲間です。   確かにイエス様の神的能力の中で治癒が起こりましたが、ツァラアト病者を憐れむとりなしの心と、中風病者を助けようとする仲間たちのとりなしが治癒を起こしました。そして、イエス様はそれを「罪の赦し」と言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。ヨハネ20:23」とりなしの祈りが罪を洗い、人の心を癒します。くちはてる心と臥して動けない人々のためのとりなしの祈りそれによるイエス様の癒しを祈ります。

누가복음 QT9 220118화【썩어가는 것과 누워있는 것】누가복음 5장 12~26

누가복음 5장 12~265:12 예수께서 한 동네에 계실 때에 온 몸에 문둥병 들린 사람이 있어 예수를 보고 엎드려 구하여 가로되 주여 원하시면 나를 깨끗케 하실 수 있나이다 하니5:13 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 문둥병이 곧 떠나니라5:14 예수께서 저를 경계하시되 아무에게도 이르지 말고 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 또 네 깨끗케…

ルカの福音書 QT8 220117月【深みに網を下ろしなさい】ルカ 5章 1~11

ルカ 5章 1~115:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」5:11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。   漁師だったペテロは夜間操業をしましたが、その日、一匹の魚も捕れませんでした。失敗です。ペテロは疲れた体と虚しい心で岸辺で網を洗っていました。イエス様はその虚しい朝に来られ、船を借り、それを講壇にして人々を教えた後、ペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と言われました。漁師の常識では、朝には魚がいなく、深いところにも魚がいません。しかも、夜間操業をして朝に網を洗ったのにお手入れした網を持って行ってもう一度水に投げるというのは無理な要求のように見えます。   しかし、ペテロを言います。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」一晩中一生懸命に魚を捕ろうとしましたが、失敗したペテロにイエス様は深いところに行き、網を降ろして捕りなさいと言われ、それは網の中で満船という現実になりました。   神様の「受肉」の話はクリスマスの馬小屋の話だけではありません。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1」と言われましたので、みことばが現実になるところはすなわち受肉の現場です。私たちが信じないのは、信仰と現実が異なるからです。しかし、信仰の中でみことばは現実となり、それを体験しなければ、みことばを信じることはできないのです。みことばを信じて網を下ろすことがないので、みことばが現実になることをを見ることも、経験することもできないのです。   ペテロはイエス様のみことばが現実になることを目撃し、それを身をもって体験しました。それがペテロの献身の原動力です。神様のみことばは信仰の中で現実になります。朝ごと、神様のみことばを読まなければならないのは、敬虔の形のためではありませんし、聖書の知識を加えるためでもありません。約束を探す宝探しです。神様のみことばが自分の現実とどのようなかかわるのかを探し続けることです。   私たちは魚に集中してしまいます。なかった魚があり、虚しかった人生に新たな期待と活力が与えられます。しかし、ペテロの反応は、罪の告白でした。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。8」神様を体験した人は、自分が罪人であることを告白します。そして魚という成果にこだわりません。空船が満船になり、赤字が黒字になり、貧乏が富者になることより大切なのは、虚しい人生に現れた神様です。ペテロが捕ったのは、魚ではなく信仰でした。だから、ペテロは船も捨て、網も捨て、魚も捨ててその道でイエス様についていきます。「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。11」  

누가복음 QT8 220117월【깊은데로 가서 그물을 내려 고기를 잡으라】누가복음 5장 1~11

누가복음 5장 1~115:1 무리가 옹위하여 하나님의 말씀을 들을새 예수는 게네사렛 호숫가에 서서5:2 호숫가에 두 배가 있는 것을 보시니 어부들은 배에서 나와서 그물을 씻는지라5:3 예수께서 한 배에 오르시니 그 배는 시몬의 배라 육지에서 조금 띄기를 청하시고 앉으사 배에서 무리를 가르치시더니5:4 말씀을 마치시고 시몬에게 이르시되 깊은데로 가서 그물을 내려 고기를 잡으라5:5 시몬이 대답하여 가로되 선생이여 우리들이 밤이…

