사사기묵상 QT7 210817화【하나님의 뜻을 찾는 기도】사사기 6장 33~40

사사기 6장 33~406:33 때에 미디안 사람과 아말렉 사람과 동방 사람들이 다 모여 요단을 건너와서 이스르엘 골짜기에 진을 친지라6:34 여호와의 신이 기드온에게 강림하시니 기드온이 나팔을 불매 아비에셀 족속이 다 모여서 그를 좇고6:35 기드온이 또 사자를 온 므낫세에 두루 보내매 그들도 모여서 그를 좇고 또 사자를 아셀과 스불론과 납달리에 보내매 그 무리도 올라와서 그를 영접하더라6:36 기드온이 하나님께…

士師記 QT6 210816月【エルバアル・ギデオン】士師記 6章 25~32

士師記 6章 25~326:25 その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛で、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒せ。6:26 あなたの神、主のために、その砦の頂に石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のささげ物を献げよ。」6:27 そこで、ギデオンは自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりに行った。しかし、彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間はそれをせず、夜に行った。6:28 町の人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、バアルの祭壇は打ち壊され、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛が献げられていた。6:29 そこで、彼らは互いに言った。「だれがこのようなことをしたのか。」彼らは調べて尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ」と言った。6:30 町の人々はヨアシュに言った。「おまえの息子を引っ張り出して殺せ。あれはバアルの祭壇を打ち壊し、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」6:31 すると、ヨアシュは自分に向かって来たすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争おうというのか。あなたがたは、それを救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺される。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えばよいのだ。」6:32 こうして、その日、父は「バアルは自分で彼と争えばよい。なぜなら彼はバアルの祭壇を打ち壊したのだから」と言って、ギデオンをエルバアルと呼んだ。   神様はギデオンにバアル祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒すように、さらにそれを薪にして、7才の雄牛をとり、神様の全焼のいけにえとしてささげるようにと命じられました。イスラエルがミデヤンに苦しまれた時間がもう7年目だからです。バアルについては偶像とか異邦の神と言う前に虚像と言わなければなりません。それに人間に富と幸いを与える力はありません。それを破壊するということは、何もないことを何もない状態で戻すことだけだからです。   イスラエルがミデヤンに圧制されているところだったのでそれらの像を毀損することは恐いことです。ギデオンは、人々を恐れ、昼ではなく夜にバアルを破壊し、アシェラを切り倒しました。翌朝、人々が起きてみると、バアルの祭壇は破壊され、アシェラ像は蒔きになり、雄牛が焼かれていることを見ました。ギデオンは神様の命令を実行しました。   神様はご自身のために人を用いる祭に、まだ現実が整えられてないところで信仰を問われます。モーセをファラオに送ったときも、ダビデをゴリアテの前に立たせたときも、エリヤをアハブ王に送ったときも非現実的な状況の中で先に信仰を求められました。   ギデオンは神様の命令を実行しますが、実にギデオンは、気が小さくて臆病な人でした。世に対して恐れないということは、神様に対して恐れていることであって、神様を恐れることこそが、神様を信じていることです。同じように世に対して恐れているのは、神様を信じていないからです。ギデオンは、バアルと戦うという意味で「エルバアル」と呼ばれました。神様を信じているなら、私たちの中にある虚像と対決することはできるのではないでしょうか?

사사기묵상 QT6 210816월【여룹바알 기드온】사사기 6장 25~32

사사기 6장 25~326:25 그 날 밤에 여호와께서 기드온에게 이르시되 네 아버지에게 있는 수소 곧 칠 년 된 둘째 수소를 끌어 오고 네 아버지에게 있는 바알의 제단을 헐며 그 곁의 아세라 상을 찍고6:26 또 이 산성 꼭대기에 네 하나님 여호와를 위하여 규례대로 한 제단을 쌓고 그 둘째 수소를 잡아 네가 찍은 아세라 나무로 번제를 드릴지니라 하시니라6:27…

