출애굽기 QT39 2105019수【제사장 나라 거룩한 백성】출애굽기 19장 1~15

출애굽기 19장 1~1519:1 이스라엘 자손이 애굽 땅에서 나올 때부터 제 삼월 곧 그때에 그들이 시내 광야에 이르니라19:2 그들이 르비딤을 떠나 시내 광야에 이르러 그 광야에 장막을 치되 산 앞에 장막을 치니라19:3 모세가 하나님 앞에 올라가니 여호와께서 산에서 그를 불러 가라사대 너는 이같이 야곱 족속에게 이르고 이스라엘 자손에게 고하라19:4 나의 애굽 사람에게 어떻게 행하였음과 내가 어떻게…

出エジプト記 QT38 20210518火【イスラエルの組織編成】出エジプト 18章 13~27

出エジプト記 18章 13~2718:13 翌日、モーセは民をさばくために座に着いた。民は朝から夕方までモーセの周りに立っていた。18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたの周りに立っているのですか。」18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は神のみこころを求めて、私のところに来るのです。18:16 彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。」18:17 すると、モーセのしゅうとは言った。「あなたがしていることは良くありません。18:18 あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。18:19 さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。18:20 あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。18:23 もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。18:25 モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。18:26 いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。18:27 それからモーセはしゅうとを送り出した。しゅうとは自分の国へ帰って行った。   モーセを訪ねてきたイテロによると、イスラエルには問題がありました。出エジプトの初期の人々には体系と秩序がなく、朝から夕方までモーセから裁判を受けるためにやってきました。その数が多すぎて待っている人も疲れ、一人で仲裁し、判断しているモーセも疲れ果てていました。それを見たイテロがモーセに助言したのです。出エジプト社会を効率的に治めるための組織を改編するというものです。千人隊長、百人隊長、五十部長、十部長を立て、その単位での争いや問題を自主的に解決し、重大なことだけはモーセが直接引き受けて解決するという取り決めです。   それが必要なのは、モーセが、より重要な職務を集中する必要があるからです。「あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。20」モーセは絶たない葛藤と紛争の問題を解決していく中で、神様の秩序を教えると言いましたが、イテロは、まず民全体に基準となるものを教えることを言います。問題が起こってからそれを縫合するのではなくあるべき秩序を先に教えるということです。   社会の構成員が、神様とその秩序を知り、それを通して共同体の意識が養われれば、小さな問題については、自分たちで解決することができます。介入は必要ありません。それが成熟した社会です。神様の言葉を学び、それを実践する人は成熟した社会をつくっていきます。制御する社会には限界があります。神様の言葉を学ぶことはなく、治めることのみ関心を持つ人は、リーダーになってはいけません。したがって、モーセが優先的にしなければならないことは、争いの裁判ではなく、神様の言葉を先に教えることでした。   使徒の働き6章には、使徒たちの優先職務のために、教会が最初に執事を任命した話しがあります。教会の働きは分担され、協力の体制を作って行きます。イテロの助言も中間リーダーを立てることを通して協力体制を作り、組織を構成するというものでした。問題は、誰を立てるかということです。声が大きい人、人の前に出るのが好きな人ではありません。神様の召しには必ず内的召命と外的召命があります。共同体の中で信仰と人格の認定、尊敬という外的召命なしにはできません。「神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たち21」を立てなければなりません。   信仰共同体のリーダーシップは、仕えるリーダーシップであって君臨するものではありません。中間リーダーを立て、組織を運用したのは、紛争をなくし、社会を円滑かつ効率的に維持するためでした。ところが、もし委任された権限でその中間リーダーたちが互いに争った場合、組織化の最悪の結果を生みます。   リーダーの良い資質となる参考書がテモテの手紙です。テモテのリーダー論をまとめてみると、リーダーになるためには、まず自分を守ることができなければなりません。「非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で」自制ができ、争いを起こさない人です。   また、「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。」それに「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。」人を知っていくことに時間がかかります。人も共同体に対し、時間を置いて慣れていきます。聖徒と共同体は時間をかけて交際していきます。いきなりできることはありません。   教団法には、転入するところまで、また役員になるところまで、そして神学校に入学するところまで、決められた時間を置いています。教会のメンバーになりますと言ったり、奉仕をしますと言ったり、あるいは献身しますと言ったりしても、その人が誰なのかを知るまで時間をかけて待ちます。働き手が足りない時に、何でも受け入れたいと思う時もありますが、それは人の考えであり、神様はそうではありません。そういう意味でも人が時間と一緒に足並みを揃えるのは賢明なことです。神様を恐れること、全体の秩序が優先だからです。   異邦の祭司イテロはモーセに、この重要なアドバイスをしてから、自分の地に戻ります。異邦の祭司が残した言葉はイスラエルの共同体の胸に刻まなければなりません。「民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。」組織をつくり、役割を分担し、効率よく管理しなければなりません。その職を求めるということは、その職を遂行する資質を慕うということす。枝川愛の教会が絶えず神様の御心にかなったリーダーを立てていく働きができることを祈ります。

