욥기 QT12 211014목【사람이 무엇이관대】욥기 7장 11~21

욥기 7장 11~217:11 그런즉 내가 내 입을 금하지 아니하고 내 마음의 아픔을 인하여 말하며 내 영혼의 괴로움을 인하여 원망하리이다7:12 내가 바다니이까 용이니이까 주께서 어찌하여 나를 지키시나이까7:13 혹시 내가 말하기를 내 자리가 나를 위로하고 내 침상이 내 수심을 풀리라 할 때에7:14 주께서 꿈으로 나를 놀래시고 이상으로 나를 두렵게 하시나이다7:15 이러므로 내 마음에 숨이 막히기를 원하오니 뼈보다도…

ヨブ記 QT11 211013水【再発見する人生観】ヨブ記 7章 1~10

ヨブ記 7章 1~107:1 地上の人間には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。7:2 日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち焦がれる日雇い人のように、7:3 そのように、私には徒労の月日が割り当てられ、労苦の夜が定められている。7:4 私は 横になるときに言う。「いつ起き上がれるだろうか」と。夜は長く 、私は夜明けまで寝返りを打ち続ける。7:5 私の肉は、うじ虫と土くれをまとい、皮膚は固まっては、また崩れる。7:6 私の日々は機の杼よりも速く、望みのないままに終わる。7:7 心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。7:8 私を見る人の目は、もう私を認めることはありません。あなたが私に目を留められても、私はもういません。7:9 雲は消え去ります。そのように、よみに下る者は上っては来ません。7:10 その人はもう自分の家には帰れず、彼の家も、もう彼のことが分かりません。   ヨブは、人生の日々が雇い人の日と同じだと言いました。雇い人は雇われた時間の中で仕事をします。雇い人の日は苦しいものであり、その先には休みという報酬を受けることになります。人生は、神様から与えられた時間の中で生きる存在であり、その苦労が終われば報いが与えられます。ヨブの現実は苦しいですが、生きることが信じることです。   ヨブが敬虔な人であっても富んである時、力あるときは、これを告白するのは出来なかったと思います。ヨブの人生は、底に陥ていますが、そのゆえに人生の原点に戻っているのです。忙しすぎだからといって、今が幸せだといって、人生が何なのか考えることよりは幸いです。根拠のない楽観主義は、神様も人生を捨て、肉を求めることに従って誤解してしまいます。信仰をその中に閉じ込めてしまうのです。しかし、根拠のない楽観論こそ、突然が降りかかる死の前では挫折せざる得ないです。   友人に話していたヨブは、7節からいきなり神様への祈りに変わります。「心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。7」人間の命が息をつくようなのものであると告白します。この瞬間、議論は祈りに変わります。人生が何なのかを発見した人間は祈ります。ヨブは空しく飛んでいく人生を直視します。ヨブは、それにもかかわらず神様を求めているのではなく、それがゆえに神様を求めているのです。

욥기 QT11 211013수【재발견하는 인생관】욥기 7장 1~10

욥기 7장 1~107:01 세상에 있는 인생에게 전쟁이 있지 아니하냐 그 날이 품군의 날과 같지 아니하냐7:02 종은 저물기를 심히 기다리고 품군은 그 삯을 바라나니7:03 이와 같이 내가 여러 달째 곤고를 받으니 수고로운 밤이 내게 작정되었구나7:04 내가 누울 때면 말하기를 언제나 일어날꼬 언제나 밤이 갈꼬 하며 새벽까지 이리 뒤척 저리 뒤척 하는구나7:05 내 살에는 구더기와 흙 조각이…

