에다가와 사랑의 교회 고난주간 요한복음 묵상4 【나의 왕 나의 주】220414(목)

요한복음 19장 14~2219:14 이 날은 유월절의 예비일이요 때는 제 육시라 빌라도가 유대인들에게 이르되 보라 너희 왕이로다19:15 저희가 소리지르되 없이 하소서 없이 하소서 저를 십자가에 못 박게 하소서 빌라도가 가로되 내가 너희 왕을 십자가에 못 박으랴 대제사장들이 대답하되 가이사 외에는 우리에게 왕이 없나이다 하니19:16 이에 예수를 십자가에 못 박히게 저희에게 넘겨주니라19:17 저희가 예수를 맡으매 예수께서 자기의…

枝川愛の教会 受難週 ヨハネの福音書 黙想3【イエス様の死因】220413月

ヨハネの福音書 19章 1~1319:1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。19:2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。19:3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。19:4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」19:5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」19:6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。19:9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」19:11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」19:12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」19:13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。   ヨハネの福音書の19章に進みました。イエス様がピラトの法廷で苦しまれています。その現場にはローマ総督のピラト、ローマ軍兵、ユダヤ人の大祭司、彼らに従うユダヤ人がいます。邪悪な人とそれに従う愚かな人々、そして優柔不断の人と彼の命令に従う人です。大祭司とユダヤ人は、ピラトにイエス様の死を求めますが、ピラトはイエス様を殺したくありませんでした。無罪であることを知っていたからです。しかし、総督ピラトはユダヤ社会を統治という政治的立場を守らなければならなかったので、イエス様を死に渡します。今朝の箴言のみことばは、「血に飢えた者たちは誠実な人を憎み、心の直ぐな人のいのちを狙う箴言29:10」とありました。   私たちは、「イエス様が十字架につけられた理由を私たちの罪のため」と言います。間違っではありませんが、その答えと生き方には距離があり、十字架の実体も、自分の信仰の実体を見つからない時があります。私の罪のために誰かが死んだならば、私の人生は変わらなければならないからです。十字架は実際であり、実体です。抽象的ではありません。イエス様の受難と死の現場を覗き見ると、イエス様が死んだ理由には具体的な実体があります。イエス様の死因は、人々の自分のための利己的な貪欲です。真実を真実と思わず、事実を事実に語らず、ただ自分の利益にこだわる時、イエス様は死にました。自分の目の前の利益をに執着するときにイエスは死に、自分の信仰をも死にます。イエス様の死因はあきらかに人間の自己中心の貪欲です。イエス様が私の罪のために死んだと言っても、まだ欲に支配されているなら、そこで信仰の実体を見つけることはできません。

에다가와 사랑의 교회 고난주간 요한복음 묵상3 【예수님이 죽은 이유】220413(수)

요한복음 19장 1~1319:1 이에 빌라도가 예수를 데려다가 채찍질하더라19:2 군병들이 가시로 면류관을 엮어 그의 머리에 씌우고 자색 옷을 입히고19:3 앞에 와서 가로되 유대인의 왕이여 평안할찌어다 하며 손바닥으로 때리더라19:4 빌라도가 다시 밖에 나가 말하되 보라 이 사람을 데리고 너희에게 나오나니 이는 내가 그에게서 아무 죄도 찾지 못한 것을 너희로 알게 하려 함이로다 하더라19:5 이에 예수께서 가시 면류관을…