출애굽기 QT38 2105018화【이스라엘의 조직 편성】출애굽기 18장 13~27

출애굽기 18장 13~2718:13 이튿날에 모세가 백성을 재판하느라고 앉았고 백성은 아침부터 저녁까지 모세의 곁에 섰는지라18:14 모세의 장인이 모세가 백성에게 행하는 모든 일을 보고 가로되 그대가 이 백성에게 행하는 이 일이 어찜이뇨 어찌하여 그대는 홀로 앉았고 백성은 아침부터 저녁까지 그대의 곁에 섰느뇨18:15 모세가 그 장인에게 대답하되 백성이 하나님께 물으려고 내게로 옴이라18:16 그들이 일이 있으면 내게로 오나니 내가…

出エジプト記 QT37 20210517月【恵みを言える恵み】出エジプト 18章 1~12

出エジプト記 18章 1~1218:1 さて、モーセのしゅうと、ミディアンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、どのようにして主がイスラエルをエジプトから導き出されたかを聞いた。18:2 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻ツィポラと18:3 彼女の二人の息子を連れて行った。その一人の名はゲルショムで、「私は異国にいる寄留者だ」という意味である。18:4 もう一人の名はエリエゼルで、「私の父の神は私の助けであり、ファラオの剣から私を救い出された」という意味である。18:5 こうしてモーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻と一緒に、荒野にいるモーセのところにやって来た。彼はそこの神の山に宿営していた。18:6 イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロが、あなたの妻とその二人の息子と一緒に、あなたのところに来ています。」18:7 モーセはしゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。18:8 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、ファラオとエジプトになさったすべてのこと、道中で自分たちに降りかかったすべての困難、そして主が彼らを救い出された次第を語った。18:9 イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、とりわけ、エジプト人の手から救い出してくださったことを喜んだ。18:10 イテロは言った。「主がほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手とファラオの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。18:11 今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」18:12 モーセのしゅうとイテロは、神への全焼のささげ物といけにえを携えて来たので、アロンとイスラエルのすべての長老たちは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をしようとやって来た。   聖書に記述してないから推測するだけですが、チッポラと子どもたちは、ある時点で故郷である、ミディアンに戻りたようです。モーセとイスラエルの民がシナイ山に辿り着いたとき、モーセの丈人のイテロがミデヤンからモーセの妻チッポラと子どもを連れてやってきました。   モーセは丈人のイテロとのいい関係が維持していたようで、イテロが訪ねてきたとき、モーセは丁寧に挨拶し、彼を迎えます。イテロはモーセがミデヤンを離れ、エジプトに行こうとしたときに、モーセを祝福して見送った人です。モーセ自身も恐れていたし、誰も出エジプトというのが可能と考えていなかったときにイテロはモーセのビジョンを信じて送り出しました。   イテロはミデヤンの異邦の神に仕える祭司でした。後にイテロの信仰がどのように変わるのかについては、明らかではありません。今朝は、イテロという人物より、モーセとイテロの間で起きている関係から考えてみたいのです。この二人は、確かに霊的なコードが一致しませんでしたが、互いに信頼する関係でした。   モーセとイスラエルがシナイ山まで来たのでエジプトを抜け出す状況というは一段落しました。人は状況と環境に適応する存在です。移り行く状況に適応していく間に早い」スピードで以前の記憶をも忘れてしまいます。じりじりしながら祈った奇跡が日常になってからの奇跡の記憶は消えます。分かれた紅海の水は記憶しない、飲む水がなくてモーセに向かって石を持ちます。   わずかこの間モーセが丈人のイテロの羊飼いをしているときと比べたら天地開闢の状況です。怖くてエジプトに行かないと言ったモーセがイスラエルの民を連れ出して、紅海を渡ってシナイ山に着きました。振り返ってみると、すべて神様の痕跡です。問題を振り返って見ないことです。   それをまとめ、意味を見つけ、記憶するために言わなければなりません。言ってみると気づいてなかったことに気づき、意味が分かり、知らなかった恵みを知ることができます。モーセはイテロにこの出来事を話します。一種の伝道です。伝道をしようと思って言ったことではなく、神様が自分の人生にされたことを言わざるえないがゆえに言う、それがまさに伝道です。   伝道をしていないところか、私たちの中から恵みが離れていくのは、自分の人生の中に現われた神様を記憶しなし、意味を覚えない、言葉にしないからです。恵みが日常に埋もれて忘却してしまったからです。その霊的な怠けは高慢の入り口です。高慢は恐ろしい病気であって、一度高慢になったら自覚はありません。耳も聞こえません。   枝川愛の教会は、移転してきましたが、わずか1年前には想像していなかったことです。ここで恵みを覚えるのがなければ、それは逆に危機になります。まだ、集まったりすることも分かち合うこともできません。そのような意味での危機です。神様がこの共同体をどのように導かれたのかを覚え、意味を探り、捉え、それを共有しなければ、共同体はさまざまな葛藤の中で弱まります。神様の恵みを覚え、それを言っている共同体は安全です。

