고린도전서 묵상31【주가 임하실 때까지】220610(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 16:13~2416:13 깨어 믿음에 굳게 서서 남자답게 강건하여라16:14 너희 모든 일을 사랑으로 행하라16:15 형제들아 스데바나의 집은 곧 아가야의 첫 열매요 또 성도 섬기기로 작정한 줄을 너희가 아는지라 내가 너희를 권하노니16:16 이 같은 자들과 또 함께 일하며 수고하는 모든 자에게 복종하라16:17 내가 스데바나와 브드나도와 아가이고의 온 것을 기뻐하노니 저희가 너희의 부족한 것을 보충하였음이니라16:18 저희가 나와 너희…

Ⅰコリント 黙想30【財布の中にある信仰】220609(水) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 16:1~1216:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。16:2 私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。16:3 私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。16:4 もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。16:5 私はマケドニアを通って、あなたがたのところへ行きます。マケドニアはただ通過し、16:6 おそらく、あなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらうためです。16:7 私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。16:8 しかし、五旬節まではエペソに滞在します。16:9 実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。16:10 テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにしてあげてください。彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちと一緒に戻るのを待っています。16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くように、私は強く勧めました。けれども、彼は今のところ行く意志は全くありません。しかし、良い機会があれば行くでしょう。   教会の正統性としてはエルサレム教会が本家であり、コリントは異邦人の教会として開拓された教会です。コリントは大都市であり、エルサレムは田舎でした。パウロがコリント教会で献金を集めてエルサレムに送ろうとしているのは、エルサレムが飢饉で財政的な困難を経験しているからでもあり、それのために弟が兄を助ける兄弟愛を発揮するためです。ユダヤ教的な傾向が残っているエルサレム人は、まだ異邦人教会に対する拒否反応を持っていました。その上に愛がこもった献金が伝われば、兄弟教会という一致感と強い共同体性の結束を持つことは明らかです。それを通して聖なる公同と教会、聖徒の交わりが作り上げます。パウロは地中海に散在した教会を一つの教会に、すなわち公教会としてつなげようとしています。ということで財政の危機を一致と連合の機会として使っているのです。   お金で愛するのではなく、お金で信じるものでもありません。誰もが認めるように、真実な心が先です。しかし、同時に誰もが認めるように、本当の信仰と真のの愛を表現するときに、財布が開かないこともありません。パウロは、各自が毎週の収入の中で定められた一定額をエルサレム教会のために献金として積立るように言いました。献金は気分ではなく、生活の一部です。自分の大切なお金を取り、ささげるということは確かにに犠牲です。しかし、犠牲にならずにキリストの犠牲の恵みを知ることはできないのが不変の原則です。すべての教会とすべての聖徒を覗くと、犠牲する分、信仰と愛が伸びることが分かります。教会では、いつも信仰と愛を強調していますが、パウロは自分の財布の中にある信仰と愛をエルサレムのために使うように強調しています。

고린도전서 묵상30【지갑 안에 있는 믿음】220609(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 16:1~1216:1 성도를 위하는 연보에 대하여는 내가 갈라디아 교회들에게 명한것 같이 너희도 그렇게 하라16:2 매주일 첫날에 너희 각 사람이 이를 얻은대로 저축하여 두어서 내가 갈 때에 연보를 하지 않게 하라16:3 내가 이를 때에 너희의 인정한 사람에게 편지를 주어 너희의 은혜를 예루살렘으로 가지고 가게 하리니16:4 만일 나도 가는 것이 합당하면 저희가 나와 함께 가리라16:5 내가 마게도냐를…

