욥기 QT43 211120토【지혜의 행방】욥기 28장 12~28

욥기 28장 12~2828:12 그러나 지혜는 어디서 얻으며 명철의 곳은 어디인고28:13 그 값을 사람이 알지 못하나니 사람 사는 땅에서 찾을 수 없구나28:14 깊은 물이 이르기를 내 속에 있지 아니하다 하며 바다가 이르기를 나와 함께 있지 아니하다 하느니라28:15 정금으로도 바꿀 수 없고 은을 달아도 그 값을 당치 못하리니28:16 오빌의 금이나 귀한 수마노나 남보석으로도 그 값을 당치 못하겠고28:17…

ヨブ記 QT42 211119金【神様に与えられる知恵】ヨブ記 28章 1~11

ヨブ記 28章 1~1128:1 まことに、銀には鉱山があり、金には精錬する場所がある。28:2 鉄は土から取られ、銅は鉱石を溶かして取る。28:3 人は闇の果てに、その極みにまで行って、暗闇と暗黒にある鉱石を探し出す。28:4 彼は、人里離れたところで縦坑を掘り進み、行き交う人に忘れられ、人々から離れたところで、ぶら下がって揺れる。28:5 地はそこから食物を産み出すが、その下は火のように沸き返っている。28:6 その鉱石からサファイアが出る。その場所には金のちりがある。28:7 その通り道は猛禽も知らず、隼の目もこれを狙ったことがない。28:8 誇り高き獣たちもこれを踏まず、たける獅子も通ったことがない。28:9 彼は硬い岩にまで手を加え、山々をその根底からくつがえす。28:10 彼は岩に坑道を切り開き、あらゆる宝石を目にする。28:11 彼は水が滴ることもないように川をせき止め、隠されていた物を明るみに出す。   神様が人間をお造りになった時、神様のかたちに造られました。このことに関して私たちは、自分の形に基づいて神様のかたちを想像しますが、神様はそれを許されませんでした。形を作り、それに神性を与えることを禁じられます。目に見え、手に触れることで、何かを認識する私たちにとっては困ることですが、ヨハネによる福音書はこう言います。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。4:24」神様は可視的な肉体ではなく霊であられます。   神様は肉体を持った人間に必要な物質と形を与えられますが、それだけではなく、霊である神様の息を吹き込み、すでに霊が与えられているので、人間は永遠を慕う霊的な存在となりました。私たちが持っている二つの問題は、神様を肉の次元に引き下げ、人間の限界の中で神様を認識しようとすることと、神様は霊であることからすぐに神秘主義に駆けつけること、この二つです。霊性というのは、必ずしも知性や感性と区別された独立した能力であるわけではありません。霊性はそれらを活用する力です。   ヨブが言わんとする人間の知恵は、脳機能や感覚機能に超えた霊性です。本文でヨブは、人間は、山の中、地の中と石の中にある鉱物を採掘することができると言います。人の目では目に見えない地の中にあるものですが、それを見つけ、石の中に混ざっている宝石を分離することができるということです。目が良いと言われるワシでさえ、それを観察することはできず、取ることもできません。しかし人間はそれを見つけだす力を持っているということです。   それは、見えないものと複雑に混ざっているものの中から本質を見つけだすことができる能力があるということです。それが霊性が与える知恵です。知識は覚えることができますが、知恵は握りだすことはできません。それで、箴言は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。9:10」と言います。神様に与えられた霊性で、世界と物事を判断し、区別し、洞察する知恵が私たちの中にあることを願います。

욥기 QT42 211119금【하나님이 주시는 지혜】욥기 28장 1~11

욥기 28장 1~1128:1 은은 나는 광이 있고 연단하는 금은 나는 곳이 있으며28:2 철은 흙에서 취하고 동은 돌에서 녹여 얻느니라28:3 사람이 흑암을 파하고 끝까지 궁구하여 음예와 유암 중의 광석을 구하되28:4 사람 사는 곳에서 멀리 떠나 구멍을 깊이 뚫고 발이 땅에 닿지 않게 달려 내리니 멀리 사람과 격절되고 흔들흔들 하느니라28:5 지면은 식물을 내나 지하는 불로 뒤집는 것같고28:6…