출애굽기 QT37 2105017월【은혜를 나누는 은혜】출애굽기 18장 1~12

출애굽기 18장 1~1218:1 모세의 장인 미디안 제사장 이드로가 하나님이 모세에게와 자기 백성 이스라엘에게 하신 일 곧 여호와께서 이스라엘을 애굽에서 인도하여 내신 모든 일을 들으니라18:2 모세의 장인 이드로가 모세가 돌려 보내었던 그의 아내 십보라와18:3 그 두 아들을 데렸으니 그 하나의 이름은 게르솜이라 이는 모세가 이르기를 내가 이방에서 객이 되었다 함이요18:4 하나의 이름은 엘리에셀이라 이는 내 아버지의…

出エジプト記 QT36 20210515土【主は私たちの中におられるのか】出エジプト 17章 1~7

出エジプト記 17章 1~717:1 イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」17:4 そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」17:5 主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。   神様はイスラエルの民を次の旅へ導かれます。「イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。」イスラエルの民は、神様の命令に従ってレフィディムまで行きました。   ところが、その地にはまた、飲む水がなかったのです。民は怒りて、モーセに敵対して恨みます。荒野で渇いた口から悪口を出している人々は必死でした。民が基本権を求めるのは当然です。荒野の真ん中で水なしに誰一人として生きることはできません。不便は恨みになり、それは怒りになりました。   それはもう一つの感情になりますが、それは「疑い」です。「彼らが主は私たちの中におられるのか、おられないのかと言って、主を試みたからである。7」苦難が襲われたとき、「神様、なぜですか」という抗議はすぐに「神様は本当にいますか」とい運動家疑いへと変わります。神様がおえられるなら、聞き従って行く道に、「なぜこのような状況に会うのですか?」それは自問になって、「神は存在しない虚像ではないか」となります。   信仰の底は人生の底に下りなければ分かりません。なにもなかったのなら、神を疑うこともなかったでしょう。疑いというのは、確かに否定的なものですが、そもそも民に信仰がなかったら、疑いもなかったはずです。弱い信仰が苦難に会うと疑います。ですから弱さも疑いも信仰の一形です。   詩篇には、浄化された疑いの言語があふれるのではないでしょうか。それも信仰でありますが、まだ完全に信頼する信仰ではありません。信仰でありますが、問題が生じると、神様より問題が大きく見えてしまう信仰です。信仰を養うためには、神様をさらに体験しなければなりません。神様を知るだけ信じることが出来ます。その疑いが解決されると、信頼は深まるでしょう。民は疑っていますが、神様は岩から水を出します。

출애굽기 QT36 2105015토【여호와는 우리 중에 계신가】출애굽기 17장 1~7

출애굽기 17장 1~717:1 이스라엘 자손의 온 회중이 여호와의 명령대로 신 광야에서 떠나 그 노정대로 행하여 르비딤에 장막을 쳤으나 백성이 마실 물이 없는지라17:2 백성이 모세와 다투어 가로되 우리에게 물을 주어 마시게 하라 모세가 그들에게 이르되 너희가 어찌하여 나와 다투느냐 너희가 어찌하여 여호와를 시험하느냐17:3 거기서 백성이 물에 갈하매 그들이 모세를 대하여 원망하여 가로되 당신이 어찌하여 우리를 애굽에서…