ヨブ記 QT10 211012火【疑わしきは罰せず】ヨブ記 6章 14~30

ヨブ記 QT10 211012火【疑わしきは罰せず】ヨブ記 6章 14~30 ヨブ記 6章 14~306:14 落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。6:15 兄弟たちは水無し川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。6:16 それは氷で黒ずみ、雪で隠される。6:17 炎天のころには、流れがなくなり、暑くなるとその場所から消える。6:18 隊商はその道筋からそれ、荒れ地に上って滅びる。6:19 テマの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。6:20 彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやって来て、辱めを受ける。6:21 今や、あなたがたはそのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。6:22 私が言ったことがあるか。「私に贈り物をせよ」と。「あなたがたの財産の中から私のために賄賂を贈れ」と。6:23 あるいは「敵の手から私を救い出せ。横暴な者たちの手から私を贖い出せ」と。6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。6:25 真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。6:26 ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。6:27 あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す。6:28 今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。6:29 思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。6:30 私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。   エリファズは良い言葉を言いましたが、彼自身ヨブからは事実関係を聞いたわけではありません。ヨブの答えはエリファズに対する答えでもありますが、自分の中心を知っておられる神様への訴えであるかもしれません。誰が人の心を知り、その心を判断することができるでしょうか。   特に神様の前に立っている人間の真実さについては、誰もそれを測定することすらできません。信仰的に行うと、賞賛されることより、誤解を受けることも多くあります。もちろん人の目で偽善を見つけるのは難しいことでもあります。私たちは、信仰さえも行為と情熱に基づいて序列化することを好みますが、人の魂の中にある信仰を測るということが無理なことです。   憲法に「無罪推定の原則」があります。有罪が確定するまで被告は無罪とみなされます。捜査する人の経験や心証では、疑いがあっても犯罪者扱いはできません。有罪者に対して罪に定めることが出来ないのは事実ですが、もしかしたら罪のない人が濡れ衣を着せられることがないようにするためのものかもしれません。   ヨブの弁論は正当です。正義を言う友人に事実は伝えるべきですから。友人は思っていることが自分の中で確信になり、自分の論理を立てていきますが、ヨブは神学的悩みだけが蓄積されていきます。人間を説明することができないように苦難を神様の罰で説明することはできないということです。人間が知らないことを知るということは、いかに偉大な発見でしょうか。   ヨブに対する誤解は、神様を知ることの誤解です。私を取り巻く環境と人間から起こっていることに対し、無罪推定の原則を適用したいと思わされました。私の推定、私の中でさらに大きくなる確信を捨てて、理解と慰めの言葉を始めたいと思います。騙されることがあっても、「疑わしきは罰せず」の原則を守ったので指摘される非はないと言えるでしょう。

욥기 QT10 211012화【무죄 추정의 원칙】욥기 6장 14~30

욥기 6장 14~306:14 피곤한 자 곧 전능자 경외하는 일을 폐한 자를 그 벗이 불쌍히 여길 것이어늘6:15 나의 형제는 내게 성실치 아니함이 시냇물의 마름 같고 개울의 잦음 같구나6:16 얼음이 녹으면 물이 검어지며 눈이 그 속에 감취었을지라도6:17 따뜻하면 마르고 더우면 그 자리에서 아주 없어지나니6:18 떼를 지은 객들이 시냇가로 다니다가 돌이켜 광야로 가서 죽고6:19 데마의 떼들이 그것을 바라보고…

ヨブ記 QT9 211011月【ヨブの答え】ヨブ記 6章 1~13

ヨブ記 6章 1~136:1 ヨブは答えた。6:2 ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。6:3 きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。6:4 まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。6:5 野ろばが若草の上で鳴くだろうか。雄牛が飼葉の上でうなるだろうか。6:6 味のない物は塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。6:7 私の喉はそれを受けつけない。それらは私には腐った食物のようだ。6:8 ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神が下さるとよいのに。6:9 神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、6:10 それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。6:11 私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは。どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。6:12 私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。6:13 私のうちには何の助けもないではないか。すぐれた知性は、私から取り払われている。   エリファズはヨブの苦難の理由を罪に定め、悔い改めを促す長い助言を終えました。エリファズが使っている言葉は重いものでありましたが、それは中からではなく、口から出てくるものなので軽いものでした。世界は不条理であって、人は罪に陥った存在なので正義の神様に照らすと、人の非難の素材はあふれます。ヨブが全存在をもって経験している苦しみは、エリファズの口から出る気の利いの言葉では相手にできないことでした。   痛みを通して神様に会うということは何度も聞きましたし、またそのように言ってきましたし、実際そうであると思います。それは、人間は苦痛に耐えられない存在ということでもあります。痛みを打ち勝てないので、神様に降伏し、痛みがなくなるように願います。それでも、痛みはなくならず、さらに思いものになり、人間が耐えられなくなると、人間は痛みからの回復ではなく、終わりを望みます。死の向こうには痛みのない安息があると思うからです。このような人間の弱さを考えると、人間は誠にかわいそうな存在です。耐えられない深刻な苦痛の人間が求められるのは、死ぬことしかありません。今この瞬間にも、多くの人が苦痛の中で死んでおり、医療ができる最善は麻薬によって痛みをほんの少し和らげることしかありません。   深海魚の釣りを見たことがあります。珍しい魚が釣られてきますが、海の中から出た魚は目玉と内臓が口の中から飛び出て死にます。圧力の差があるからです。同様に、浅い所の魚を深いところ入れると、その圧力に耐えられず縮ん入ってしまいます。本文は、苦痛と死との関係について言うことではありません。痛みという怪物の圧力に耐えられない人間の限界について言うのです。人間の意志がそれを耐えられるでしょうか?苦しんいるヨブに神学的な原因を取り調べることではなく、死ぬほどに大変な苦しみのヨブに少しでも共感できるな、ヨブ記の正しい読み方であると思います。   ヨブは目と内臓を飛び出るような苦痛の中でも死を超えている痛みのない世界を望みますが、それも神様を認め、神様を信頼しているからです。「それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。10」ヨブが悔い改めないことではありません。ヨブが神様の前でどのように生きていたのかが分かります。傷んでいるヨブはかわいそうですが、ヨブの信仰を読んでみると、痛みのない日常を生きている私の信仰がかわいそうに感じられます。