ヨブ記 QT40 211116水【目覚めたらいない】ヨブ記 27章 13~23

ヨブ記 27章 13~2327:13 悪しき人間が神から受ける分、横暴な者が全能者から受け継ぐものは次のとおりだ。27:14 たとえ子どもが増えても、剣にかかり、子孫が食べ物に満ち足りることはない。27:15 その生き残りも死んで葬られ、やもめたちは泣きもしない。27:16 彼が金をちりのように積み上げ、衣装を土のように蓄えても、27:17 蓄えたものは、正しい者がこれを着て、金は、潔白な者が分ける。27:18 彼はシミの巣のような家を建てる。番人が作る仮小屋のような家を。27:19 富む者として床につくが、もうそれきりだ。目を開けると、もう何もない。27:20 突然の恐怖が洪水のように襲い、夜にはつむじ風が彼を運び去る。27:21 東風が彼を運ぶと、彼はいなくなり、その居場所から彼を吹き払う。27:22 それは容赦なく襲いかかり、彼はその手から必死に逃れようとする。27:23 それは彼に向かって手をたたき、彼を嘲って、その居場所から追い出す。   悪者も栄えることがあります。ヨブは次のようにその逆説を語ります。悪しき人も繁栄します(14)が、その繁栄のために剣にかかり(14)、それを食べることができず(14)、死んで葬られ(15)、悪しき人は栄えますが(16)、それを楽しみません。悪しき人も富を積むことがあります。 しかし、それはすぐに他人のもの、義人のものとなり(17)、自分のものとはなりません。たとえ、金持ちが死んでも行く所がありません(18)。   地上にある良いもので神様の恵みの程度を測定することはできません。なくても豊かな人がいれば、所有していても不幸な人がいます。使っても減らない人がいれば、たくさんあっても使えない人がいます。条件が悪くても幸せな人がいれば、すべてが揃っていても不安な人がいます。箴言は、「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。28:1」と言いました。不安と恐怖の時代を生きる人々は、なぜ不安なのか、また自分の敵が何であるかを知らないまま、不安に包まれています。   ヨブは彼らが持っていたものが「目を開けると、もう何もない。19」と言います。90年代出版して人気を浴びたキム・ハンギルの『目覚めたらいない』というエッセイ集があります。アメリカの生活を勝ち抜いて成功を遂げますが、その過程を幸せに生きることができず、結局夫婦は別れることになります。妻はアメリカで、キリスト教の信仰を持ち、後に牧師になりますが、癌にかかり、今はいなくなっています。キム・ハンギルの別れた妻は、実は先日引用したイ・オリョン先生の娘です。   彼らの話を悪い例とするつもりらありません。彼自身告白しているように、成功のために生きるものの、「目覚めるといない」という告白に共感するのです。ヨブが言っている悪者も「凶悪な悪党」ではなく「愚かな群像」なのかもしれません。人生は、目を閉じたまま前へ走り続けるようなものですが、ある日、目を開けてみると大切なものが残っていないことがあります。目覚めたら何もいない、気づいたら何もないことに気がつくことがあります。エッセイは、ハッピーエンディングではありませんが、困難な日に互いを配慮した日常の話は幸せな物語として響いてきます。つまり幸せは確かにありましたが、それに気付かず生きてきた、ということです。「義人は今日を味わって生きる人」であり、「悪人は明日の不安に生きる人」ではないでしょうか。

욥기 QT41 211118목【눈뜨면 없어라】욥기 27장 13~23

욥기 27장 13~2327:13 악인이 하나님께 얻을 분깃, 강포자가 전능자에게 받을 산업은 이것이라27:14 그 자손이 번성하여도 칼을 위함이요 그 후에는 식물에 배부르지 못할 것이며27:15 그 남은 자는 염병으로 묻히리니 그의 과부들이 울지 못할 것이며27:16 그가 비록 은을 티끌같이 쌓고 의복을 진흙같이 예비할지라도27:17 그 예비한 것을 의인이 입을 것이요 그 은은 무죄자가 나눌 것이며27:18 그 지은 집은…

