詩編 黙想 【いずれ崩落ちるもの】 20240309(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 49:1-12 49:1 すべて国々の民よこれを聞け。すべて世に住む者よ耳を傾けよ。 49:2 低い者も高い者も富む者も貧しい者もともどもに。 49:3 私の口は知恵を語り私の心は英知を告げる。 49:4 私はたとえ話に耳を傾け竪琴に合わせて謎を解き明かそう。 49:5 なぜ私はわざわいの日々に恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が  私を取り囲むときに。 49:6 彼らは自分の財産に拠り頼み豊かな富を誇っている。 49:7 兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。 49:8 たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。 49:9 人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。 49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に愚かな者浅はかな者も等しく滅び自分の財産を他人に残すのを。 49:11 彼らの心の中ではその家は永遠で住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。 49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。  昨日の御言葉から見たように、神様の城が永遠に立つこととは異なり、人間のすべてはいずれその終わりを迎えます。キリスト教の教理の終末論では、人間個人が迎える死という終末を個人的終末、世界中が迎える終末の日を普遍的終末といい、結局すべての存在に終わりの時が来るということを教えています。  遠い昔から一国を、民族を治める力を持っていた人々は、唯一自分が治められないこと、自分の死という存在を恐れ、そのために多くの偶像や迷信を作り出しました。しかし、今の私たちが知っている通り、誰もその死を治めることはできませんでした。  聖書は、その死というものがどこから来たのか、なぜ私たちに来たのかを明確に教えています。それは、死は人間の罪から来たものであり、依然として私たちの罪によって私たちと共に存在しているということです。つまり、その死を治めるためには、まず私たちの罪を治めなければならないということです。しかし残念ながらも、私たち自らはその罪を治めることも、その罪の代価を払うことも不可能です。  しかし、私たちが聖書を通して聞き、信じている通り、そのすべての罪の代価を払ってくださり、治める力を与えてくださった方が私たちの主イエス·キリストです。そして昨日の御言葉を通して見たように、その福音はすべてが終わりを迎える時にも決して消えることのない唯一のもの、神の城のようなものです。  人は死んで名を残すことが名誉だと言われています。実際、私たちの周りには誰かの名前から取ってきた地名、研究、法律など、様々な領域で人々は名前を残しています。しかし、私たちは彼らの名前は知っていても、彼らがどんな人なのかはまったく知りません。 彼らはもうこの世には存在していないからです。  神様の御名とその栄光は、すでにこの世に広く知られています。そしてそれと同時に、神様がどのような方であるのかもよく知られています。その神様が今も私たちと共にしておられるからです。そして、その神様がこれからも永遠に私たちと共にしておられるから、人の名前と存在はいずれ崩れ落ちて消えてしまうとしても、神様の御名と存在は決して忘れることがありません。 https://youtu.be/jgcbZEUTFe0?si=3pGM7n_Cqt6WgWM7

시편 묵상 【결국 무너질 것】 20240309(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 49:1-12 49:1 뭇 백성들아 이를 들으라 세상의 거민들아 모두 귀를 기울이라 49:2 귀천 빈부를 막론하고 다 들을지어다 49:3 내 입은 지혜를 말하겠고 내 마음은 명철을 작은 소리로 읊조리리로다 49:4 내가 비유에 내 귀를 기울이고 수금으로 나의 오묘한 말을 풀리로다 49:5 죄악이 나를 따라다니며 나를 에워싸는 환난의 날을 내가 어찌 두려워하랴 49:6 자기의 재물을 의지하고…