士師記 QT5 210807토【苦しみが繰り返される理由】士師記 2章 11~23

士師記 2章 11~232:11 すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。2:13 彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、2:14 主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。2:15 彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。2:16 そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それらを拝んだ。彼らの先祖が主の命令に聞き従って歩んだ道から早くも外れて、先祖たちのようには行わなかった。2:18 主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。2:20 そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は言われた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、2:21 わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残しておいたいかなる異邦の民も、彼らの前から追い払わない。2:22 これは、先祖たちが守ったように、彼らも主の道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」2:23 こうして、主はこれらの異邦の民をただちに追い払うことをせずに残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。   イスラエルが神様を捨ててバアルとアシュタロテに仕えていました。物質的な豊かさと多産のために拝む農耕の神です。彼らの追い求めていたことは何であったのかが分かります。農業経済が始まったイスラエルにとって、それよりも魅力的な誘惑はなかったと思います。豊かさという期待を与えられた神様を忘れてしまい、豊かなものそのものに仕え始めたのです。本文は、士師時代に繰り返された不従順と堕落、それに伴う審判と悔い改め、そして神様の救いというサイクルを予告しています。   神様との約束を捨て、世にあるものを追い求めるイスラエルは、彼らが残したカナンの地に人々の手に渡されます。経済が幸せを与えると思いますが、神様の保護と供給がなしに生活は営まれません。イスラエルは苦しみ、その都度神様を呼び求めます。苦しみは神様のサインであって、呪いではありません。神様はその度に士師を立て、彼ら救われます。   苦しむとき神様の助けを求めるなら、それは幸いなことです。しかし、士師記のメッセージはそれを勧めるためにあるのではありません。世に拝み、苦しくなった時に神様に戻るのではなく、常に神様を礼拝しながら生活すること。「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。箴言3:6」急ぎときや痛むときに呼び求める神様であれば、平和にある今、その御名を呼び求めなければありません。   人間の本性は変わりません。救われたイスラエルは、士師が死んでから再び堕落します。神様は再び彼らを苦しみの中で放置されます。祝福を望むものの、神様の御言葉に興味がない信仰生活は、再び罪と不従順を陥ることを繰り返すことになるだけです。世のものに惑わされず、すでに与えられた平安の中にとどまり、神様を認める静かな時間が必要です。

사사기묵상 QT5 210807토【고통이 반복되는 이유】사사기 2장 11~23

사사기 2장 11~232:11 이스라엘 자손이 여호와의 목전에 악을 행하여 바알들을 섬기며2:12 애굽 땅에서 그들을 인도하여 내신 그들의 조상들의 하나님 여호와를 버리고 다른 신들 곧 그들의 주위에 있는 백성의 신들을 따라 그들에게 절하여 여호와를 진노하시게 하였으되2:13 곧 그들이 여호와를 버리고 바알과 아스다롯을 섬겼으므로2:14 여호와께서 이스라엘에게 진노하사 노략하는 자의 손에 넘겨 주사 그들이 노략을 당하게 하시며 또…

士師記 QT4 210806金【ギルガルからボキムまで】士師記 2章 1~10

士師記 2章 1~102:1 主の使いがギルガルからボキムに上って来た。そして言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの父祖たちに誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない。2:2 あなたがたは、この地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。2:3 それでわたしも言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる。』」2:4 主の使いがこれらのことばをイスラエルの子ら全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。2:5 彼らはその場所の名をボキムと呼んで、その場所で主にいけにえを献げた。2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ土地を占領しようと、自分の相続する地へ出て行った。2:7 ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えた。2:8 主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。2:9 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・ヘレスに葬った。2:10 その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。   ギルガルは、イスラエルの民が乾いたヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったときにヨルダン川の底で拾って石12個で記念碑を立てたところです。それは、神様の恵みを覚え、その約束を守るという意志の表明でした。   主の使いがそのギルガルからボキムまできてイスラエルを懲らしめます。ギルガルから来たということは、恵みの記憶から来たことでしょう。恵みと約束を忘れてしまって逸脱し始めた民への警告なのです。   ギルガルからボギムまでの時間はそれほど長くありません。しかし、多くのことが起こりました。征服が始まり、打ち勝ち続けました。本来イスラエルは何もなくて荒野でマナを食べ、恵みによってヨルダン川を渡ってきましたが、今はかなり基盤ができました。土地を活用する方法を考えなければならないし、奴隷を働かせる必要もありました。   イスラエルは農耕の経験がありませんでしたが、カナンに入った以来、マナは終っているし、これから農耕を始めなければなりませんでした。耕作ということは、経験者の助言や指導がなければ難しいことです。イスラエルは、神様がカナンを白紙化するために与えられた戦闘力を用いてカナンと交渉し、殺さない代わりに、自分たちのために働かせたのです。   2節に「あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった」とありますが、聞こえなかったのではなく神様の御言葉を生活の基準にしてなかったのでしょう。知ってはいますが、それを基準にして生きることをしないということです。カナンという新都市は、急進的に変わるところであってイスラエルはその中で合理的な手段を見つけようとしましたが、結局神様の約束という原則から離れてしまいました。   しかし、希望は4節にあります。「主の使いがこれらのことばをイスラエルの子ら全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。4」しばらくの間、忘れてさまようことがあっても聞く耳を持っていれば戻ることができます。私たちの信仰の意志は完全ではありません。立ち止まって考え、確認する必要があります。御言葉を聞くことができ、自分の現実を直視することができれば、あるべきところにに戻ることができます。

