고린도전서 묵상4【사도된 증거】2200510(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 4:9~214:9 내가 생각건대 하나님이 사도인 우리를 죽이기로 작정한 자 같이 미말에 두셨으매 우리는 세계 곧 천사와 사람에게 구경거리가 되었노라4:10 우리는 그리스도의 연고로 미련하되 너희는 그리스도 안에서 지혜롭고 우리는 약하되 너희는 강하고 너희는 존귀하되 우리는 비천하여4:11 바로 이 시간까지 우리가 주리고 목마르며 헐벗고 매맞으며 정처가 없고4:12 또 수고하여 친히 손으로 일을 하며 후욕을 당한즉 축복하고…

Ⅰコリント 黙想3【】220509(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 4:1~84:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。4:6 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。4:7 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。   忠誠、忠実という言葉には力を尽して最後まで絞るような感じがありますが、忠誠、忠実と名づけられている限り、忠実な人が主人ではなくて、忠実の対象が主人です。忠実はしもべが主人に対して行うであり、もし、それに業績があってもそれも主人に従属するものです。もし、神様に忠実したことが自分の功績になるなら、それは神様に対する忠誠ではなく、自分のための業績です。自分のための業績も悪いわけではありませんが、それを忠誠だとは言えません。   もう一度、福音宣教を考えされられます。「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。4:1、2」神様の秘密がしもべに共有されたので、当然のことながら、その秘密を預かったしもべに求められるのは忠実です。任せなかったが人には忠実を求めません。ただ、任せられたら忠実が求められます。忠実はあちこち走り回るのではなく、責任を持って任せられた仕事をこなす力です。神様の秘密を任せられたのですか?任せられてなければ否といえばいいのですが、任せられたら忠実を尽くさなければなりません。   信仰の初期に、アメリカの牧師たちの説教集をよく読みました。それらの本の中で印象的な表現は「献身したクリスチャン」でした。献身したクリスチャンという言葉が出ると、必ず問題が解決されます。コミュニティは献身したクリスチャンが与える信頼の中で安定します。世の人々は神様を信じません。ただ、献身したクリスチャンを信じます。そしてそれが神様を信じる入口になります。

고린도전서 묵상3【헌신된 그리스도인】2200509(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 4:1~84:1 사람이 마땅히 우리를 그리스도의 일군이요 하나님의 비밀을 맡은 자로 여길지어다4:2 그리고 맡은 자들에게 구할 것은 충성이니라4:3 너희에게나 다른 사람에게나 판단 받는 것이 내게는 매우 작은 일이라 나도 나를 판단치 아니하노니4:4 내가 자책할 아무 것도 깨닫지 못하나 그러나 이를 인하여 의롭다 함을 얻지 못하노라 다만 나를 판단하실 이는 주시니라4:5 그러므로 때가 이르기 전 곧…

Ⅰコリント 黙想2【噛み砕けない人】220507(土) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 3:1~153:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。3:5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。3:10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。3:11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。3:12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、3:13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。   信仰の情熱があっても、その本質が何であるかを毎日質問しなければ、信仰は脱線していきます。目に見えることにに留まるとだまされます。本質を弁えて日々回帰しなければなりません。コリント教会は人々に人を祭っていました。目に見える現象によって流れると本質を失います。神様を信じる信仰から始まった教会は、神様のみことばを聞かなければならず、その過程でみことばを伝える人々を追従し始めたのです。何人かの説教者を中心に分派が形成されました。   そこには必ず離間する者、陰で悪口を言う不満を抱いた者がいます。「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。3:3 」パウロはそのような人々を固い食物は食べれず、乳を飲ませる未熟な者とたとえます。固い食物と乳にたとえたのは、神様のみことばを受け入れる方法です。有名な牧師の説教、おもしろい説教に 群をなして歩き回わる世態は、その時も今も同じだったようです。   アポロは当時ギリシャの学問の産室であるアレクサンドリアで勉強した碩学です。アポロの説教はとても興味深く魅力的なものだったと思います。それで、コリントの人々はアポロがパウロよりも説教が上手だと評価しました。しかし、使徒働き18章によれば、アポロはキリストと霊的な理解にまだ欠けがある人でした。知性は優れていましたが、霊的な知識と経験はそれほどではないです。パウロはアポロを競技者とみなしたことはありません。まだ成長しなければならない働き手と彼らを巡って教会が分裂するのを心配しているのです。   多くのことを聞くのは良いことです。しかし、何を聞いても、自分自身が噛み砕く必要があります。神様のみことばを聞くということは、誰かの話を聞くことではなく、自分がどのように解釈し、消化させるのかという問題です。それによって成長することができます。みことばを聞き、それを持って行ってにれかみ、神様のみことばを自分とつなげなければなりません。説教に付いて歩き回わるのではなく、自分がみことばを皮をむいて噛み砕いて食べる力がなければなりません。教会の照明は、説教者ではなく説教者が伝えることの中にあるイエス・キリストを照らすべきです。  