ヨブ記 QT40 211116水【原罪と自犯罪】ヨブ記 27章 1~12

ヨブ記 27章 1~1227:1 ヨブはさらに言い分を続けた。27:2 私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。私のたましいを苦しめた全能者にかけて。27:3 私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、27:4 私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない。27:5 あなたがたを正しいとすることなど、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の誠実さをこの身から離さない。27:6 私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。27:7 私の敵は悪しき者のようになれ。向かい立つ者たちは不正を働く者のようになれ。27:8 神を敬わない者に、どのような望みがあるのか。神が彼を断ち切り、いのちを取り去るときには。27:9 苦しみが彼に降りかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。27:10 彼は全能者を自分の喜びとするだろうか。どんなときにも神を呼び求めるだろうか。27:11 私は、神の御手にあることをあなたがたに教え、全能者のもとにあるものを隠さない。27:12 あなたがたは、全員がそれを見たのに、なぜ、全く空しいことを言うのか。   何の希望も残っていないヨブは、崖っぷちに立っていますが、それでも神様に対する信仰を告白し、自分の無実を訴えています。27章から31章までは、ヨブの独白なので、友達の即時の反応はありませんが、友人たちは間違いなくこれに対してヨブが悔い改めていないと非難するはずです。繰り返す弁論でヨブは悔い改めをしなかったし、ヨブ記は始まりの1章1節で、全知的作家時点からヨブを「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている人」と紹介しました。   だから、ヨブ記のヨブの紹介とヨブの無罪の抗弁は一貫していますが、ただ、私たちの人間論とぶつかります。私たちの人間論は、いかなる敬虔な人であっても罪人だからです。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ローマ3:23」 福音の人間論は「全的腐敗」です。ヨブが悔しいことになっていることは分かりますが、それでも罪がないと言えないものではないというのが、ヨブを読んでいる私たちの立場です。   ヨブが神様を信じるということは、その神様は公正で聖なる方であるという存在論的な神様です。神様の何かの行いの前に、聖く存在する方です。ヨブ自身が聖なるもので義なる存在であったなら、神様を信じりことはなく、信じることもできません。聖なるということの程度を持っていない神様について、人間が聖なる神様と呼ぶのは、すなわち「私は罪深い人間です。」という告白のようなことです。ヨブが自分の無罪を嘆願することが、神様の前に「自分は罪がない」と言っていることではないということです。   しかし、友人たちが言っているヨブの苦痛の原因は、いわゆる原罪によるものではありません。原罪によってヨブのように苦しむなら、友人たちもその苦しみを受けなければならないです。友人が悔い改めを求めるのは、すべての人が罪を犯したという人間論ではなく、ヨブが神様と人に隠して犯した故犯罪を自白しろうということです。このように分けてみると、ヨブが自分の無罪を語ることができますす。   罪を区分するとき、「原罪」と「自犯罪または故犯罪」に分けられます。「自犯罪」は、自分で罪を犯すという意味であり、故犯罪は故意に罪を犯すということです。自犯罪とは、原罪の腐敗性を持つ人が、直接に犯罪の行為をすることです。だから、原罪は生まれた時から持っている本性の罪でありますが、自犯罪は、自分の意志的な悪行です。自犯と故犯の所持が多いほど、社会の法廷でも罪質が悪いと言います。律法でも自犯罪の軽重を区分して処罰を異にします。   原罪に対して、社会的な意味としての罪ありと定めることはできないように、意識的に自犯罪をし、それを信仰に持って来て、原罪を告白するように言うのは、高度な偽善です。ヨブは罪を悟って知っていますが、それを犯さないように節制し、管理していた人です。心で罪を深く悟り、手では罪を犯さないように腐心して生きるのが聖徒の姿勢です。  

욥기 QT40 211117수【원죄와 자범죄】욥기 27장 1~12

욥기 27장 1~1227:1 욥이 또 비사를 들어 가로되27:2 나의 의를 빼앗으신 하나님 나의 영혼을 괴롭게 하신 전능자의 사심을 가리켜 맹세하노니27:3 (나의 생명이 아직 내 속에 완전히 있고 하나님의 기운이 오히려 내 코에 있느니라)27:4 결코 내 입술이 불의를 말하지 아니하며 내 혀가 궤휼을 발하지 아니하리라27:5 나는 단정코 너희를 옳다 하지 아니하겠고 죽기 전에는 나의 순전함을 버리지…

