잠언 묵상 【두 가지 소원】 20231228(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

잠언 30:1~14 30:1 이 말씀은 야게의 아들 아굴의 잠언이니 그가 이디엘과 우갈에게 이른 것이니라30:2 나는 다른 사람에게 비하면 짐승이라 내게는 사람의 총명이 있지아니하니라30:3 나는 지혜를 배우지 못하였고 또 거룩하신 자를 아는 지식이 없거니와30:4 하늘에 올라갔다가 내려온 자가 누구인지, 바람을 그 장중에 모은자가 누구인지, 물을 옷에 싼자가 누구인지, 땅의 모든 끝을 정한 자가 누구인지, 그이름이 무엇인지,…

箴言 黙想 【教えない親】20231227(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

箴言 29:15~27 29:15 むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる。29:16 悪しき者が増えると、背きも増す。しかし、正しい人は彼らの滅びを見る。29:17 あなたの子を戒めよ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。29:18 幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。29:19 しもべは、ことばだけで戒めることはできない。それが分かっても、反応しない。29:20 軽率に話をする人を見たか。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。29:21 自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには手に負えない者になる。29:22 怒る者は争いを引き起こす。憤る者には多くの背きがある。29:23 人の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人は誉れをつかむ。29:24 盗人にくみする者は自分自身を憎む者。その人はのろいを聞いても何も言わない。29:25 人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。29:26 支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。29:27 不正を行う者は正しい人に忌み嫌われ、行いの真っ直ぐな人は悪しき者に忌み嫌われる。   子どものしつけはデリケートなテーマになりました。体罰だけでなく、しつけ自体をしないという親が増える傾向です。子どもを厳しく懲らしめなさいと言う箴言は時代錯誤的な教えなのでしょうか。「むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる 15」、「あなたの子を戒めよ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える17」、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる13:24」、「子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない23:13」箴言は厳しくむちで打っても正しく教えなさいと言います。その正しさとは宗教的な教えではなく、社会的に人間として生きる道理です。箴言の時代でも、子どもを虐待してもいいと言っているわけではないでしょう。時代が変わったので訓育の方法も変わったと思いますが、人間の本性通りに放っておかないで自己制御ができるように教えなければならないということは変わっていません。   小学校4年生の時、親友が転校しました。両親が離婚したからです。転校した友が私に学校の書類関係を頼みました。私は担任先生にそれを伝えなければなりませんでした。 しかし、友達と遊びに夢中になっていた私は、その約束を忘れ、守りませんでした。転校した友はそのことで困りました。父がその事実を知り、私は家に帰ったときにはムチを打たれ、一日中罰を受けました。今はそれも問題になる時代になりましたが、困っている友の頼みを知らないふりをして遊び回る息子を厳しく叱った親の懲戒を暴力や虐待とは考えていません。子どもに何が正しいのか、何が神様を信じて生きるのか、何が隣人と共に生きることか、何が人間らしいか、何が聖徒らしいかを教えなければなりません。親は訓戒で、懲戒で、また行動で、生き方で教えることができます。罪を犯す本性を持った人間は、教育を受けてこそともに生きることができます。それを通して利己的な人間は少しですが、善を求める人に変わります。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。22:6」

잠언 묵상 【가르치지 않는 부모】 20231227(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

잠언 29:15~27 29:15 채찍과 꾸지람이 지혜를 주거늘 임의로 하게 버려두면 그 자식은 어미를 욕되게 하느니라29:16 악인이 많아지면 죄도 많아지나니 의인은 그들의 망함을 보리라29:17 네 자식을 징계하라 그리하면 그가 너를 평안하게 하겠고 또 네 마음에 기쁨을 주리라29:18 묵시가 없으면 백성이 방자히 행하거니와 율법을 지키는 자는 복이 있느니라29:19 종은 말로만 하면 고치지 아니하나니 이는 그가 알고도 청종치…

