【길】 20230922 (금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 37:23-24 37:23 여호와께서 사람의 걸음을 정하시고 그의 길을 기뻐하시나니 37:24 그는 넘어지나 아주 엎드러지지 아니함은 여호와께서 그의 손으로 붙드심이로다  지금 우리가 사는 세상은 미래에 대한 걱정이 끊이지 않는 세상이다.    10대와 20대 즈음에는 미래의 진로에 대한 걱정, 30대 40대는 가정과 자녀 양육에 대한 걱정, 50대 이후로는 노후의 생활을 위한 걱정 등, 계속해서 자신의 미래를…

9月 黙想 【絶対的な希望】 202309221(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一コリントの手紙15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。   水曜読書会をが終わって帰ってきた。今日は母が亡くなって2年目になる日、家族で追悼礼拝をささげた。子どもたちに第1コリントの手紙の15章の復活について話した。コリントの手紙はイエス·キリストの復活の目的が、私たちに復活があるということを知らせるためであると語っている。誰も復活を見たことがないから信じられない。エバがカインを出産する前は、身ごもりと出産の神秘が信じられなかっただろうし、アダムが子のアベルの死体を見る前には死を信じようとしなかっただろう。彼らはカインの手についた血を見るまでは罪を認めようとしなかっただろう。今も同じである。人々は命が誕生する神秘を当然にするが、死にはわざと背を向け、自分の罪に対しては無感覚である。だからキリストの復活を見る前には、復活を信じる者はいなかった。   イエス·キリストは、体をもって復活を証明した。しかし、2000年前の復活の目撃と証言は、今日の法的、科学的証拠として効用ではない。復活は依然として信仰を通過してこそ実在する。復活が証明されたから復活が信じられるようになったのではなく、復活を信じる望みがあるからこそ復活は実在する。なので復活のない人は、無神論者ではなく、無信論者である。神様がいないのではなく、信仰がないことである。 否、信仰はある。神がいないと信じる信仰であり、復活がないと信じる信仰である悲しい信仰である。無知と虚無の向こうにあるものはないと信じる。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。19」私は復活を信じる。苦しみがなく、死もなく、罪のない世界で再び始まるその日の朝の栄光を望まざるを得ないからだ。

9월 묵상 【절대적 소망】 20230921(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

고린도전서15:12 그리스도께서 죽은 자 가운데서 다시 살아나셨다 전파되었거늘 너희 중에서 어떤이들은 어찌하여 죽은 자 가운데서 부활이 없다 하느냐15:13 만일 죽은 자의 부활이 없으면 그리스도도 다시 살지 못하셨으리라15:14 그리스도께서 만일 다시 살지 못하셨으면 우리의 전파하는 것도 헛것이요 또 너희 믿음도 헛것이며15:15 또 우리가 하나님의 거짓 증인으로 발견되리니 우리가 하나님이 그리스도를 다시 살리셨다고 증거하였음이라 만일 죽은 자가…

9月 黙想 【次の世代】 20230920 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 12:2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。   最近、キリスト教で最も耳にする言葉が「「次の世代」である。教会も、少子化と高齢化という社会の流れに逆らうことはできないし、むしろ社会よりも教会の減少の方が急激に進んでいる。日曜学校はなくなり、学生と若者は教会から離れている。ということで教会を心配する人々は次の世代を育てるべきだと言います。   次の世代というのは、今の世代が基準になって言う言葉です。おそらく若い世代は誰かの次にはならない。彼らは彼らの時代を生きるだけだから。今の教会を受け継ぐことはなく、必要があれば自分たちの教会を建てていく。今の世代も前の世代を引き継いだとは思わない。かえって前の世代を乗り越えたと思っているのではないか。今の若い世代も、前のものを受け継ぐことない。ただ以前のことを乗り越えていく。   若者たちが教会を離れるのは、彼らを信仰生活にとどまらせなかったからではなく、福音の恵みが何かを伝えられなかったからだ。伝えられなかったのは、伝える中身がなかったからだろう。今の世代が逃したのは、次の世代ではなく、福音である。逃したのは、社会的信頼や宗教の教育ではなく、自分たちが信じるべき福音だった。   次の世代を心配する前に、まず今ここで自分の福音が回復できれば、それを見た若い世代はそれぞれの時代で福音を探し求めることになる。教えようとせず、植え替えようとせず、自分と教会の時代を省察し、恥と悔い改めをもって福音を求めることができれば、若い世代はその時に初めて福音を聞くこと、見ることになるだろう。教会のために若い世代が必要なのではなく、若い世代のための福音は必要とする。