詩編 黙想 【永遠に立つ城】 20240308(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 48:1-14 48:1 主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山私たちの神の都で。 48:2 高嶺の麗しさは全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。 48:3 神はその都の宮殿でご自分を砦として示された。 48:4 見よ王たちは集ってともどもにやって来た。 48:5 彼らは見ると驚きおじ惑い慌てた。 48:6 その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。 48:7 東風によってあなたはタルシシュの船を砕かれる。 48:8 私たちは聞いたとおりを見た。万軍の主の都私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。セラ 48:9 神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。 48:10 神よあなたの御名と同じくあなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。 48:11 あなたのさばきのゆえにシオンの山が喜びユダの娘たちが楽しみますように。 48:12 シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。 48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。 48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。  詩編では神様を都、城などでよく比喩しています。神様は都であると言えば、私たちに一番先に思い出されることは逃れの町に対することかもしれませんが、神様は私たちの都であるという表現は神様の偉大さと栄光を表す表現としてもよく使われています。  日本各地に点在している多くの城、ダビデの宮、そして歴史の中に登場する多くの城や都がそうであるように、城は単純にその建物の大きさと華やかさだけでも人々に威圧感を与える物です。しかし最終的にその物たちが示すのは、その物の所有者が誰であり、どのような存在であるのかということです。  いくら大きくて派手な城であっても、その所有者が誰であるのかによってその評価が明らかに分かれます。同じ城であっても一国の英雄のような存在が居住している時と、暴君のような者が居住している時、その城を見る視線が変わるのと同じです。  詩篇記者が描写している神様の都の特徴は色々ありますが、王たちがその都を見るだけで子を産む時のような痛みを感じるほど、その栄光が大きいことを表しています。 しかし、世の中の王にとってはその都が恐れるべき存在であっても、その民にとっては、主の恵みを思わせる物であります。  今日の御言葉の通り、私たちはその城壁に心を留めて、注意深く見なければなりません。その都の隅々をよく見なければなりません。そのすべてが神様であり、神様が私たちに与えてくださったものであるからです。  今、私たちの目の前にシオンの山、そして神の都は見えません。しかし、それらのように神を明らかに表しているものはあります。まさにそれは聖書です。  聖書のすべての御言葉は神様そのものであります。また、そのすべての御言葉が私たちに与えられている神の恵みでもあります。その神様を知らない者たちに聖書の御言葉は恐ろしい裁きの言葉になっても、神様の民である教会たちにはその恵みを思わせる、その御名を誉れさせる御言葉になります。  従って、今日の御言葉の通りに、その御言葉という城壁を私たちが見たことで終わってはいけません。その御言葉は後に都の遺跡のようになるものではなく、永遠にその場に立つものであり、私たちと私たちの次の世代のための永遠の城壁となります。その城壁が、世の中から私たちを守ってくださり、私たちの真の主が誰であるのかを知らせてくれるでしょう。 https://youtu.be/g6e8Ga8sjps?si=OPOsWXSN12NAjdcM

시편 묵상 【영원한 성】 20240308(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 48:1-14 48:1 여호와는 위대하시니 우리 하나님의 성, 거룩한 산에서 극진히 찬양 받으시리로다 48:2 터가 높고 아름다워 온 세계가 즐거워함이여 큰 왕의 성 곧 북방에 있는 시온 산이 그러하도다 48:3 하나님이 그 여러 궁중에서 자기를 요새로 알리셨도다 48:4 왕들이 모여서 함께 지나갔음이여 48:5 그들이 보고 놀라고 두려워빨리 지나갔도다 48:6 거기서 떨림이 그들을 사로잡으니 고통이 해산하는…