ルカの福音書 QT7 220115土【みことばを聞いても】ルカ 4章 16~30

ルカ 4章 16~304:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、4:19 主の恵みの年を告げるために。」4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」4:22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。4:23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」4:24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。4:25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、4:26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。4:27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」4:28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。4:30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。   イエス様は、故郷のナザレに帰られ,安息日に会堂で聖書を読まれました。安息日の会堂では、定められた本文が読みますが、イエス様に与えられたみ言葉は、イザヤ61章の18節19節でした。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。18,19」   イエス様は、朗読の後にその本文を持って説教されましたが,22節に「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて」とあります。説教の内容については記されていませんが、確かに彼らはイエス様の説教を聞ってその解釈の知恵に驚きました。イエス様は説教の後、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」と言われましたが、これはイザヤが預言したメシヤがご自身であることを宣言したものであります。それ以来、人々はイエス様の説教の恵みを忘れて彼が明らかに大工のヨセフの息子であることを思い出し、敵対的に変わります。   ここにイエス様はエリヤがシドンのやもめに会って彼女を救い、エリシャがアラムのナアマン将軍を癒したことを言われます。これは二人ともユダヤ人ではない異邦人だったからです。ユダヤという自尊心は信仰を妨げているからです。信仰という誇りが、信じないようにしているパラドックスです。ナザレ人はみことばをみことば通りに受け取らず、大工の息子という先入観と固定観念の中でイエス様を受け入れることをしませんでした。   「異邦人への恵み」という言葉でもう一度刺激されたナザレ人はイエス様を殺そうとしました。みことばを聞くときは、自分を空にしなければなりません。自分の考えを満たし、神様のみことばを聞いても聞こえません。アーメンということばは、自分の考えに神様が同意してくださるときに使う言葉ではなく、神様のみことばに私の考えを合わせるという意志の現われです。私たちが持つべき信仰の誇りは、謙遜で神様の恵みが聞こえる誇りではないでしょうか。

누가복음 QT7 220115토【말씀을 들어도】누가복음 4장 16~30

누가복음 4장 16~304:16 예수께서 그 자라나신 곳 나사렛에 이르사 안식일에 자기 규례대로 회당에 들어가사 성경을 읽으려고 서시매4:17 선지자 이사야의 글을 드리거늘 책을 펴서 이렇게 기록한 데를 찾으시니 곧4:18 주의 성령이 내게 임하셨으니 이는 가난한 자에게 복음을 전하게 하시려고 내게 기름을 부으시고 나를 보내사 포로된 자에게 자유를 눈먼 자에게 다시 보게 함을 전파하며 눌린 자를 자유케…

ルカの福音書 QT6 220114金【荒野の試み】ルカ 4章 1~15

ルカ 4章 1~154:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、4:2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」4:4 イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」4:5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、4:6 こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。4:7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」4:8 イエスは悪魔に答えられた。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。4:10 『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。4:11 彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」4:12 するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」4:13 悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。4:15 イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。   イエス様はバプテスマを受けた後、聖霊に導かれ、40日間荒野で断食され、その後、悪魔に試みを受けました。イエス様が悪魔に試みを受けるなんて不思議に思いますが、イエス様は完全な人間だからです。断食すると空腹を覚えるし、荒野では不安で安全を求める存在です。   最初の試みは、石をパンにすることです。40日断食したイエス様は大変空腹を覚えています。悪しきものはその弱いところを突いて入ってきます。誰においても経済的な価値は大切です。それを超えて絶対的なものになっています。高い精神と良心を持っている人も、現実的なパンの誘惑に勝てずに倒れることがあります。イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と言われましたが、それは申命記 8章 3節の引用です。パンは常に必要ですが、パンだけで生きることではありません。お金そのものではなく、そのお金を使っても追い求めなければならない価値というのがあります。   ある時代の教会では、神様を信じれば、石がパンになり、金持ちになると言っていましたが、神様を信じる人の中では、金持ちになる人がいれば、そうではない人もいます。それが信仰の目的でも基準でもありません。聖徒の答えも、イエス様が引用した申命記 8章 3節です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」   第二の試みは、世界のすべての国々の権力と栄光を与えるという誘惑です。そのために悪魔にひれ伏さなければなりません。権力と名誉は経済力に劣らずに人間を誘惑します。権威と栄光というもの確かにあってそれが反聖書的なものでもありません。それを与える方は神様です。これに対してイエス様は答えられます。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。8」これは申命記 6章 13節です。 「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。」   最後の試みは、高い所から飛び降りることです。悪魔はそれでも傷つかないからと言っています。現象的な神秘のみで神様を体験したいと願う人は、理性や常識も働きません。神様を試してはなりません。イエス様はこのような非知性的な神秘主義の誘惑について「あなたの神である主を試みてはならない」と言われました。これも 申命記 6章 16節の引用です。悪魔の試みに対するイエス様の答えはみなみことばでした。イエス様はみことばで状況を解釈し、そのみことばで悪魔に対抗し、勝ちます。悪魔が人間を惑わすことから勝てる力は、神様のみことばを時宜にかなって、適確に解釈することです。