枝川愛の教会 受難週 ヨハネの福音書 黙想2 220412月【互いに足を洗うことの意味】220412月

ヨハネの福音書 12章 23~3312:23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」12:27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。12:30 イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。12:31 今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。12:32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」12:33 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。   今朝は、イエス様が弟子たちの足を洗う洗足式のお話です。誰かの足を洗うということはしもべの仕事です。ところがイエス様は弟子たちの足を洗われたのです。その仕えと謙遜を覚え、私たちも洗足式を再現することもあります。そのようにして改めて共同体を謙遜に仕えることを誓い、結束を固めることはとてもいい意味を持っていると思います。   しかし、イエス様の洗足式のお話で見つけなければならない第1の主題は謙遜ということよりアイデンティティのことです。イエス様が弟子たちの足を洗うと、ペテロは恐縮でそれを拒否しました。すると、イエス様が私があなたの足を洗わなければ、私とあなたは関係があいませんと言われました。すると、ペテロはでは、全身を洗ってくださいと願うわけです。   その時、イエス様は体はすでに清潔になっているので、体を再び洗う必要はなく、足だけお互いに洗えば良いと言われます。救われた聖徒も、手に血をつけ、足に土をつけます。その罪に気づいたとしても,再び洗礼を受ける必要はありません。あるいはイエス様にもう一度十字架につけてもらうようお願いする必要はありません。救われた聖徒の身分を確認し、その都度足を洗うことで回復します。自分の知性と霊性と感性の中にイエス様をしっかりと告白する信仰が明らかであるなら、その人は救われた人です。   聖徒の祈りの時間、公礼拝の時間、そして聖徒の交わりの時間が、もう体を洗ってくださったイエス様の恵みを覚え、自分を整えることが洗足の時間です。今週は日曜礼拝の後、久しぶりに聖徒たちが集まって、それぞれ信仰の話をもって交わりました。みんなそれを喜びました。洗足式のようなことだと思います。お互いの信仰を話し、アイデンティティを確認し、足についた汚れを洗い流す時間でした。   イエス・キリストの血は聖徒の心臓に入り、私たちの体の中を流れています。聖徒はお互いに足を洗うことによって霊的な呼吸をします。主日学校でこの説教をしたところ、子どもたちが私たちの教会はなぜ洗足式をしないのかと尋ねました。私はこれからもしないと答えました。教会の中には、お互いの信仰のためにできる奉仕がたくさんあります。信仰と謙虚というのはイベントではありません。それを行うのが洗足式です。たらいに水を入れて礼拝堂に持ってきて、洗足式をする人よりも、その後で水を拭き、整理をする人こそが聖徒の足を洗う人です。

에다가와 사랑의 교회 고난주간 요한복음 묵상2 【서로 발을 씻어주는 것의 의미】220412(화)

요한복음 13장 3~1513:3 저녁 먹는 중 예수는 아버지께서 모든 것을 자기 손에 맡기신 것과 또 자기가 하나님께로부터 오셨다가 하나님께로 돌아가실 것을 아시고13:4 저녁 잡수시던 자리에서 일어나 겉옷을 벗고 수건을 가져다가 허리에 두르시고13:5 이에 대야에 물을 담아 제자들의 발을 씻기시고 그 두르신 수건으로 씻기기를 시작하여13:6 시몬 베드로에게 이르시니 가로되 주여 주께서 내 발을 씻기시나이까13:7 예수께서 대답하여…

枝川愛の教会 受難週 ヨハネの福音書 黙想1 220411月【一粒の麦】220411月

ヨハネの福音書 12章 23~3312:23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」12:27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。12:30 イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。12:31 今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。12:32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」12:33 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。   稲の種を炊くと飯になり、種まきをすると稲になります。米一粒に胚芽が付いています。米の目がなくなるまで精米すると栄養がほとんど残っていないそうで、目に栄養とエネルギーがあります。種まきをすると、胚芽のために米一粒が死にます。それで種が発芽します。芽生えます。冬すがら乾いた地に芽が出てきて青くなると驚くべき命の復活を見ることができます。稲の穂1本に200個の米の粒が結ばれるそうですが、たくさんの身をつけた稲は、謙虚に頭を下げます。   苦難週に入り、QTはヨハネの福音書に移りました。イエス様がご自身の十字架を預言されるなかで、一粒の麦の話をされました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。24」稲の種でご飯を炊かないように、福音でご飯を炊き、ひと片食に済むことはしません。福音という種を抱いたイエス様の体は地に落ちて死に、芽生え、木になり、十字架の木に多くの救いの実が結ばれました。私たちの信仰の告白もその実の中で一つです。その実が偽物でなければ,わたしたちも福音の種を持っているはずです。   神様が選ばれた民を救うときに、天地開闢、奇想天外の方法でなされたのではなく、地上の秩序に従われました。献身と犠牲を通して救いという愛を実現されたのです。独り子のイエス・キリストの体は地に落ちて死に、種の中にあった福音は実を結びました。「一粒の麦が地に落ちて死に、豊かな実を結ぶ原則」は今も変わらず、これからも変わらないです。実を見ると木が分かります。誰かの献身と犠牲は、誰かの信仰の告白につながります。