詩篇 黙想 【神にほめ歌を歌え】 20240307(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 47:1~947:1 すべての国々の民よ手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。47:2 まことにいと高き方主は恐るべき方。全地を治める大いなる王。47:3 国々の民を私たちのもとにもろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。47:4 主は私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ47:5 神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の中を。47:6 ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。47:7 まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。47:8 神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。47:9 国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。   何を持って神様に対する思いと感情と意志を表しますか?私たちは神様の啓示を天上の何かではなく、人間の疎通体系である言語で受けました。人々はそのような神様御の言葉を読むことをいつも後に延ばしますが、神様は人間の言語をもって来られました。それは神様の御子であるイエス様が人になられたことと同じような神的配慮です。神様が人間の言語で啓示されたということは言い換えれば、言語で神様と人間は疎通できるということでもあります。したがって、神様のところに進む時は、自分の言語をもって進むことができます。たとえ不完全ですが、自分の文法と発音、そして自分のなまりのイントネーションまでも神様と疎通できる最高の道具になります。   宣教師たちは文盲の社会に入ってから学校を建てました。神様の御言葉を知るためには言語を理解しなければならなかったからです。信仰は歴史の上に常にありましたが、今のように多くの人が教育を受けた時代はありませんでした。したがって言い訳はできません。神様は人間の疎通手段である言語で啓示され、私たちはその言語で神様と疎通し、信仰を告白することができます。「私は理系だから…···」という言い訳をいつも聞きますが、専攻の問題ではありません。誰でも自分の言語で神様とコミュニケーションできます。技術とメディアの発達で活字を読まずにイメージで情報を消費する時代になりつつありますが、抵抗しなければなりません。文章を読んで解釈する特権を捨てると、イメージと映像を作る人々の意図によって理解が従属してしまうでしょう。まるで中世聖堂のステンドグラスのように…···   今日の本文で「ほめ歌を歌え」という言葉は、ヘブライ語で「ָזָמַר ジャマール」です。「褒める、歌う、演奏する」という意味です。韓国語のある翻訳では「詩をもって讃えよ」、ある翻訳はだた「歌え」と訳しました。あえて分野を分けるなら、文学で神様を讃え、音楽で神様を讃えることです。しかし、それは文学や芸術という分野に限るものではありません。それこそ、人間が神様に表現できる手段だからです。それぞれの専攻が何であれ、誰でも神様の前では自分の言語で祈り、神様の御言葉を受けることができます。音楽はもう一つの言語です。音楽の上に詩が重ねられると、意味ある歌を歌うことができ、楽器を用いた演奏で感情を表現することもできます。メロディーを作り、詩を作り、それを演奏して歌えば、神様に対する思いと心を表現する告白になるのです。   詩篇は宗教の経典ではありません。詩を作る人、音楽を作る人、演奏する人、礼拝する人が自分の感情を表した芸術の結果物です。音楽は神秘的なものであって、心がすぐに共感し、感情がかき立て、楽しくなり、すぐにでも踊れそうな感性を吹き込ませます。ダビデは軍人で、政治家でありましたが、私はハープ演奏者、詩を書く文学者、作曲家であったオールラウンド・シンガーソングライターのデイビッドが好きで、礼拝音楽を作り、指揮していたプロデューサーのデイビッドが好きです。Ⅰ歴代誌を見ると、礼拝音楽を作るダビデがどれほど細かいかがわかります。「契約の箱を取り戻す時は、ダンサーとしての面貌を見せたりもしました。自分の中にある信仰を表すためには必然的な活動だったのでしょう。苦難の人生だったダビデを自分と信仰を守ったは、ダビデの芸術性であると私は確信しています。芸術をもって苦しみを吐き出すことができたからこそ、生きられたのです。47編はダビデの詩ではありませんが、コラの子孫にとってもその動機と意味は変わりありません。   芸術とは、原初的な人間のもがきのようなものです。一部の専門家の専有物ではなく、すべての人間の合法的な現実逃避の出口です。音楽を聴いて、映画を観て、美術館に行くことができれば、息抜きができるでしょう。入浴時に体が弛緩するように音楽を聴くと緊張した心を弛緩することができます。芸術と宗教はもともと生まれが同じです。自分の感性を最大限にして、それを表現する作業は芸術と宗教が双子です。だから、儀式化され、硬直した宗教、または正しい規範的芸術はすべて矛盾です。音楽に門外漢だった私は信仰生活を始めてから、ふと賛美したくなりました。その朝、独学でギターを弾き始め、その夜に指から血が出ました。そのおかげで、その夜一番単純な曲ですが、一曲が弾けるようになりました。うれしかったです。やりたければできます。   そこで今日の詩篇の始まりは「すべての国々の民よ手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ」です。熟達した芸を必要とするものではありません。「手をたたく、喜びの声をもって」賛美します。「ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。6」とあります。私たちの経験、知識、感性を動かし、言語で表し、音楽で表し、映画にも、美術にも表現します。それを読み取って共感することも表現です。視覚と聴覚、神様に与えられたすべての感覚を通して神様に反応すること、それがすなわち賛美です。生成式AIがあらゆることを作り出す時代になりました。詩も書き、作曲もし、歌っています。賛美の詩を書き、曲も作りますが、非人格が神様を賛美することはできません。それはビッグデータではできません。私の中にある大いなる神様のことでしなければなりません。私のことば、私の詩、私の歌、私の涙、私の喜びと希望をもって私は私の神様をほめたたえることができます。

시편 묵상 【하나님을 찬양하라】 20240307(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 47:1~947:1 너희 만민들아 손바닥을 치고 즐거운 소리로 하나님께 외칠지어다47:2 지존하신 여호와는 엄위하시고 온 땅에 큰 임군이 되심이로다47:3 여호와께서 만민을 우리에게, 열방을 우리 발 아래 복종케 하시며47:4 우리를 위하여 기업을 택하시나니 곧 사랑하신 야곱의 영화로다 (셀라)47:5 하나님이 즐거이 부르는 중에 올라가심이여 여호와께서 나팔 소리 중에 올라가시도다47:6 찬양하라 하나님을 찬양하라 찬양하라 우리 왕을 찬양하라47:7 하나님은 온…