ヨブ記 QT39 211116火【知らない知識】ヨブ記 26章 1~14

ヨブ記 26章 1~1426:1 ヨブは答えた。26:2 あなたは無力な者をどのように助けたのか。力のない腕をどのように救ったのか。26:3 知恵のない者にどのように助言し、知性を豊かに示したのか。26:4 だれに対してことばを告げたのか。だれの息があなたから出たのか。26:5 死者の霊たち、水に住む者たちはその底で、もだえ苦しむ。26:6 よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれることはない。26:7 神は北を、茫漠としたところに張り広げ、地を、何もないところに掛けられる。26:8 神は水を濃い雲の中に包まれるが、雲はその下で裂けることはない。26:9 神は満月の面をおおい、その上に雲を広げ、26:10 水の面に円を描いて、光と闇との境とされた。26:11 天の柱は揺らぎ、神の叱責に驚愕する。26:12 神は御力によって海を鎮め、ご自分の英知をもってラハブを打ち砕かれる。26:13 その息によって天は晴れ渡り、御手は逃げる蛇を刺し殺す。26:14 見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちは神についてささやきしか聞いていない。御力を示す雷を、だれが理解できるだろうか。   人の考えや言葉が合うことも、間違うこともありますが、聞いたことを自分のものとして噛み砕かずにそのまま伝えることは、知らずに言ったことなので、力がなく、説得力もありません。結局、間違ったことになります。自分のものとして消化するというのは、それを理解し、自分の言語と論理で編集できるようになるということです。   私たちはあふれる情報の中で生きています。ということで毎日多くの情報を検索します。しかし、情報を収集する能力より大切なのは、情報を処理する能力です。情報を入手した後、それを整理し、編集して自分の論理を持って自分の論旨を言えるなら、それはもはや他のものではなく、自分のものになったのです。   ビルダデには、自分の知性と人格の中に噛み砕き、自分の言語と論理で編集された神様はいません。友達の論争ムードに同乗して聞いた言葉を機械的に繰り返しただけです。ビルダデは考えることには怠けますが、しゃべることは好きな人です。こういう人々によって信仰というものが、狐を馬に乗せたような話にになってしまいます。   ビルダデの無駄な言葉について,ヨブはビルダデを辛辣に批判します。ビルダデは、神様は天から平和を作ると言いましたが、ヨブは「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれることはない。6」と言います。ヨブは、ビルダデの人生に適用もできない矛盾、見たいものだけ見、言いたいことだけ言う偏りについて笑います。ビルダデが分からないと言ったなら正解を言ったことになります。知らないことについては神様に対する質問にし、知ることについては自分の知識として噛み砕き、自分の言語で告白する信仰になりたいと願います。

욥기 QT39 211116화【모르는 지식】욥기 26장 1~14

욥기 26장 1~1426:1 욥이 대답하여 가로되26:2 네가 힘 없는 자를 참 잘 도왔구나 기력 없는 팔을 참 잘 구원하였구나26:3 지혜 없는 자를 참 잘 가르쳤구나 큰 지식을 참 잘 나타내었구나26:4 네가 누구를 향하여 말을 내었느냐 뉘 신이 네게서 나왔느냐26:5 음령들이 큰 물과 수족 밑에서 떠나니26:6 하나님 앞에는 음부도 드러나며 멸망의 웅덩이도 가리움이 없음 이니라26:7 그는…

ヨブ記 QT38 211115月【うじ虫にたとえられた人生】ヨブ記 25章 1~6

ヨブ記 25章 1~625:1 シュアハ人ビルダデが答えた。25:2 主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。25:3 その軍勢の数には限りがあるだろうか。その光に照らされない者がいるだろうか。25:4 人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか。25:5 ああ、神の目には月さえ輝きがなく、星も清くない。25:6 まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。   イザヤ41章で、神様はヤコブを「虫けら」と言いました。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。41:14」ヤコブはイスラエルのことであり、イスラエルは人間のことです。   詩編22編ではダビデが自らを虫であると言いました。「しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。 22:6」 今日、本文のビルダデの表現にも「うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子」という言葉が出てきます。聖なる神様の前に立った罪深い人間が、自分の存在を悟るとき、うじ虫、虫けらなどの表現をすることはあり得るかと思います。ところが、それが他人に対するものであれば、事実かどうかを問わずに、引き下げるべきことであり、蔑むことです。   ビルダデも他の友人のように美辞麗句を立て板に水のように語っていますが、脳を通さず、心を通さずに口で言っている言葉です。ヨブの罪を指摘するために使われている表現は、ヨブの人格(6)と、ヨブの両親(4)と神様の創造された被造世界(5)までも罪悪に満ちたものとしています。2節では「神様は主権と恐れをもって高い所で平和をつくられる」と言いますが、ルカの福音書では、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。2:14」とあります。お腹が空いた人がご飯を食べることと、孤独な人が慰められることと、病気の人が癒されることが、すなわち平和です。   人間がうじ虫、虫けらであるというのは、聖なる神様の前では人間は腐敗したという知識が前提としてありませ。だとすれば、もう一つの知識も必要なります。それは、神様がそんな人間を愛され、貴い存在として思われる、ということです。たとえ虫けらと表現される悲惨な状態の人間ですが、神様はそのような人を尊重しているということです。私たちね無視と蔑視に代わって和平を成してくださった十字架の愛がそれを証明します。   イザヤ書で、神様が虫けらのようなイスラエルと言われたのと、詩篇で虫けらのようなダビデが神様に訴えているのは、虐待や自虐ではなく、助けを求めているのであって、またそれに対する神様の約束の場面です。神様に赦された人が、人を赦すことができます。神様に愛された人が、人を愛することができます。ビルダデは、果たして自分の個人的な祈りでこのような告白をしたのでしょうか。自分が虫けらだったら、虫けらを憐れむべきです。ビルダデは自分の信仰という名の刀を握り、神様の愛を突き刺し、蔑んでいるのです。