9월 묵상 【다음 세대】 20230920(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 12:2너희는 이 세대를 본받지 말고 오직 마음을 새롭게 함으로 변화를 받아 하나님의 선하시고 기뻐하시고 온전하신 뜻이 무엇인지 분별하도록 하라.   최근 기독교에서 가장 많이 들리는 말 중에 하나가 다음 세대인 것 같다. 교회도 소자화와 고령화라는 사회의 흐름을 거스를 수 없겠지만, 오히려 사회보다 교회의 감소가 더 급격하게 진행되고 있다. 주일학교는 사라지고 학생들과 청년들은 이제 교회에…

9月 黙想 【チェダカ】 20230919 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。   聖書には「義」という言葉がよく出ているが、「義」は人間のものではなく神様のものだから、「義に飢え渇く」ということは、人が神様の御心に対する渇きと熱望を持っているということである。「世の中に神様が見えないことに対する渇き」、「そこで神様の御旨を叶えるための熱望」がすなわち、「義に飢え渇く」である。義に飢え、渇いたことがあるのか、それが潤される経験をしたことはあるのか。   八つの幸いの6節にある「義」は、ヘルラ語で「ディカイオスネ(δικαιοσυνη)」であるが、ヘブライ語では「チェダカ(צדקה)」である。ここで興味深いのは、イスラエル世界では「チェダカ」は、「寄付」の意味であるということだ。慈善という意味の英語「チャルリティ(Charity)」は、愛という意味のラテン語「カリタス(Caritas)」から来たから、チェダカとは関係がない。ユダヤ人は「寄付」という意味を言う時に、「正義」という言葉を使っている。慈悲という意味の「ヘセドゥ(חֶ֫סֶד)」があるが、ユダヤ人の寄付は、ヘセドゥではな、くチェダカである。したがって、ユダヤ人にとって「チェダカ」は貧しい人のための慈善ではなく、正しさ、正義、公正である。   アメリカ人口のうちに約2%がユダヤ人であるが、アメリカ全体の寄付額の30%をユダヤ人が出している。貧しい人のために寄付することは、ユダヤ主義では大切なことだ。これをしなければ、偶像崇拝にみなされることもある。その根拠は、神様の形によって造られた人の基本権を守らなければならないという天賦人権的価値、もう一つは、まだも行われなければならない神様が御心がこの地においても成されるためです。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」 ユダヤ人の満ち足りる、つまり卓越さは、「義に飢え渇いた者がチェダカを実践した結果ではないだろうか。低い所に流すと、さらに豊かになるチェダカの秋になりたい。  

9월 묵상 【체다카】 20230919(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  마태복음 5:6 의에 주리고 목마른 자는 복이 있나니 저희가 배부를 것임이요   성경에는 「의(義)」가 많이 나오는데 의(義)는 인간의 것이 아니고 하나님의 것이다. 그러므로 「의에 주리고 목마르다」고 한 것은 한 인간이 하나님의 뜻에 대한 갈증과 열망을 가지고 있다는 말이다. 「세상 속에 하나님이 보이지 않는 것에 대한 갈증」, 「그곳에서 하나님의 뜻을 이루어 내기 위한 열망」이 곧…