사사기묵상 QT4 210806금【길갈에서 보김까지】사사기 2장 1~10

사사기 2장 1~102:1 여호와의 사자가 길갈에서부터 보김에 이르러 가로되 내가 너희로 애굽에서 나오게 하고 인도하여 너희 열조에게 맹세한 땅으로 이끌어 왔으며 또 내가 이르기를 내가 너희에게 세운 언약을 영원히 어기지 아니하리니2:2 너희는 이 땅 거민과 언약을 세우지 말며 그들의 단을 헐라 하였거늘 너희가 내 목소리를 청종치 아니하였도다 그리함은 어찜이뇨2:3 그러므로 내가 또 말하기를 내가 그들을…

士師記 QT3 210805木【私の中にいるカナン人】士師記 1章 22~36

士師記 1章 22~361:22 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。1:23 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は、かつてはルズであった。1:24 見張りの者たちは、その町から出て来た人を見て言った。「この町に入るところを教えてほしい。そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」1:25 彼が町の出入り口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を討った。しかし、その人とその氏族の者はみな自由にしてやった。1:26 その人はヒッタイト人の地に行って町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。1:27 マナセは、ベテ・シェアンとそれに属する村々、タアナクとそれに属する村々、ドルの住民とそれに属する村々、イブレアムの住民とそれに属する村々、メギドの住民とそれに属する村々は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住み続けた。1:28 イスラエルは強くなったとき、カナン人を苦役に服させたが、彼らを完全に追い払うことはしなかった。1:29 エフライムはゲゼルの住民であるカナン人を追い払わなかったので、カナン人はゲゼルで彼らのただ中に住んだ。1:30 ゼブルンはキテロンの住民とナハロルの住民を追い払わなかったので、カナン人は彼らのただ中に住み、苦役に服した。1:31 アシェルはアッコの住民やシドンの住民、またアフラブ、アクジブ、ヘルバ、アフィク、レホブの住民を追い払わなかった。1:32 それで、アシェル人は、その土地に住むカナン人のただ中に住んだ。カナン人を追い払わなかったのである。1:33 ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナトの住民を追い払わずに、その土地に住むカナン人のただ中に住んだ。しかし、ベテ・シェメシュとベテ・アナトの住民は、彼らのために苦役に服した。1:34 アモリ人はダン族を山地に追いつめ、平地に下りることを許さなかった。1:35 こうしてアモリ人は、ハル・ヘレス、アヤロン、そしてシャアルビムに住み続けたが、ヨセフの一族が勢力を増すと、彼らは苦役に服した。1:36 アモリ人の領地は、アクラビムの坂からセラを経た上の方であった。   感情を伴った信仰の情熱と勢いというのは強く見えますが、時間に伴ってしずまります。引き受けた職責と役割が信仰を現すことでもありません。信仰を継続し、成熟する力は、神様を知っていくことと、神様への信仰の告白の蓄積です。告白を積み重ねていくということは、知的に経験的にまだ知らなかったことを新たに知り、それを信仰としてまとめることです。   だから生きている信仰は、神様への告白が絶えず更新されていく人です。言葉と格闘する人は、神様を知って行き、生活の中で御言葉である神様を経験します。それは、告白になります。それが自分の生活の中で求めるべき価値観となって、世を理解する世界観になります。   私たちの周りには、神様を理解することを妨害したり、逆行する多くの価値観と世界観が多様に存在しています。それらを断罪したり、取り除くことはできません。信仰は、それに影響を受け、引きずられずに、それを解釈してわきまえることです。偏狭で部分的なもの、または反聖書的なことを聖書から見分けることができる力が必要です。   それらに吸収されず、汚染されず、神様の世界観を持ったなければありません。分かろうとせず、質問せず、悩まなければ、神様に飾った他のもの見分けることはできません。むしろ影響を受け、ますます混合され、同化されていきます。   今日の本文でヨセフの一族は、ベテルを探ったときに、その町の入り口を教えてくれた住民を生かします。追い出せなかったわけではなく、意図的に生かしてあげました。マナセ、ゼブルン、アシェル、ナフタリもカナン人を追い出せず、自分たちと一緒に住むことになります。ダンはむしろアモリ人に追われ、山地に入り、平地に来れない境遇になります。   神様はカナンを完全に一掃するように命じられました。これを聖書が侵略戦争や殺戮を正当化するものと理解してはいけません。神様は、イスラエルがなにことにみにも邪魔されず、混合されない純潔な神様への世界観を持つことを願われたのです。神様は白い紙の上に、イスラエルの考えを作りたかったのです。   私たちと他の考えを持っている人々敵対したり、嫌悪しません。それを政治的に排除しようとする人もいますが、そのものがすでに、キリスト教の価値ではありません。一つは知り、全体を知らないのです。私たちには、この複雑な世の中で、神様の目でそれを見て、神様に対する純潔な価値を持ち、それをこの世界に提示すしなければならない義務があります。まず、私の中に混じっているカナンを消滅することを願います。