箴言 黙想 【普遍の教会】20231226(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

箴言 29:1~1429:1 叱責されても、なお、うなじを固くする者は、突然打ち砕かれて、癒やされることがない。29:2 正しい人が増えると、民は喜び、悪しき者が治めると、民はうめく。29:3 知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。29:4 正義によって王は国を建てる。重税を取る者は国を壊す。29:5 隣人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。29:6 悪人は背きを犯して自分に罠をかける。正しい人は声をあげて喜び歌う。29:7 正しい人は弱い者のためのさばきを知っている。悪しき者はそのような知識をわきまえない。29:8 嘲る者たちは町を騒がし、知恵のある人たちは怒りを鎮める。29:9 知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒ってあざ笑い、安まることがない。29:10 血に飢えた者たちは誠実な人を憎み、心の直ぐな人のいのちを狙う。29:11 愚かな者は感情のすべてをぶちまけ、知恵のある人はそれを内に収める。29:12 支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪しき者になる。29:13 貧しい者と抑圧する者は出会う。主は、この両者の目に光を与えられる。29:14 真実をもって弱い者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。   箴言では貧しい者、弱い者たちのことは繰り返されます。だからといって、強い者または富んでいるが必ずしも暴圧を振る舞う不義の勢力であるわけではありません。同様に、貧しい者と弱い者といって必ずしも正義のところに立っているわけでもありません。神様か与えた富と力があれば、怠惰と無責任による貧困に対しては厳しく批判することもあります。ただし、余剰を持った人が欠乏を持った人に対する態度を通して善と悪、義と不義がより分けられます。それを蓄積して人を支配する道具にすることは、間違いなく神様が憎む悪です。   どのような神学でも弱者を考えます。しかし、神学は弱者だけのためではありません。教会は弱者を抱き、受け入れるべきですが、弱者だけのための教会ではありません。教会はあらゆる人に差別、逆差別なしに救いの機会と礼拝を提供しなければならない普遍的なものです。弱者のための神学があれば、それが弱者だけのための神学ではないということを証明しなければならず、弱者のための神学に敏感に反応する神学があれば、弱者のための構造的な変化のために実践しなければなりません。神様は民衆とともにおられますが、民衆そのものではなく、年末年始のイベントの慈善行為が隣人愛の全てではないからです。   私たちの教会はユニバーサル·チャーチ(Universal Church)を明言しています。ユニバーサル(Universal)とは普遍的という意味ですが、一般的という意味より宇宙的という意味です。枝川愛の教会が追い求めているユニバーサル·チャーチは言語と人種、性別と年齢、そして社会的かつ経済的な状態などで人を区分しないという意味で普遍的教会です。たとえ私たちの実力がまだそうではなくても諦めずに追求しなければならない価値です。人間の高ぶりと貪りを除けば、教会は普遍という式を成り立たせると思います。

잠언 묵상 【보편적 교회】 20231226(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

잠언 29:1~1429:1 자주 책망을 받으면서도 목이 곧은 사람은 갑자기 패망을 당하고 피하지 못하리라29:2 의인이 많아지면 백성이 즐거워하고 악인이 권세를 잡으면 백성이 탄식하느니라29:3 지혜를 사모하는 자는 아비를 즐겁게 하여도 창기를 사귀는 자는 재물을 없이하느니라29:4 왕은 공의로 나라를 견고케 하나 뇌물을 억지로 내게 하는 자는 나라를 멸망시키느니라29:5 이웃에게 아첨하는 것은 그의 발 앞에 그물을 치는 것이니라29:6 악인의…