욥기 QT9 211011월【욥의 대답】욥기 6장 1~13

욥기 6장 1~136:1 욥이 대답하여 가로되6:2 나의 분한을 달아 보며 나의 모든 재앙을 저울에 둘 수 있으면6:3 바다 모래보다도 무거울 것이라 그럼으로 하여 나의 말이 경솔 하였구나6:4 전능자의 살이 내 몸에 박히매 나의 영이 그 독을 마셨나니 하나님의 두려움이 나를 엄습하여 치는구나6:5 들 나귀가 풀이 있으면 어찌 울겠으며 소가 꼴이 있으면 어찌 울겠느냐6:6 싱거운 것이…

ヨブ記 QT8 211009土【私なら】ヨブ記 5章 1~16

ヨブ記 5章 1~165:1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者はいるか。聖なる者のうちのだれのところにあなたは向かうのか。5:2 苛立ちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。5:3 私は愚か者が根を張るのを見て、ただちにその住まいを呪った。5:4 その子たちは安全からはほど遠く、門で押しつぶされても、救い出す者もいない。5:5 愚か者が刈り入れた物は、飢えた人が食べ、茨の中からさえそれを奪う。渇いた人たちが彼らの富をあえぎ求める。5:6 まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。5:7 まことに、人は労苦のために生まれる。火花が上に向かって飛ぶように。5:8 私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。5:9 神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない奇しいみわざを行われる。5:10 地の上に雨を降らせ、野の面に水を送られる。5:11 神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。5:12 神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。5:13 神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。5:14 彼らは昼間に闇と出会い、真昼でも、夜のように手探りする。5:15 神は貧しい者を剣から、剣の刃から、強い者の手から救われる。5:16 こうして弱い者は望みを抱き、不正は口をつぐむ。   エリファズはヨブの苦難に対して訓戒を続けます。彼が見るからには、ヨブの苦しみの原因はヨブの罪にありました。だからエリファズはヨブに神様に悔い改めを求めます。この時のエリファズの表現が、「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう8」です。「私なら」悔い改め、「私なら」神様に頼ると言っていますが、実際には「私なら」と言えるほどの共感をしたことがないのに、無責任に「私なら」という表現を使っているのです。   訓戒者のところに立つことが怖いのは自分の問題を忘却するからです。人々が他人の裏話をすると、様々な正しい言葉を吐き出し、誰かを非難しますが、その都度、自分はそうではない安定感を共有します。誰かを非難すると、すべては非難される人の問題であって非難する人は客観的な立場で公正な批判をしているものであり、自分たちは、健全で優れた人だと勘違いしてしまいます。   しかし、その瞬間に罪を犯す者は、非難される人ではなく、身の程を知らず、兄弟を非難し、断罪する人であることをわきまえません。エリファズは神様に対する理解について良い言葉は並べていますが、彼の心の中には優越感があり、自己陶酔に陥っています。これが教えることの落とし穴です。教えるところに立つと、自分はその教えにふさわしい人であると思ってしまうのです。   エリファズは「私なら」という表現で、自分の論旨を強調していますが、「ヨブなら」という視点、ヨブの立場に立って彼の痛みなどは考えない、過酷な訓戒者です。エリファズが言っている神様をエリファズ自身が会ったのではありません。そんな神様に会ったはずがありません。自分の論旨を強化するための材料にすぎないのです。司法的な因果応報の関係で神様に出会う人はいません。それを超えておられる慈悲と愛に触れられるとき、私たちは神様に会うことができます。

