시편 QT13 210721수【사망의 잠】시편 13편1-6

시편 13편1-613:1 여호와여 어느 때까지니이까 나를 영영히 잊으시나이까 주의 얼굴을 나에게서 언제까지 숨기시겠나이까13:2 내가 나의 영혼에 경영하고 종일토록 마음에 근심하기를 어느 때까지 하오며 내 원수가 나를 쳐서 자긍하기를 어느 때까지 하리이까13:3 여호와 내 하나님이여 나를 생각하사 응답하시고 나의 눈을 밝히소서 두렵건대 내가 사망의 잠을 잘까 하오며13:4 두렵건대 나의 원수가 이르기를 내가 저를 이기었다 할까 하오며…

詩篇 QT12 210720火【悪について】詩篇 12章 1~8

詩篇 12章 1~812:1 主よお救いください。敬虔な人は後を絶ち誠実な人は人の子らの中から消え去りました。12:2 人は互いにむなしいことを話しへつらいの唇と二心で話します。12:3 主がへつらいの唇と傲慢の舌をことごとく断ち切ってくださいますように。12:4 彼らはこう言っています。「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれがわれらの主人なのか。」12:5 主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ貧しい人が嘆くから今わたしは立ち上がる。わたしは彼をその求める救いに入れよう。」12:6 主のことばは混じり気のないことば。土の炉で七度試され純化された銀。12:7 主よあなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも彼らを保たれます。12:8 人の子の間で卑しいことがあがめられているときには悪しき者がいたるところで横行します。   いわゆる神義論はヨブの時代から苦みの中で提起してきた神学的な質問です。神義論とは、全知全能で絶対的に善なる神様が世界を支配しているのに、なぜ世の中には悪が存在するのか。義は苦まれるのに、なぜ悪は繁栄するかという問題です。既にあった質問であり、歴史の中で多くの人々が悩んできましたが、未だに正解がこれだとは言えないものです。公正と定義について私たちの社会は、今も悩んでいるのではありませんか?   伝道者の書でソロモンは、前にあった世代も、今の世代も、後に来る世代も、また知恵ある者も、愚かな者もみなこれを繰り返すと言います。ただし、この問題の根本的な実体に対して、人生の目標は、神様の安息に入ることであり、神様を恐れることが知恵の根本であると語ります。人が自ら善と悪の混乱をまとめてから神様を信じことはありません。信仰が前提しなければ善悪はわきまえることができないからです。   悪というのは、それ自体で独立して存在することではありません。闇は光の不在のために生じ、悪は善の欠如のため生じます。「人の子の間で卑しいことがあがめられているときには悪しき者がいたるところで横行します。8」悪を消滅させることはできません。だから、神様なしに良い世界を作ることはできないのです。それは存在しない蜃気楼です。   悪をなくすことはできず、完全に、善なる人もいません。悪に対抗しようとする人は、信仰を告白しなければなりません。罪からの赦しのために代わりに死んで、救いを道を開いてくださった神様の愛の実践について、その信仰を告白することです。人間の善が悪をなくすことはできませんが、ただし、信仰の告白が広がるところには間違いなく善に変わっていきます。

시편 QT12 210720화【악에 대하여】시편 12장1-8

시편 12:1-812:1 여호와여 도우소서 경건한 자가 끊어지며 충실한 자가 인생 중에 없어지도소이다12:2 저희가 이웃에게 각기 거짓말을 말함이여 아첨하는 입술과 두 마음으로 말하는도다12:3 여호와께서 모든 아첨하는 입술과 자랑하는 혀를 끊으시리니12:4 저희가 말하기를 우리의 혀로 이길지라 우리 입술은 우리 것이니 우리를 주관할 자 누구리요 함이로다12:5 여호와의 말씀에 가련한 자의 눌림과 궁핍한 자의 탄식을 인하여 내가 이제 일어나…