詩篇 黙想 【われらの避け所】 20240305(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 46:1~1146:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。46:2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。46:3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。46:5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。46:6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ46:8 来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。46:10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ   「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。10」「やめよ」といったのは、不安であっても他の慰めや助けを求めないようにということです。これは出エジプト記を思い出させます。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。出エジプト記14:14」エジプトはイスラエルを解放した後、心が変わりました。災いの日にはしばらく落ち込んでいましたが、災いが止まると自分の力を信じます。イスラエルも信仰がなかったのは同じです。奴隷生活が良かったと、モーセにあらゆる悪口を言いました。自分の力を信じて追いかけてくるエジプト軍と紅海を前にして震えているイスラエルに神様は言われました。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。出エジプト記14章14節」4節ではエジプト軍に神様が誰なのかを表すと言われました。「エジプトはわたしが主であることを知るようになる。4」エジプトとイスラエルはともに神様のなさる御業を見ることになるでしょう。   ボクシングのコーチが若いボクサーを訓練させることを見たことがあります。血気いっぱいの選手が自分は絶対に負けないと断言すると、チャンピオン出身のコーチは「すべての人は必ず負ける」と話していました。興亡盛衰を避けていくことはできず、必ず危機と患難が訪れ、失敗します。誰においても同じです。いかに頑張っても、いつかは負けることをプロは知っています。多くの人は自らを騙しています。信じられない自分のパンチを信じて生きているのです。患難の日を避けることができず、その日には今受けていることが守れなくなります。人生が自らを救える力を追い求めているようですが、実は人生も自分で自分を救えないということは知っています。実に人生が求めていることは慰めです。お金に慰められ、権力が慰められ、家族が慰められ、人気が慰められるということを知っているからです。一時的ですが、確かに慰めにはなります。しかし、その慰めは長続きができなく、真の慰めを受けられないように妨げるものです。その慰めに執着すると、信仰も、人間性も、道徳性も危なく、失ってしまうことがあります。   神様にのみ受けることができる慰めがありますが、それが魂の救いです。神様に救いの慰めを受けた人生は、他のものが与える慰めに執着することはできません。謙遜とは、滅びた後の後悔ではなく、興じる時にそれを認めることです。すべてが消えても、最後に残った避難所があることを望みます。 頼れば頼るほど良い、そのような避難所があるといいと思います。何ことにも頼れない時、じっとして神様の救いを見ることができればと幸いです。自分にじゃ世に打ち勝てる実力がないですが、信仰をもって静かに神様のなさることを見るのです。その証しがなくては神様を信じることはできません。 心を置くところがどこにもなく、頼るところがない時に神様が私たちの避難所になります。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」

마가복음 묵상 【우리의 피난처】 20240306(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 46:1~1146:1 하나님은 우리의 피난처시요 힘이시니 환난 중에 만날 큰 도움이시라46:2 그러므로 땅이 변하든지 산이 흔들려 바다 가운데 빠지든지46:3 바닷물이 흉용하고 뛰놀든지 그것이 넘침으로 산이 요동할지라도 우리는 두려워 아니하리로다(셀라)46:4 한 시내가 있어 나뉘어 흘러 하나님의 성 곧 지극히 높으신 자의 장막의 성소를 기쁘게 하도다46:5 하나님이 그 성중에 거하시매 성이 요동치 아니할 것이라 새벽에 하나님이 도우시리로다46:6…

마가복음 묵상 【왕의 신부】 20240305(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 45:1~1745:1 내 마음에서 좋은 말이 넘쳐 왕에 대하여 지은 것을 말하리니 내혀는 필객의 붓과 같도다45:2 왕은 인생보다 아름다와 은혜를 입술에 머금으니 그러므로 하나님이 왕에게 영영히 복을 주시도다45:3 능한 자여 칼을 허리에 차고 왕의 영화와 위엄을 입으소서45:4 왕은 진리와 온유와 공의를 위하여 위엄있게 타고 승전하소서 왕의 오른손이 왕에게 두려운 일을 가르치리이다45:5 왕의 살이 날카로와 왕의…