箴言 黙想 【エルサレムの贖い】20231225(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書 2:25~382:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」2:36 また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、2:37 やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。2:38 ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。   この時代のキリスト教信仰で「救い」という言葉は剥製化されてしまったと思います。活力と自信に満ちた様子で救われたことを語りますが、救われたという言葉の意味から考えると、それは不可能なことです。救いの前提は、例外なく逃げる余地のない滅亡でなければならないです。滅亡から救われた人の感情がそんなものではならないからです。救いという言葉はキリスト教信仰で最も重要な言葉ですが、常套的に使われてきたため、言葉がすり減って意味が色あせてしまいました。教会の中で救われたとか救われてないなどの言葉使いが外から見ると生命力のなく剥製された獣の怪奇な瞳のように見えます。剥製が生きていれば、そんな目つきで私を見ることはないと思います。   救いというのは、もらってもいいし、もらわなくてもいいのではなく、救われるかどうか分からないですが、それでもそれを待ちわびていなければならないものです。自分が選択できることでもありません。待つには待つしかないし、待つのに疲れたからとあきらめることもできないものです。そうでなければ、それは救いという言葉の代わりに別の言葉を探さなければならないでしょう。役に立つとか、幸運くらいの言葉になるでしょう。救いを語る際にはプライドや自信感のような感情があるわけでもありません。絶体絶命の状態です。体と命が絶える状態です。救いの直前の状態というのは、外部からの救いなしでは耐えられない危機と絶望の状態です。   救いは救われる力を持った方から救いするという意志を持って救いの活動を実行してこそ可能になります。感謝以外にはいかなる条件もあり得ません。おそらく一人の人間が救われる時間は教会に通い始めた時ではなく、その後しばらく時間が経ったある時点だと思います。福音を頭で知りましたが、心で悟る時点です。神様の救いの恵みを悟ったということは人間の絶望を悟ったということです。その絶望は行動の間違いや悪行のようなものではありません。自分の存在は完全に堕落し、希望がないことを告白する時です。   シメオンとアンナは長い間、自ら救えないイスラエルの苦痛を共にしてきた人々です。イスラエルの政治と宗教はローマから独立したがっていましたが、シメオンとアンナが待ち望んでいたイスラエルの回復とは政治的、宗教的なものではありませんでした。それなら、彼らがイエス·キリストに気づいたはずがありません。イエス·キリストはユダヤ大祭司という宗教によって告発され、ローマという政治によって殺害されましたから。   彼らは絶望を知っていました。政治的に、経済的に自立したり独立したりすることでは解決できない存在的な絶望を知っていたのです。努力することではできない、救い主が来なければならないということを知っていました。贖いでなければできないということを知っていました。30節でシメオンが言った「御救いを見たから」と、38節でアンナが言った「エルサレムの贖い」ということは罪から救われることについて語っています。キリストが贖ったこそ、私は救われました。クリスマスに必ず一つ、ただ一つを覚えなければならないとしたら、キリストが私のために贖ったという事実です。どこにも行き場のない絶望的な私はそれを信じます。それが私の救いの唯一根拠です。

잠언 묵상 【예루살렘의 구속】 20231225(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 2:25~382:25 예루살렘에 시므온이라 하는 사람이 있으니 이 사람이 의롭고 경건하여 이스라엘의 위로를 기다리는 자라 성령이 그 위에 계시더라2:26 저가 주의 그리스도를 보기 전에 죽지 아니하리라 하는 성령의 지시를 받았더니2:27 성령의 감동으로 성전에 들어가매 마침 부모가 율법의 전례대로 행하고자 하여 그 아기 예수를 데리고 오는지라2:28 시므온이 아기를 안고 하나님을 찬송하여 가로되2:29 주재여 이제는 말씀하신대로 종을…

ヨハネの手紙第一 黙想 【愛の中で協力】20231223(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの手紙第一 4:7-15 4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。 4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。 4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。 4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。  キリスト者が最も大事に思うことを一つ選んだら、おそらく’愛’でしょう。今日箇所も語っているように、私たちが信じている神様が愛そのものであるお方であるからです。    神様のかたちに造られた人間は罪によって、神の完全な愛を実践することができなくなりました。それなら、その完全な愛に似て行くために、実践するためにはどうしたらいいでしょうか。    一つ目は神様を知ることです。私たちは御言葉を通して、神様がどんなお方であるか、私たちにどんな愛を与えておられるか知ることができます。それで私たちはいつも御言葉を読んで、聞きながら神様を分かって行かなければならないのです。    二つ目は神様の愛の究極的な表現であるイエス・キリストの福音を信じることです。愛の神様を信じながらも、イエスがその神様から遣わされた御子であることを認めないというのは、愛の神様をただ口だけの存在に思うこと同じでしょう。神様と私たちの間の最も大きな問題、’罪’という壁を崩すために遣わされたお方が、私たちの主イエス・キリストであるからです。    三つ目は聖霊を通して実践することです。人間は今もなお弱い存在です。その愛を分かったとしても実践することが不可能なのです。しかし、神様は遠くから指示するだけではなく、聖霊で私たちの中に共にしながら、一つ一つ教えてくださり、共に実践してくれるのです。    神様の救いの計画はいつも三位一体という愛の関係の協力の中で行われます。だからこそ、その三位一体の神様を信じる私たち教会の働きもそうしなければならないのです。単に役割の分担、仕事の協力を越えて、神の愛をお互いに実践しながら協力すること、それから私たちの目では見ることができなかった神様を愛を通して見るようになり、他の人たちにも見せてあげるのが教会の目指すところにならなければならないのです。 https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=3YkUQvFneBnegC-o