누가복음 QT6 220114금【광야에서 받은 시험】누가복음 4장 1~15

누가복음 4장 1~154:1 예수께서 성령의 충만함을 입어 요단강에서 돌아오사 광야에서 사십일 동안 성령에게 이끌리시며4:2 마귀에게 시험을 받으시더라 이 모든 날에 아무 것도 잡수시지 아니하시니 날 수가 다하매 주리신지라4:3 마귀가 가로되 네가 만일 하나님의 아들이어든 이 돌들에게 명하여 떡덩이가 되게 하라4:4 예수께서 대답하시되 기록하기를 사람이 떡으로만 살 것이 아니라 하였느니라4:5 마귀가 또 예수를 이끌고 올라가서 순식간에…

ルカの福音書 QT5 220113木【洗礼を受けたイエス・キリスト】ルカ 3章 21~38

ルカ 3章 21~383:21 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」3:23 イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、3:24 マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、3:25 マタティア、アモス、ナホム、エスリ、ナガイ、3:26 マハテ、マタティア、シメイ、ヨセク、ヨダ、3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シェアルティエル、ネリ、3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エルヤキム、3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、3:32 エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナフション、3:33 アミナダブ、アデミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、3:36 ケナン、アルパクシャデ、セム、ノア、レメク、3:37 メトシェラ、エノク、ヤレデ、マハラルエル、ケナン、3:38 エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。   イエス様がヨハネに洗礼を受けた出来事について四福音書が共通に記述していますが、少しずつその視点は異なります。ヨハネの福音書は神様であるイエス・キリストを証してので、神様の霊がイエス・キリストに臨む場面を通してイエス様が神様の子であることを強調しています。マタイは、ユダヤの王として来られたイエス・キリストを語ろうとしているので、ヨハネがイエス様に洗礼を授けることを躊躇している様子を加えています。神様の御子であるイエス様が人間ヨハネから洗礼を受けたのは、完全な人間として来られたことでありますし、イエス様が、「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」と言われたのは、ご自身の民を救うためのキリストの謙遜を言っているのです。   ということで、続くルカの福音書のイエス・キリストの家系図は、マタイが記録した王家の系図とは異なり、人間の系図です。だからといって、二つの系譜の事実関係が違うわけではありません。ただ、マタイは王家の系譜に集中し、ルカは人間イエスに集中しています。マタイの福音書がユダヤ人の誇りのためにアブラハムまでさかのぼれば、ルカの福音書は異邦人、すなわち非ユダヤ人のために神様にまでさかのぼります。ルカが読者に設定している異邦人、つまりすべての人々にとっても、神様はキリストの福音を通して救いを予定しておられるからです。民族と国籍と宗教にかかわらず、神様はすべての人々の創造主であり、彼らを救う神様であるからです。   「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ 6:4」パウロは洗礼を受けるときに体が水の中に入るのを死ぬことと描写しました。洗礼を受けてキリストと結びついたのは、罪に対して死んだという意味です。それを悟った聖徒が外的に公表するのが洗礼です。イエス様において洗礼と十字架は最終目的ではありません。それは謙虚です。能力は復活です。復活と永遠の命が最終目的です。洗礼を受け、罪に対して死ぬことについて告白できれば、やがてくるその日に義の復活に参加します。