【愛する理由】 20230915 (金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

イザヤ書 43:4 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。  ‘愛するのに理由とか要る?’ どこかのマンガやドラマなどで、よく出てくるようなセリフ。しかし、よく考えて見れば、確かに私たちは愛するのに理由が要るようだ。     人間関係にとっても話が通じ、合性がいい人といたいのは当然なことで、異性との関係にとっても、だれでも頭の中に好きなタイプぐらいは持っている。しかし、その全てを満足させる人々だけと生きていくことはできないということが、私たちが生きているこの社会の現実だ。    だとしても、全てを我慢しながら生きているわけではない。その人との関係で、合わないところがあっても、それを見過ごしにすることができるほどのいいところがあれば、自分と合わなくても、異性としてのタイプではなくても、その関係を喜んで続けていくための支えとなる。しかし、結局それは理由のない愛ではなく、愛するための理由を探した努力の結果に過ぎない。    だからこそ、今日の御言葉は私たちとはあまりにも遠い話のように見えるかも知れない。今日の聖句からほんの何章先に行くと、イスラエルの民が神様に背き、罪を犯し、偶像崇拝する姿が赤裸々に記されている。私たちの目には、神様がイスラエルの民を愛する理由はどころか、愛せない理由しか見えない。    しかし、そのような彼らに向けて神様は、“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”と語っておられる。この神様の愛に理由は要らなかったのだ。ただ彼らの‘存在’そのものを愛する、そういう完全な愛そのものであるお方であるからだ。    この愛を見て、習っていこうとしても、間違いなく私たちにはできない。多分、神様もその事実を存じておられるだろう。しかし、だからこそ神様は今日、愛するための理由が必要な私たちのために、自分を愛し、他の人を愛せる理由を共に与えてくださった。それは、この世のものは比べにもならないほどに高価で、尊いお方が、自分のことを愛しているということであり、他の人々を愛しているということだ。      この世界の全てを創造したお方が自分のことを高価で、尊い者とし、愛してくださっているのに、自分自身を愛するために他にどんな理由が必要だろうか。そのお方が自分の隣の人々を高価で、尊い者とし、彼らを愛しておられるのに、彼らを愛するために他にどんな理由が必要だろうか。 https://youtu.be/uYlFwijOz3g?si=IbbwDxgdf6nVyJrd

【사랑할 이유】 20230915 (금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

이사야 43:4 43:4 네가 내 눈에 보배롭고 존귀하며 내가 너를 사랑하였은즉 내가 네 대신 사람들을 내어 주며 백성들이 네 생명을 대신하리니  ‘사랑하는데 이유가 필요해?’ 어딘가의 만화나 드라마에서 흔히 등장하는 가슴 설레는 대사, 그러나 곰곰이 잘 생각해보면, 우리는 사랑하는데 이유가 필요한 것 같다.    인간관계에 있어서도 말이 잘 통하고, 궁합이 잘 맞는 사람과 지내고 싶은 것이…

9月 黙想 【廉恥不顧】 20230914 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

  聖書に関心を持ったある留学生と会った。よく集中して聞いてくれて楽しくて有益な対話を交わした。その一方で、青年は少し慎重になっているようだった。聖書の勉強に参加することにしたが、その後肯定的な反応ができなければ、人々に失望を与えたり、失礼を犯すのではないかと心配をしていた。   私は知っている通り、そして信じている通りに答えた。「人が信じたいと言って信じられるわけではなく、信じたくないからといって信じないわけでもないです。ただ主イエス·キリストの福音を伝えられる機会に感謝するだけです。」 それは本気だった。信じる、信じないは私の手にはない。私にはきちんと伝えるかどうかの問題があるだけだった。   そういえば、青年は、礼儀正しく、廉恥のある人のようだった。好意に対して失望させたくない慎重さを持っていたし、昼休みに訪ねてきただけで申し訳ないと思っていた。ところが、ある意味では、クリスチャンとは実に廉恥知らずの人々ではないか。罪は自分が犯したが、神様の子が十字架にかけられ、それによって救われたと信じるが、十字架の前で涙一滴落とさない人ではないか。   もちろん、人は廉恥を重んじなければならない。恵みで受ける救いとすべてのことに責任が伴う社会的な道理を混同してはならない。明らかなことは、救いは罪人が廉恥知らずに受ける恵みであるということだ。「廉恥不顧」は、恥を顧みないという言葉である。資格はないが、大胆に受けることである。「お言葉はありがたいですが、私は大丈夫です!」救いは廉恥で遠慮することではない。こう言わなければならない。「御言葉であれば私が救われます。」 あの兄弟にも救いの恵みが望まれるように。