요한일서 묵상 【사랑 안에서의 협력】 20231223(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한일서 4:7-15 4:7 사랑하는 자들아 우리가 서로 사랑하자 사랑은 하나님께 속한 것이니 사랑하는 자마다 하나님으로부터 나서 하나님을 알고 4:8 사랑하지 아니하는 자는 하나님을 알지 못하나니 이는 하나님은 사랑이심이라 4:9 하나님의 사랑이 우리에게 이렇게 나타난 바 되었으니 하나님이 자기의 독생자를 세상에 보내심은 그로 말미암아 우리를 살리려 하심이라 4:10 사랑은 여기 있으니 우리가 하나님을 사랑한 것이 아니요 하나님이 우리를 사랑하사 우리…

箴言 黙想 【妥当な対価】20231222(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

箴言 28:15-28 28:15 貧しい民を治める悪しき支配者は、うなる雄獅子、襲いかかる熊のようだ。 28:16 英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、齢を延ばす。 28:17 流血の咎に苦しむ者は、墓まで逃げる。だれも彼を助けてはならない。 28:18 誠実に歩む者は救われ、その道が曲がっている者はただちに倒れる。 28:19 自分の土地を耕す者は食糧に満ち足り、空しいものを追い求める者は貧しさに満ち足りる。 28:20 忠実な人は多くの祝福を得る。しかし、富を得ようと急ぐ者は罰を免れない。 28:21 人を偏り見るのは良くない。人は一切れのパンで背く。 28:22 貪欲な人は財産を得ようと焦り、欠乏が自分に来るのを知らない。 28:23 人を叱責する者は、後になって、舌でへつらう者よりも恵みを得る。 28:24 父母の物をかすめていながら、「背いていない」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間。 28:25 欲の深い人は争いを引き起こす。しかし、主に拠り頼む人は豊かにされる。 28:26 自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。 28:27 貧しい者に施す者は不足することがなく、目をそらす者は多くののろいを受ける。 28:28 悪しき者が勢いを増すと、人は身を隠し、彼らが滅びると、正しい人が増える。  キリスト教には、「働かざる者、食うべからず」という言葉が世の中の価値観のようで冷たいと感じられるかもしれません。 しかし、ある意味聖書こそがこの「妥当な代価」について最も厳しく教えています。それが神様に創造された世界の秩序であるからです。    神様は創造から今まで私たちに等しく要求している代価があります。私たちが受け取ったことを考えると、何をささげても足りなさそうです。 しかし、世の中の物価は上がり、さらに多くの物を私たちに要求しても、神様の要求は変わりませんでした。 神様は等しく私たちに「信仰」だけを要求しておられます。    今日の御言葉は、妥当なことを行うこと、まさに神様の創造の秩序に正直に従うことを教えています。人が作り出した横道ではなく、神様に作られた道に沿って正しく行うこと、与えられた環境に忠実に行うことです。 結局、行為を要求されるように見えても、それは神様がこの世界の創造主であることを認め、信頼する「信仰」から出てくる行動なのです。    エジプトから荒野に出てきたイスラエルの民たちは、日々神様から与えられるマナを食べながら生きていきました。 だとすると、そのマナを食べるために払った対価は何だったでしょうか。 イスラエルの民が苦労してマナを育てて食べたわけではありません。 彼らがしたことは、ただ御言葉のとおりに、朝出て、その日の分のマナを拾っていっただけでした。    神様は彼らに妥当な対価として他のことを要求しませんでした。 そのマナが彼らに与えられない時は、彼らが御言葉に従わずに欲張って一日分より多く持って行った時だけでした。    私たちはよく対価のない愛、対価のない恵みという言葉を使っています。 それは絶対に間違った言葉ではありません。 私たちの基準でイエス·キリストが私たちのために、私たちの罪の妥当な対価を払うためにこの地に来られたということを信じるだけで救われるということは、ただに与えられたことと同じです。 しかし、神様には、その信仰こそが何よりも価値のあるもの、何よりも神様を喜ばれる妥当な対価であるのです。 https://youtu.be/UB9rZKw7s1M?si=CfwI7KAtPlw-ujt5