Ⅰコリント 黙想29【死の死亡】220608(水) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 15:50~5815:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。   パウロはコリント教会の聖徒たちに霊的な秘密と言います。死と復活を「変化」という言葉で言います。聖徒は死ぬことではなく、変化すると言います。朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着ます。それで復活の勝利が死を吞み込むことになります。死が死にます。死が死んだのは復活のゆえです。それはイザヤ25章の預言の成就です。「永久に死を吞み込まれる。神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。」   私たちにとって、復活はどういう意味ですか?誰もが死を恐れています。しかし、復活は死を飲み込みます。55節の「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」は、「死がいつ勝ったのか、死の毒針はどこにあるのか」と死を叱っているのです。死の毒は罪です。しかし、キリストの死と復活によって消滅しました。ですから、イエス・キリストによって私たちが勝ったのです。私たちという一人称複数は、イエス・キリストの復活を信じる聖徒たちです。   復活を信じない人は、自分が死ぬ存在であることも信じません。目に見える死も自分のもので信じないから、復活を信じることはそもそもできません。死を信じる人であるなら、復活の福音は信じざる得ません。ですから、まず、死を受け入れなければなりません。その上に復活の信仰を受け入れなければ、その信仰が死を打ち破ります。パウロはそのような聖徒たちに信仰の上で神様の働きに忠実であることを求めます。キリストのために復活する聖徒の忠誠は、キリストの中で無駄でないことを知っているからです。

고린도전서 묵상29【죽음의 사망】220608(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 15:50~5815:50 형제들아 내가 이것을 말하노니 혈과 육은 하나님 나라를 유업으로 받을 수 없고 또한 썩은 것은 썩지 아니한 것을 유업으로 받지 못하느니라15:51 보라 내가 너희에게 비밀을 말하노니 우리가 다 잠잘 것이 아니요 마지막 나팔에 순식간에 홀연히 다 변화하리니15:52 나팔 소리가 나매 죽은 자들이 썩지 아니할 것으로 다시 살고 우리도 변화하리라15:53 이 썩을 것이 불가불…

Ⅰコリント 黙想28【うなぎの夢】220607(火) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 15:35~4915:35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。15:37 また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。15:38 しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。15:39 どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。   淡水うなぎと海うなぎを区別することができますか?鮭は海に住んでいて、産卵期に川をさかのぼりますが、うなぎは鮭とは逆に淡水で生きていて卵を産むために海に出ていきます。日本と韓国の川に住んでいた淡水うなぎは、産卵期になると川と海が出会う境界で数ヶ月滞在し、海水に適応した後、数千キロの太平洋を渡ります。グアムまで行くそうです。その太平洋の真ん中で生まれたうなぎは、再びアジア地域の淡水に入り、生き、産卵期に再び海に出て卵を産み、そこで死にます。   うなぎは自分が誰なのか知らなければなりません。淡水ウナギはたとえ濁った淡水に住んでいますが、本来は太平洋の深海で生まれ、数千キロを泳いで小川に入ったのです。みにくいアヒルのこを応援したいように、うなぎも自分の故郷が太平洋の真ん中であることを忘れないように応援したいと思います。   たとえ、肉体を持って泥湯のような世の中に生きていますが、聖徒は天に属している人です。人間の中身は狭いのですが、もともと広いところ、より深いところから来ました。それを忘れずに生きていきたいです。きっと戻るところがあります。今朝の本文は、私たちが地上に属して生きていても、私たちは天に属する栄光を持つ人々であると言います。自分が誰であるかを知っていることはいかに大切なことですか?その知識に至る人は、必ず神様と出会ところに至ります。  

고린도전서 묵상28【민물장어의 꿈】220607(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 15:35~4915:35 누가 묻기를 죽은 자들이 어떻게 다시 살며 어떠한 몸으로 오느냐 하리니15:36 어리석은 자여 너의 뿌리는 씨가 죽지 않으면 살아나지 못하겠고15:37 또 너의 뿌리는 것은 장래 형체를 뿌리는 것이 아니요 다만 밀이나 다른 것의 알갱이 뿐이로되15:38 하나님이 그 뜻대로 저에게 형체를 주시되 각 종자에게 그 형체를 주시느니라15:39 육체는 다 같은 육체가 아니니 하나는 사람의…