出エジプト記 QT79 210719月【安息を望んで】出エジプト記 40章 34~38

出エジプト記 40章 34~3840:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。40:36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。40:37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。40:38 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。   イスラエルの民は、完成した幕屋の上に雲が現われると移動し、幕屋の上に雲がなければ、その場にとどまりました。雲がサインになって、移動したりした滞在したりしたのです。イスラエルの民は、神様の指示にによって荒野を渡っていきました。   とどまりたくても雲がある時は行かなければならないし、行きたくても雲がなければとどまらなければならなかったのです。数日を待つことも、時には年を超えることもありました。礼拝の中で神様のサインを受けるのです。神様を信頼し、時間を神様に委ねなければできないことです。   ただし、彼らはとどまりながら、旅を続ける準備をし、歩きながらとどまる準備をしました。荒野の路程に疲れるととどまりたくなり、とどまると定着したくなります。しかし、目的はある人は、経由地に心を奪われません。   荒野はとどまる基盤ではなく、貫くべき道です。そこにいかなる望みも未練も持ってはいけません。その道は通りがかる道です。だからといって短時間で全力疾走して通れる道でもありません。礼拝のために幕屋を設置し、一定期間とどまりながら、礼拝しなければなりませんでした。   荒野路程の中には神様は雲の柱だけでなく、火の柱を伴っていました。これからその中心は、幕屋、すなわち礼拝です。「旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。38」   必要が満たされてから礼拝するのではなく、礼拝する人に神様は必要を満たしてくださいます。暑い時は涼しさの恵みを、寒い時は暖かさの恵みにあずかります。行く道が険しくてもとどまって礼拝する安息を待ち望みながら、与えられた道を貫きたいと願います。  

출애굽기 QT79 210719월【안식을 소망하며】출애굽기 40장 34~38

출애굽기 40장 34~3840:34 그 후에 구름이 회막에 덮이고 여호와의 영광이 성막에 충만하매40:35 모세가 회막에 들어갈 수 없었으니 이는 구름이 회막 위에 덮이고 여호와의 영광이 성막에 충만함이었으며40:36 구름이 성막 위에서 떠오를 때에는 이스라엘 자손이 그 모든 행하는 길에 앞으로 발행하였고40:37 구름이 떠오르지 않을 때에는 떠오르는 날까지 발행하지 아니하였으며40:38 낮에는 여호와의 구름이 성막 위에 있고 밤에는 불이…

出エジプト記 QT78 210717土【出エジプトを終える=礼拝を始める】出エジプト記 40章 1~16

出エジプト記 40章 1~1639:32 こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。39:33 彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、39:34 赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、39:35 あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、39:36 机と、そのすべての備品、臨在のパン、39:37 きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、39:38 金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、39:39 青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、39:40 庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、39:41 聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。39:42 イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。39:43 モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。   モーセは39章で幕屋建設に献身した民を祝福し、40章でそれら機能に合わせて設置と配置をします。それも、命じられたとおり行ったことであって、設計とデザインは、神様のものです。神様はご自身が願うことを民に啓示されます。その啓示は、神様の働きに加えるようにと呼びかけることであります。神様の召しを受けた民は、献身し、自分の生活を調整しなければありません。そのような神様との関係に入った人は、今まで経験したことと違う新しい次元の神様を経験することができます。しかし、信仰と献身がなければ、神様を体験することはできません。それが出エジプト記の最後のページを読んでいる私たちに与える霊的な期待感です。   聖所が(ミクタシュמִקְדָּשׁ)であり、それは「居住する」という意味の動詞(シャカンשָׁכַן)から出てきた言葉です。そして、この動詞から派生した(ミシュカンמִּשְׁכָּן)が幕屋です。だから、神様はこれからこの幕屋に居住しておられます。神様が民と一緒におられるために引っ越ししてこられたわけでありです。イエス・キリストが受肉して来られたとき、インマヌエル(עִמָּנוּאֵל)と呼ばれたことを覚えます。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。マタイ1:23」私たちと同居するために来られたのです。12部族のイスラエルは、その幕屋を中心に囲み、それぞれ自分の天幕を建てて神様と一緒に住みました。   出エジプト記は、イスラエルの民がエジプトを出てカナンの地に入ることで終わることではなく、礼拝が整えることで終りました。出エジプト記を振り返ってみると、約束に基づいて奴隷を選び、それを引き出したくださり、シナイ山で契約を結ばれ、それを通して礼拝を始められ恵みであって、さらにこれからは幕屋に一緒に住んでおられる恵みです。イスラエルの民は新たな次元で神様を経験するようになります。それが神様を礼拝する生活です。   幕屋は出エジプトした元年の6月中旬から始め、その年の12月末まで、約6ヶ月程度がかかり、落成式は年越して、翌年元日にしました。その日程も神様が定めました。私たちの教会も移転してから、まだ献堂式を行っていませんが、この教会献堂式の日程も、神様が定めてくださると思います。神様に献身した民と一緒に、今ここにおられる神様を礼拝し、私たちは新たな次元の神様の恵みを経験していきます。