고린도전서 묵상2【씹어먹지 못하는 사람들】2200507(토) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 3:1~153:1 형제들아 내가 신령한 자들을 대함과 같이 너희에게 말할 수 없어서 육신에 속한 자 곧 그리스도 안에서 어린 아이들을 대함과 같이 하노라3:2 내가 너희를 젖으로 먹이고 밥으로 아니하였노니 이는 너희가 감당치 못하였음이거니와 지금도 못하리라3:3 너희가 아직도 육신에 속한 자로다 너희 가운데 시기와 분쟁이 있으니 어찌 육신에 속하여 사람을 따라 행함이 아니리요3:4 어떤이는 말하되 나는…

Ⅰコリント 黙想1【キリストの心を持つ人】220506(金) 枝川愛の教会

マラキ 4:1~62:10 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。2:11 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。2:12 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。2:13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。2:15 御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。2:16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。   罪人が救われる道は、主イエス・キリストの十字架の贖いの恵み、ただそれだけです。その道しかありません。罪の値はイエス様が代わりに支払われました。人が支払うべき代価、受けるべき処罰はありません。だから福音です。救いはその恵みを信じる信仰によって受けられます。だからといって信仰を誇ることもできません。なぜなら、神様から聖霊を受けなければ恵みは悟られないからです。信じられるのが恵みです。始まりの恵みであれば過程も結果も恵みでなければなりません。聖霊は神様の霊です。神様の救いの恵みは、神様の霊である聖霊によって悟られます。救いの始まりと成就がすべて神様の中にあります。救いに関しては信仰という行為も人間の功労にはなりません。救いと召しは人によるものではなく、神様によるものです。それが信仰を真似できない理由であり、また信仰が自分の功績にならない理由です。   16節に「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」と言われます。結果的に助言できないということですが、「主に助言する」という表現そのものが難しいです。韓国語の共同訳には「”誰が主の思いを知って、その方の相談相手になるのか”と言いましたが、しかし、私たちはキリストの思いを知っています」と翻訳しました。これを参考にすると引用であることがわかります。イザヤ40:13‐14の「だれが主の霊を推し量り、主の助言者として主に教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」の引用です。誰も神様と共感できる力がないということですが、「しかし、私たちはキリストの心を持っています。」と言われました。すなわち、キリストの霊である聖霊が臨むと共感できるようになるということです。コリント教会は多くの問題を抱いていた教会でした。パウロは彼らをまだ肉に属している人であると定めました。肉に属する人々が教会の中で起こしている問題は絶えません。しかし、キリストの心を持ち、聖霊によって判断する人々によって、教会は守られます。

고린도전서 묵상1【그리스도의 마음을 가진 사람】2200506(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 2:10~162:10 오직 하나님이 성령으로 이것을 우리에게 보이셨으니 성령은 모든 것 곧 하나님의 깊은 것이라도 통달하시느니라2:11 사람의 사정을 사람의 속에 있는 영 외에는 누가 알리요 이와 같이 하나님의 사정도 하나님의 영 외에는 아무도 알지 못하느니라2:12 우리가 세상의 영을 받지 아니하고 오직 하나님께로 온 영을 받았으니 이는 우리로 하여금 하나님께서 우리에게 은혜로 주신 것들을 알게 하려…