Ⅰコリント 黙想27【日々死ぬ理由】220606(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 15:20~3415:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。15:27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。15:28 そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。15:29 そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。15:30 なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。15:31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。15:32 もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。15:33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。15:34 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。   パウロが復活について話しているは、コリント教会が教会の柱のように握っていなければならない復活の理解と信仰が欠けていたからです。今まで指摘されてきたコリント教会の倫理的問題,聖徒の間の関係の問題などは,コリントの聖徒が復活について理解せず,信じないことから生じた結果です。つまり、信仰がないので、絶えず問題が発生します。教会と聖徒は、常に信仰の在るべきところに戻り、信じていることが何かについて真剣に点検しなければなりません。ということで、31節で「私は日々死んでいるのです」と言いました。毎日のように死ぬというのは、毎日のようにキリストの中で復活するということです。信じることがあるから死ぬことができます。30節に「絶えず危険にさらされている」の「絶えず」も英語では every hourと翻訳しました。毎時間に危険を対面できるということも、信じることがあるからです。だからパウロが危険の中でも献身できるのです。しかし、パウロにとって信仰の情熱を誇ることがないのは、自分の献身の動機、つまり、信仰というのは死からよみがえらせる復活を信じる信仰であるからです。   15章は、復活に関する重要な神学的な情報を提供していますが、実際にパウロは復活という科目を講義して終わらせるつもりではありません。復活の信仰のない聖徒たちの生き方を指摘するためでした。復活の信仰がないから、世に騙され、教会に問題を起こし続けるのです。それで、33節以下の叱責が続きます。「惑わされてはいけません。悪い交際は良い習慣を損なうのです。目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。33,34」行為を正す問題ではなく、先に信じることを正すべきです。しかし、それは最終的に行為を正すことになると思います。価値が変われば、生き方は変わるからです。各自の生き方から「何を信じるのか」を現さなければなりません。 復活という信仰の根がないのに、信仰の実を結ぶことはできないでしょう。  

고린도전서 묵상27【날마다 죽을 수 있는 이유】220606(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 15:20~3415:20 그러나 이제 그리스도께서 죽은 자 가운데서 다시 살아 잠 자는 자들의 첫 열매가 되셨도다15:21 사망이 사람으로 말미암았으니 죽은 자의 부활도 사람으로 말미암는도다15:22 아담 안에서 모든 사람이 죽은 것 같이 그리스도 안에서 모든 사람이 삶을 얻으리라15:23 그러나 각각 자기 차례대로 되리니 먼저는 첫 열매인 그리스도요 다음에는 그리스도 강림하실 때에 그에게 붙은 자요15:24 그 후에는…

Ⅰコリント 黙想26【コリント教会を守る理由】220604(土) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 15:1~1115:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。   いぜれもできなく、責めと勧告を繰り返したパウロは、ジレンマの状況から抜け出で再び本質を考えます。コリント教会の人々と戦っている根源的理由について考えるのです。教会が持たなければならないのは復活の福音です。たとえ他のものが足りなくても、復活の福音を信じる信仰が薄ければ、教会と呼ぶことはできません。それでパウロは15章に入り、コリント教会の聖徒たちに福音を言い出し、その中にある復活を語りました。それが当時の混乱していた状況から戻るべき原則であり、原理であり、本質であるからです。それは適度に秩序よくするような問題ではなく、確かにかつ原則的に前提しなければならない問題でした。   異言という祈りの主題と預言という解釈の主題をめぐって戦っていた人々は、復活については何と言ったのでしょうか。果たして復活の福音をきちんと信じてから戦っていたのでしょうか?目的意識を失うと、どうでもいいような現象に執着して戦います。パウロも戦っていますが、パウロは教会が存在しなければならない本質のために戦っています。自分も教会を迫害する邪魔者だったことを告白しています。だから、パウロがコリント人よりも道徳的に、地位的に優位だからという意味ではありません。教会を守っていかなければならない理由、福音について切に訴えているだけであると思います。