사사기묵상 QT3 210805목【내 안에 있는 가나안 사람】사사기 1장 22~36

사사기 1장 22~361:22 요셉 족속도 벧엘을 치러 올라가니 여호와께서 그와 함께 하시니라1:23 요셉 족속이 벧엘을 정탐케 하였는데 그 성읍의 본 이름은 루스라1:24 탐정이 그 성읍에서 한 사람의 나오는 것을 보고 그에게 이르되 청하노니 이 성읍의 입구를 우리에게 가르치라 그리하면 너를 선대하리라 하매1:25 그 사람이 성읍의 입구를 가르친지라 이에 칼날로 그 성읍을 쳤으되 오직 그 사람과…

士師記 QT2 210804水【挑戦する勇気】士師記 1篇 11~21

士師記 1篇 11~211:11 彼らは、そこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は、かつてはキルヤテ・セフェルであった。1:12 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」1:13 カレブの同族ケナズの子オテニエルがそれを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。1:14 嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるよう、しきりに促した。彼女がろばから降りると、カレブは「何が欲しいのか」と彼女に言った。1:15 アクサは彼に言った。「どうか私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。1:16 モーセのしゅうとがその一族であるケニ人たちは、ユダ族と一緒に、なつめ椰子の町からアラドの南にあるユダの荒野に上って行き、そこの民とともに住んだ。1:17 ユダは兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。1:18 ユダは、ガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。1:19 主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。1:20 モーセが約束したとおり、ヘブロンはカレブに与えられ、カレブはそこからアナクの三人の息子を追い払った。1:21 エルサレムに住んでいるエブス人に関しては、ベニヤミン族がこれを追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族とともにエルサレムに住んでいる。   ヨシュアは死にましだが、私たちが覚えているカレブはまだ生きて働いています。彼は命がある限り、神様の約束に頼って戦います。カレブは、勇気をもって地を征服する者に、自分の娘と結婚させるとのことを約束します。オテニエルが立ち上がって地を征服し、カレブの娘と結婚します。カレブの婿となったオテニエルは、士師時代の最初の士師となります。   カレブは、婿に約束したことと娘が求めたことよりも豊かなものをもって補償しました。挑戦することを通して受けられる資源はは無限です。問題は、挑戦する勇気がないことです。神様の資源は一度も枯渇したことはありません。使用しようとする人によって開発されます。神様は私たちに勇気を出して開拓し、信仰をもってそれらを受け取ることを望まれます。神は、そのような挑戦と信仰に豊かに報われます。   しかし、ユデ族の勢いも折れます。「モーセが約束したとおり、ヘブロンはカレブに与えられ、カレブはそこからアナクの三人の息子を追い払った。19」山地の人々は追い出しましたが、谷の人々を追い出すのは出来なかったです。それは、彼らに鉄の戦車があったからです。カナンに定住する前のイスラエルは青銅器文化でした。鉄を持っていなかったので、鉄の戦車というのは脅威的な武器でした。だからユダはその戦いを放棄してしまいます。   ベニヤミン族も変わらなかったです。 21節を見れば「エルサレムに住んでいるエブス人に関しては、ベニヤミン族がこれを追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族とともにエルサレムに住んでいる。」エブスびは、エルサレムの山岳地帯です。エブスと戦うためには、戦闘力の損失が多かったようです。だから、その地を征服しなかったです。すでに多くの土地があるからです。これによってエブスはこれからずっとイスラエルを苦しめる存在になります。   神の戦いは、現実の戦いではありません。現実に縛られると必ず負けます。負けると思ったら間違いなく負けます。不可能と思ったら不可能です。維持しようと思ったら、維持できず、後退してしまいます。使命を果たそうと思ったら挑戦しなければならないし、挑戦するためには勇気が必要です。信仰は、現実を越え、神様の力を現実の中で実現させる力です。   神様は、確かにイスラエルの民にカナン人を滅ぼし、てカナンを白紙の状態にするようにとされました。イスラエルは、ヨシュアの不在にも、最初によくしましたが、完全な従順はしていません。この完全ではないというのは、勇気がなかったということです。過度に欲張ってしまっても倒れますが、挑戦しない臆病も神様の力が実現されることに妨げになります。私の信仰にいつも勇気というものが含まれていますように。