출애굽기 QT78 210717토【출애굽을 마치며=예배를 시작하며)】출애굽기 40장 1~16

출애굽기 40장 1~1640:1 여호와께서 모세에게 일러 가라사대40:2 너는 정월 초일일에 성막 곧 회막을 세우고40:3 또 증거궤를 들여 놓고 또 장으로 그 궤를 가리우고40:4 또 상을 들여 놓고 그 위에 물품을 진설하고 등대를 들여 놓고 불을 켜고40:5 또 금 향단을 증거궤 앞에 두고 성막 문에 장을 달고40:6 또 번제단을 회막의 성막 문 앞에 놓고40:7 또 물두멍을…

出エジプト記 QT77 210716金【完成した幕屋】出エジプト記 39章 32~43

出エジプト記 39章 32~4339:32 こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。39:33 彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、39:34 赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、39:35 あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、39:36 机と、そのすべての備品、臨在のパン、39:37 きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、39:38 金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、39:39 青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、39:40 庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、39:41 聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。39:42 イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。39:43 モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。   39章を最後にして幕屋は完成しました。読むのも大変なのに、造った人々はいかに苦労したことでしょう。大変だったのは、仕事が多いからではなく、神様の命令どおりに精巧に造らなければならなかったからです。モーセがシナイ山に登り、40日昼夜を神様から御言葉を受けて幕屋の式様を受け、民たちはそれに従い、御言葉通りに入念に施工しました。   民たちの献身があり、同労者たちの忠誠がありました。具体的な式様の意味を知り尽くしていたのわけでもありません。御言葉に従って行うのは時間がかかり、難しいことです。緊張することです。39章だけで「命じられたとおりに」という言葉十回繰り返してました。36章からずっと強調されてきたのが「命じられたとおりに」です。繰り返しというよりも、すべてのことを一貫して、神様の御言葉のとおり実践するということです。   「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。43」モーセは幕屋を完成した民たちを祝福しました。それは神様の御心であり、モーセの真心です。けれども、その祝福とは、礼拝の場所が完成されたものよりも大きいものでしょうか。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」そこに働いている人々は、すでに最大の祝福を受けたのではないでしょうか?そのために献身したのです。大切なものをささげ、献身し、完成された聖所で皆が一緒に礼拝できる祝福よりも大きな祝福はあるでしょうか。   神様の御言葉が形になっていくことに献身していく御言葉の共同体、礼拝と宣教の共同体を確めます。他の祝福を願うことはありません。「命じられたとおりに」献身し、忠誠した人に対してイエス様が教えられた安全装置を思い起こします。「しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。ルカ17:9,10」献身したこと、忠誠を尽くしたことまで否定し、神様の御言葉だけを残すような謙虚さがありますよう、祝福をお祈りします。