出エジプト記 QT35 20210513金【休まない奴隷根性】出エジプト 16章 21~36

出エジプト記 16章 21~3616:21 彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。16:22 六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、16:23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」16:24 モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。16:25 モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。16:26 六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」16:27 七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。16:28 主はモーセに言われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。16:29 心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」16:30 それで民は七日目に休んだ。16:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。16:32 モーセは言った。「主が命じられたことはこうだ。『それを一オメル分、あなたがたの子孫のために保存しなさい。わたしがあなたがたをエジプトの地から導き出したときに、荒野であなたがたに食べさせたパンを、彼らが見ることができるようにするためである。』」16:33 モーセはアロンに言った。「壺を一つ持って来て、マナを一オメル分その中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」16:34 主がモーセに命じられたとおり、アロンはそれを保存するために、さとしの板の前に置いた。16:35 イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。16:36 一オメルは一エパの十分の一である。   世界は無理を強要するとき、憎らしく、口では無理しないでいいといいます。無理しなければならない構造が不義です。休まず働かなければならない構造というのは、世の中に資源が足りないからではなく、競争を煽る人間の貪欲のゆえです。貪欲は、安全と休息のための費用も利益にするからです。   人が休まずに働いているのを見ると、世が人を搾取していることがわかります。 「夕方のある生活」というスローガンもありましたが、仕事に中毒してしまった人は、休憩を与えても途方に暮れます。成長と競争の時代を生きた人たちは休み方をよく知りません。休みを習ったことがないからです。   大学時代に塾でアルバイトをしたとき、日曜日の午前に教会へ行って遅刻してきた生徒をたたいたことがあります。その頃はそうでした。「受験生が教会なんかに行く暇があるか…」と。教会を通い始めてから、その事をよく思い出しました。間違っていました。休んだらいけないと思っていました。休んでいると不安でした。だからといって情熱的に、集中的にするものでもありませんでした。   これがまさにファラオが教えてくれたことです。奴隷に肉を食べさせ、休まず、より多くの仕事をさせるのです。仕事に夢中にならなければ余計なことを考えると思ったからです。安息すると、魂と思いが息をつけ始め、人は尊厳を考え、神を考えるからです。   神様は荒野に出てきた子どもたちにマナを食べさせ、休ませました。休むことなく、働こうとする奴隷根性に、必ず安息するようにと制度化されました。週末に会社に出勤しないことは、会社が作ったものではなく、神様が定められたものです。安息は一時停止です。歩んできた道を振り返ります。止まってこれから進むべき道も眺めることができます。

출애굽기 QT35 2105014금【쉬면 안 된다는 노예 근성】출애굽기 16장 21~36

출애굽기 16장 21~3616:21 무리가 아침마다 각기 식량대로 거두었고 해가 뜨겁게 쪼이면 그것이 스러졌더라16:22 제육일에는 각 사람이 갑절의 식물 곧 하나에 두 오멜씩 거둔지라 회중의 모든 두목이 와서 모세에게 고하매16:23 모세가 그들에게 이르되 여호와께서 이같이 말씀하셨느니라 내일은 휴식이니 여호와께 거룩한 안식일이라 너희가 구울 것은 굽고 삶을 것은 삶고 그 나머지는 다 너희를 위하여 아침까지 간수하라16:24 그들이…

出エジプト記 QT34 20210513木【荒野の基本所得】出エジプト 16章 11~20

出エジプト記 16章 11~2016:11 主はモーセに告げられた。16:12 「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」16:13 すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。16:14 その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。16:15 イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。16:16 主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」16:17 そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。16:18 彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。16:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」16:20 しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。   マナは、荒野のイスラエルに与えられた神様の特別な食料でした。マナを与える際に神様のご計画がありました。16章4節で、神が会っをくださる時、「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」と言われました。安息日の前日のみ二日分が収められたのは、安息日の遵守のためです。家族の数に応じてそれを取りました。しかし備蓄してはいけなかったのは、欲望との競争を捨てて、神様に頼る共同体を形成するためです。   経済的な基本権が整っていない生活は不安です。また過度の競争は、生活と共同体​​を疲弊させることになります。過度な競争に埋没せず、経済的な基本権が与えられたのは、先進的な福祉社会です。だからといってマナを食べることが決して食い倒れになるとは言えません。朝早く起きてマナを集める労働で一日が始まります。礼拝をささげることができないほど忙しいこと、重要なことだというのは、社会全体として存在しません。むしろ安定した礼拝のために、安定した労働と分配があったのです。マナは、みなと一緒に平和のうちに神様が与えられた食糧を食べ、礼拝を備え、慕い求めることができる、いわば基本所得になりました。   競争を通して発展していくということもあり、不安だからより働くということもあり、熱心と誠実さと能力に応じた補償の違いがなければならないということもあります。仕事というのは確かに重要な価値です。とはいえ、それが人生の中で最高の価値とはいえません。それはだまされているのです。クリスチャンにあるべき最も根本的な使命は、神様の創造秩序の回復です。額に汗を流して働かなければならなかったことは、人類の堕落の後に与えられた罰です。その前に、アダムは園で許された木の実を食べながら、神様と過ごしました。   私たちは確かに疲弊した精神の時代、疲れ果てた競争の時代、無限の欲の時代を生きています。素朴なことに自足し、感謝の気持ちでじっととどまって考える、黙想することができる時間、神様を礼拝するという価値が、経済的な付加価値に押されてしまってはいけません。たとえ山海の珍味ではないけれども、マナが降り、不安ではない生活、戦わなくても皆がたべる配慮できる生活、だから平安のうちに神様を礼拝する生活、そのような生活こそ共生の生活なのではないでしょうか。