マラキ QT7【朝の日当たり】2204030(土) 枝川愛の教会

マラキ 4:1~64:1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──4:2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。4:3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は言われる。4:4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」   今日でマラキは終わります。マラキが終わるということは旧約が終わることです。すなわち預言者の懲らしめも終わり、預言も終わります。聞きたくなかった懲戒と滅亡の言葉も終わります。最後まで悔い改めなかった人々には機会も終わります。その後、新約聖書が開かれるまで、400年間、聖書は沈黙します。多くも世代が生まれてまた死にました。みことばがなかったので、その世代は心に刺されることもなかったと思います。それで幸せだったでしうか?預言者の言葉を聞かない世代は、信仰の可能性も希望を完全に失いました。400年後にバプテスマのヨハネが来たとき,地上で希望を求めた者たちは,地上の希望を完全に失っていました。   地面ばかりを見つめて生きると、天のことが分かりません。自分の人生と必要だけに心を奪われると、歴史の中で働けれる神様のことはわかりません。パズルが合わないから混乱してしまいます。なんとか意味を探そうとしますが、前後事情が読み取れません。頑張っても自分自身という枠組の中で神様を解釈することはできないからです。結局、私たちに与えられた短い時間には疑問と虚無しか残りません。しかし、目を上げてみると、神様は私たちの人生を超えて神様の働きを進めておられます。聖徒は、歴史の中で成し遂げられる神様の働きに一片にでもなりたいという願います。そうすると、パズルの端の少しが見えてくると思います。   この春は、晴れた日より雨の日が多かったです。今朝は日が上りました。神様は言われます。「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。4:2」神様と神様のみことばを恐れ、信仰に生きる聖徒は、癒やしの光が照らされます。縛られたことから解き放ちます。解放を経験し、爽やかな日差しの中で跳ね回る子牛のように幸せと喜びを楽しみます。洗濯機から解放された洗濯物が日光に消毒され、乾かれ、踊っている姿が平和です。療やしの光、解放の喜びが聖徒の信仰の道の上にあることを願います。

말라기 묵상7【아침에 비친 햇살】220430(토) 에다가와 사랑의 교회

말라기 4:1~64:1 만군의 여호와가 이르노라 보라 극렬한 풀무불 같은 날이 이르리니 교만한 자와 악을 행하는 자는 다 초개 같을 것이라 그 이르는 날이 그들을 살라 그 뿌리와 가지를 남기지 아니할 것이로되4:2 내 이름을 경외하는 너희에게는 의로운 해가 떠올라서 치료하는 광선을 발하리니 너희가 나가서 외양간에서 나온 송아지 같이 뛰리라4:3 또 너희가 악인을 밟을 것이니 그들이 나의…

マラキ QT6【主を恐れ、主の御名を尊ぶ者】2204028(木) 枝川愛の教会

マラキ 3:13~183:13 あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。3:14 あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。3:15 今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」3:16 そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。3:17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」   マラキの時代に人々が言うことを「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」と言います。私たちの時代にも同じことが聞こえます。教会に行っても良いことが起こらず、処世が上手い人が成功すると言います。悪が成功し、義が苦まれていることが実際にあるからです。悪と不信仰が自信を持てる理由もそれです。罪の値はすぐには戻りません。   「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。3:16」しかし、神様は知っておられ、見ておられます。神様を信じるというのは、目に見えないことを知っておられることを信じることではないでしょうか。状況に揺れて疑うのは、すべてのことに神様を信じているのではなく、世に照して神様を試みるからです。神様の中で状況に出会うのではなく、状況の中で神様を疑います。   「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。3:17,18」理解できない世の無秩序という現象を信仰的に結論出しててはいけません。神様を恐れ、神様の道を歩む人は、必ず神様の隣に立ちます。その信仰の目をもって世界を見分けることを願います。