에다가와 사랑의 교회 고난주간 요한복음 묵상1 【한 알의 밀알】220411(월)

요한복음 12장 23~3312:23 예수께서 대답하여 가라사대 인자의 영광을 얻을 때가 왔도다12:24 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 한 알의 밀이 땅에 떨어져 죽지 아니하면 한 알 그대로 있고 죽으면 많은 열매를 맺느니라12:25 자기 생명을 사랑하는 자는 잃어버릴 것이요 이 세상에서 자기 생명을 미워하는 자는 영생하도록 보존하리라12:26 사람이 나를 섬기려면 나를 따르라 나 있는 곳에 나를 섬기는…

エズラ QT8 220409土【エズラの帰還】エズラ 7章 1~10

エズラ 7章 1~107:1 これらの出来事の後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、セラヤの子エズラという人がいた。セラヤはアザルヤの子、順次、ヒルキヤの子、7:2 シャルムの子、ツァドクの子、アヒトブの子、7:3 アマルヤの子、アザルヤの子、メラヨテの子、7:4 ゼラフヤの子、ウジの子、ブキの子、7:5 アビシュアの子、ピネハスの子、エルアザルの子、このエルアザルは祭司のかしらアロンの子である。7:6 このエズラがバビロンから上って来たのである。彼はイスラエルの神、主がお与えになったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。7:7 アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエル人の一部、および祭司、レビ人、歌い手、門衛、宮のしもべの一部が、エルサレムに上って来た。7:8 エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。7:9 すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発した。彼の神の恵みの御手は確かに彼の上にあり、第五の月の一日に、彼はエルサレムに着いた。7:10 エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。   今までのエズラ1章から6章までは聖殿再建に関することであれば、今朝から始まる7章から10章まではイスラエル共同体の再建の話であります。形は作られたので中身を満たしていきます。『エズラ』に「エズラ」が登場します。エズラは有力な祭司長の家紋の出身で,権威ある律法学者でした。ペルシャで政治的影響力も持っており,神様の恵みで、王に信頼され、王に願うことは何でもかなえられていたと紹介しています。ペルシャ王はエルサレムに帰りたい人は誰でもエズラと一緒に行くように許します。王はエズラ便に聖殿にささげる供物をささげ、エズラが通っていくすべての地方の倉庫管理者にエズラが求める食料を供給するようにします。エズラは4ヶ月間、1500キロメートルの旅程でエルサレムに到着します。   6章から7章に1ページめくりましたが、時間的には再建工事完工から60年が過ぎているところであります。60年間、基準のない社会は混乱を覚えていたはずです。エズラがイスラエルに来たのは,イスラエルが長年の捕虜生活の中で忘れてしまった律法を教えるためでした。王はエズラにイスラエルだけでなく、周辺の地域の裁判の権限とともに律法を教える権威を与えてパレスチナに送りました。王の大使となり、神様のみことばを教えるイスラエルの律法教師になって戻ったわけであります。エルサレムには聖殿と町が建てられ、共同体の準備ができていましたが、その中身はまだ整えられていないのです。それが神様のみことばです。聖書は信仰と人生の絶対かつ唯一の規範です。世界観と価値観、考え方と社会倫理及び個人倫理にまで神様のみことばが内在しなければなりません。聖書を読み、聞きますが、自分を捨てる練習を重ねなければ、みことばは内在しません。常に学び、みことばが根を下ろして行きたいと願います。