욥기 QT8 211009토【나 같으면】욥기 5장 1~16

욥기 5장 1~165:1 부르짖어 보아라 네게 응답할 자가 있겠느냐 거룩한 자 중에 네가 누구에게로 향하겠느냐5:2 분노가 미련한 자를 죽이고 시기가 어리석은 자를 멸하느니라5:3 내가 미련한 자의 뿌리 박는 것을 보고 그 집을 당장에 저주하였노라5:4 그 자식들은 평안한 데서 멀리 떠나고 성문에서 눌리나 구하는 자가 없으며5:5 그 추수한 것은 주린 자가 먹되 가시나무 가운데 있는 것도…

ヨブ記 QT7 211008金【サタンはどこにいますか】ヨブ記 4章 12~21

ヨブ記 4章 12~214:12 あることばが私に忍び寄り、そのささやきを私の耳がとらえた。4:13 夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、4:14 おののきと震えが私に降りかかり、私の骨々の多くがわなないた。4:15 ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。4:17 「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ、誤りを認められる。4:19 まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、4:20 朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて、だれも顧みない。4:21 彼らの天幕の綱は確かに取り去られる。彼らは知恵がないために死ぬ。」   神様の御言葉とサタンの欺く言葉が明確に区別できる水と油のようなものであれば解釈と識別力というのは必要ありません。しかし、サタンは私たちより神様と神様の御言葉よく知っています。サタンは疑いのない、巧妙な方法で神様の御言葉を歪曲します。   エリファズの訴えには雄弁力があります。誰も反論することができません。いつも聞いていた神様の御言葉という色がついています。ところが、このような言語に注意しなければなりません。実体のない、観念的に使う宗教的な言語、誰も反論することはできませんが、それが何なのかを定義することさえできず、空中に浮いているような言語、それの捨てて自分の日常の言語で信仰生活をしなければなりません。それこそ、自分が信じているものの実体が何であるかを知ることができます。   エリファズの言語は厳粛でした。「「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。17…まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて、だれも顧みない。19,20」   誰がこれに反論しますか?「伝道者の書」に書かれていたら疑いのない人間論です。誰が神様を否定し、その前で、人間の地位を高めることがありますか?エリファズは、この言葉でヨブを批判し、悔い改めを促すます。しかし、ヨブの苦難の核心は、ヨブが自分の罪を告げるまで、神様が拷問をかけているのではありません。   悔い改めることに問題はありません。しかし、ここでエリファズの言っている悔い改めはヨブをさらに苦しめていることです。ヨブが悔い改めて解決できる問題ではないからです。よいことを行ったから祝福を受け、罪を犯したから罰を受ける応報神学はヨブ記において背馳します。   ここで気になることがあります。ヨブ記の中で最も緊張の中で登場したサタンは、今どこにいるのでしょうか?ヨブを粉々にして今は舞台から姿を消えたのでしょうか?サタンはヨブを痛めることが目的ではありません。ヨブが神様を裏切ることを目的としています。だからサタンがまだ活動しなければありません。ところが、サタンは今どこいるのでしょうか?   サタンがエリファズの仮面をかぶってヨブに現れているのです。エリファズに現われた存在は、神様ではなく、愚かな人間を欺くサタンです。人間が神様の御言葉を伝えるといい時は、そこには必ず偽善が含まれています。エリファズのように確信に満ちて雄弁するとき、断罪の剣が隠れているときは間違いなくそうです。 私たちは、士師記を読んできました。恐ろしいのは、悪ではなく、各自がそれぞれ正しいと思っていたことです。殺し合ったのは、善と悪ではなく、それぞれ自分が正しいと持っていたことの衝突でした。神様の御言葉を伝えることに人間の無知と偽善が含まれています。それを認めなければならないし、自分の思い通りに人を動かすために、神様の名前を濫用することを恐れなければなりません。