詩篇 黙想 【王の花嫁】 20240305(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 45:1~1745:1 すばらしいことばで私の心は沸き立っている。王のために私が作った詩を私は歌おう。私の舌は巧みな書記の筆。45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。45:3 勇士よあなたの剣を腰に帯びよ。あなたの威厳とあなたの威光を。45:4 あなたの威光は勝利のうちに進み行け。真理と柔和と義のゆえにあなたの右の手はあなたに教えよ。恐るべきわざを。45:5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ王の敵は気を失う。45:6 神よあなたの王座は世々限りなくあなたの王国の杖は公平の杖。45:7 あなたは義を愛し悪を憎む。それゆえ神よあなたの神は喜びの油をあなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。45:8 あなたの服はみな没薬アロエシナモンの香りを放ち象牙の宮殿に流れる弦の調べはあなたを喜ばせた。45:9 あなたの貴婦人たちの中には諸国の王の娘らもいて王妃はあなたの右に立つ。オフィルの金を身に着けて。45:10 娘よ聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。45:11 そうすれば王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。45:12 娘ツロは贈り物を携え民のうちの富む者もあなたの好意を求めて来る。45:13 王の娘は奥にいて栄華を極めその衣には黄金が織り合わされている。45:14 彼女はあや織物をまとい王の前に導かれる。おとめたちが彼女の後に付き従い彼女はあなたのもとに連れて来られる。45:15 喜びと楽しみをもって彼女たちは導かれ王の宮殿に入って行く。45:16 あなたの息子らがあなたの父祖に代わりあなたは彼らを全地の君主に任じる。45:17 私はあなたの名を代々にわたって呼び求めよう。それゆえ国々の民は世々限りなくあなたをほめたたえよう。   詩人は王の栄光を讃えますが、6節ではその王を王にする方について神様と呼びます。「神よあなたの王座は世々限りなくあなたの王国の杖は公平の杖。6」「杖」の文脈上の意味は「統治」です。神様の統治の中に王の栄光と能力があるということです。詩篇45編6節が重要なのはヘブル人への手紙の1章がイエス·キリストを天使と比較したキリスト論でこの御言葉を引用したからです。「御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。ヘブル人への手紙1:8」ということで役割を整理すれば、父なる神様の万有の統治の中で、イエス·キリストが全権を委任された王として来られたこと、詩編45編はメシア予言です。   王の話しに戻ります。その王が結婚します。詩人は花嫁に、これまでのすべてのことを忘れ、夫になる王に仕えることを言います。そうすれば王のすべての権限は王妃のものになり、王妃はすべての栄光と喜びを楽しむことになるでしょう。45編では王は誰か、花嫁は誰かを知ることが大切です。一人の聖徒が教会であるということは最近よく耳にしている言葉です。それはもちろんです。建物や組織ではなく、聖霊が内住する聖徒こそが教会であることは間違いありません。ただし、その言葉が教会共同体に責任を負わないということから出てはいけません。聖徒がすなわち教会であるということは本当のことですが、怠惰で無責任な人々の言い訳として使われてはいけません。聖徒が教会であり、その教会はキリストの花嫁です。花嫁の教会は、花婿のキリストを迎えて自分と世を捨て、もっぱら王なる、花婿なるキリストだけに仕え、聞き従わなければなりません。   だから、パウロは、エペソ人への手紙の5章でイエス·キリストと教会の関係を夫と妻の関係をもって説明しました。前後の文脈から見ると、聖徒たちの夫婦関係について話しているようですが、32節を見ると、夫婦関係を教える根拠が花婿なるキリストと花嫁なる教会の関係を通して話していることが分かります。「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。5:32」第1コリントの手紙の11章でも「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。2」と言いました。もちろん、パウロが初めて教えたわけではありません。復活したイエス様はヨハネの福音書の14章で「あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。2」と言いました。イエス様が場所を用意しに行くということは、花婿が花嫁と一緒に暮らす新居を準備するという意味です。当時のユダヤの結婚文化では、婚約をすればすでに法的な夫婦になり、それから花婿は花嫁と一緒に住む場所を設け、花嫁は装いながら待っていたからです。   教会は花嫁であり、イエス·キリストは花婿です。教会がイエス·キリストの花嫁ということは、キリストに属し、キリストだけに仕える時に無限の栄光と特権を持つということです。聖書が語る教会は地上の宗教団体ではありません。キリストの三つの職は王と祭司長と預言者でした。キリストの職を受け継いだ教会は、世を統治する王職と御言葉を伝える預言者職、礼拝する祭司の職を履行しなければなりません。妻は夫のすべてを共有するように、花嫁なる教会は花婿なるイエス·キリストとすべてを共有します。そして、天においても地においても、すべての権威が与えられました。(マタイ福音書28:18)教会はキリストのみに仕えます。教会は世界を統治し、御言葉を伝え、神様を礼拝する働きをしなければなりません。