에스라 QT8 220409토【에스라의 귀환】에스라 7장 1~10

에스라 7장 1~107:1 이 일 후 바사 왕 아닥사스다가 위에 있을 때에 에스라라 하는 자가 있으니라 저는 스라야의 아들이요 아사랴의 손자요 힐기야의 증손이요7:2 살룸의 현손이요 사독의 오대손이요 아히둡의 육대손이요7:3 아마랴의 칠대손이요 아사랴의 팔대손이요 므라욧의 구대손이요7:4 스라히야의 십대손이요 웃시엘의 십 일대손이요 북기의 십 이대손이요7:5 아비수아의 십 삼대손이요 비느하스의 십 사대손이요 엘르아살의 십 오대손이요 대제사장 아론의 십…

エズラ QT7 220408金【聖殿再建のリーダーシップ】エズラ 6章 13~22

エズラ 6章 13~226:13 ダレイオス王がこう書き送ったので、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちは、間違いなくこれを行った。6:14 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。6:15 こうして、この宮はダレイオス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。6:16 イスラエルの子ら、すなわち、祭司、レビ人、そのほかの捕囚から帰って来た人たちは、喜びをもってこの神の宮の奉献式を祝った。6:17 彼らはこの神の宮の奉献式のために、雄牛百頭、雄羊二百匹、子羊四百匹を献げた。また、イスラエルの部族の数にしたがって、全イスラエルのために罪のきよめのささげ物として、雄やぎ十二匹を献げた。6:18 また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、祭司をその区分にしたがって、レビ人をその組にしたがってそれぞれ任命した。モーセの書に記されているとおりである。6:19 捕囚から帰って来た人々は、第一の月の十四日に過越を祝った。6:20 祭司とレビ人たちは一人残らず身をきよめて、みなきよくなっていたので、捕囚から帰って来たすべての人々のため、彼らの同胞の祭司たちのため、また彼ら自身のために、過越のいけにえを屠った。6:21 捕囚から戻って来たイスラエル人はこれを食べた。イスラエルの神、主を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみなそうした。6:22 そして彼らは七日間、喜びをもって種なしパンの祭りを守った。これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。   ダレイオス2年で聖殿の再建工事が再開され、ダレイオス6年、すなわち4年後に聖殿を完成します。4年というのはとても速いスピードです。ソロモン聖殿も7年間の工事期間でした。もちろん、スケールと中身はソロモンのものに比べられないものでしたが、大きな成果であると言えます。それを14節にてこう言います。「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。14」イスラエルは集中力のあるリーダーシップの中でひたすら聖殿の建設を進め、4年完工したわけであります。   ここでハガイとゼカリヤのリーダーシップと推進力を評価せざる得ません。仕事を早く終わらせる力だけではないのです。彼らは命をかけて聖殿工事に取り組みました。ダレイオスがイスラエルの聖殿の工事を妨げる人がいたら、自分の家の柱を取り出してそこにつけて殺すと警告しましたが、言い換えれば、ハガイとゼカリヤはまだ王に許されていない状態で聖殿工事を再開したので、命を失う可能性があることです。ところがハガイとゼカリヤは進めました。彼らが進めなかったら、完成の喜びはなかったはずです。消極的に王の命令を待っていたらチャンスは来ません。時を知る霊性と、恐れずに推進していく献身こそがイスラエルを統率したリーダーシップの源泉であったと思います。   イスラエルの人々は、ハガイとゼカリヤが工事再開を急かすときに、負担を感じていたかも知れませんが、ついにイスラエルの人々が彼ら預言者から聞いてなかったら聖殿の再建はできません。ハガイとゼカリヤは迷うことなく工事を指揮し、4年ぶりに使命を果たします。神様は、私たちに忍耐を求められるときがありますが、時が満ちると一瀉千里に進まれます。待つべき時と立ち上がるべき時を知る霊性は優れたものです。そして恐れずに立ち上がる勇気は美しいものです。神様の上げ潮のときに、全身全霊で献身できるということは、いかに幸いなことでしょうか。