출애굽기 QT77 210716금【완성된 성막】출애굽기 39장 32~43

출애굽기 39장 32~4339:32 이스라엘 자손이 이와 같이 성막 곧 회막의 모든 역사를 준공하여 여호와께서 모세에게 명하신대로 다 행하고39:33 그들이 성막을 모세에게로 가져왔으니 곧 막과 그 모든 기구와 그 갈고리들과 그 널판들과 그 띠들과 그 기둥들과 그 받침들과39:34 붉은 물 들인 수양의 가죽 덮개와 해달의 가죽 덮개와 가리우는 장과39:35 증거궤와 그 채들과 속죄소와39:36 상과 그 모든…

出エジプト記 QT76 210715木【主に聖なるもの】出エジプト記 39章 22~31

出エジプト記 39章 22~3139:21 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにした。主がモーセに命じられたとおりである。39:22 また、エポデの下に着る青服を、織物の技法を凝らして青色の撚り糸だけで作った。39:23 青服の首の穴はその真ん中にあり、よろいの襟のようで、ほころびないようにその周りに縁を付けた。39:24 青服の裾の上に、青、紫、緋色の撚り糸で撚ったざくろを作った。39:25 また彼らは純金の鈴を作り、その鈴を青服の裾周りの、ざくろとざくろとの間に付けた。39:26 すなわち、務めを行うための青服の裾周りには、鈴、ざくろ、鈴、ざくろとなるようにした。 主がモーセに命じられたとおりである。39:27 彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服を、39:28 亜麻布のかぶり物、亜麻布の麗しいターバン、そして撚り糸で織った亜麻布のももひきを作った。39:29 また、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋色の撚り糸を用い、刺繡を施して飾り帯を作った。主がモーセに命じられたとおりである。39:30 また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「主の聖なるもの」という文字を記した。39:31 これに青ひもを付け、それを、かぶり物に上の方から結び付けた。主がモーセに命じられたとおりである。   大祭司のみが純金で造った礼服に「主の聖なるもの(コーデシューラヤフェ קֹדֶשׁלַיהוָה)」という印章を彫ります。それは、大祭司を表わしたいのではなく、その職責が聖別されるべきだからです。「主の聖なるもの(コーデシューラヤフェ קֹדֶשׁלַיהוָה)」という文句は、旧約聖書の中でもう一箇所登場します。ゼカリヤ14章です。 「その日、馬の鈴の上には「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。14:20.21」「主の聖なるもの」は、大祭司のみ与えられていたものですが、今は馬の鈴まで与えられ、そしてエルサレムとユダのすべてが神様の物になります。これは、神様によって区別され、神様に用られるすべては神様によって聖なるものとされるという意味です。   異邦人に宣教が開かれるきっかけであってコルネリウスの回心は、神様が否定であるペテロに「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」とされました。神様が救いの民として区別されたものが聖なるものです。聖なるものいうのはもちろん、倫理的に傷がないことを意味もありますが、聖書が言う聖となるものの意味は、神様によって区別されたものです。それが聖なるものです。金の器、銀の器であっても、神様の関係がなければ、何もなく、土で造ったも土器でも神様が区別し、用いているなら、聖別されたものであり、聖いものです。私たちの生活と行動を考えると、額に神様に聖なるものと書くには到底に勇気と自信感がありません。意志と違って毎日のように聖いものではありません。それでも私たちの人生が神様による呼びかけられ、それに用いられているなら、それによって私たちはすでに聖別された存在です。   ウェストミンスター教理問答の始まりは、人生の根本的な目的を問いています。 「人のおもな目的は、何ですか。」という質問に、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と答えています。ハイデルベルク信仰問答の最初の質問も根本から問われます。 「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」という質問に対して答えは、「わたしのからだも魂も、両方とも、生きる時も、死ぬ時も 、わたしのものではなく、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです。」と答えています。これに同意されるなら、私たちも聖なるものです。人は皆完全ではありませんが、神様の召しの中で聖なるものとされます。イエス様は「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と言われました。これを道徳的な意味に適用すれば、混乱に陥ります。私たちもイエス様のように、神様によって区別されているものです。主がお使いになるという言葉を聞くことができ、それに従うことができる、すなわち自分の否定して従う信仰があれば、その人は「神に聖なるもの」とされた人なのです。