누가복음 QT71 220331목【이 성에 유하라】누가복음 24장 44~53

누가복음 24장 44~5324:44 또 이르시되 내가 너희와 함께 있을 때에 너희에게 말한바 곧 모세의 율법과 선지자의 글과 시편에 나를 가리켜 기록된 모든 것이 이루어져야 하리라 한 말이 이것이라 하시고24:45 이에 저희 마음을 열어 성경을 깨닫게 하시고24:46 또 이르시되 이같이 그리스도가 고난을 받고 제 삼일에 죽은 자 가운데서 살아날 것과24:47 또 그의 이름으로 죄 사함을 얻게…

ルカの福音書 QT70 220330水【肉体の復活】ルカ 24章 36~43

ルカ 24章 36~4324:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。24:37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」24:40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。   私たちは、「体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白します。イエス様が死に打ち勝ち、最初の実として復活したので、1コリントの手紙5章20節の「イエス様の復活は初穂」であることに従って、イエス・キリストの中で死んだ人はその日にイエス・キリストに従ってよみがえります。イエス様は肉体を持って復活しました。エマオの弟子たちに現れた時も、トマスに現れた時も霊ではなく復活した肉体を持って現れました。弟子たちに肉体に触れさせ、十字架の証を確認してくださいました。しかし、扉が閉まっていたのに出入りをする神秘的な肉体でした。現在とは違う状態で復活します。復活した肉体は今の肉体と連続性は持ちますが、同時に堕落と罪によって与えられた制限から解放された状態の復活です。   今朝の本文に、イエス様は弟子たちのところに来られ、体に触れさせ、魚で食事をしました。イエス様が言われた通り、霊は見えないのですが、イエス様は確かに触れられる肉体を持って復活しました。復活の後、空腹に召し上がった魚焼きはおいしかったと思います。復活は死ぬことを恐れた人間が作り出した延命のための神話ではなく、アダムの回復です。堕落していない肉体を持つ神様の創造の秩序の回復です。「見よ、非常に良かった」と言われたアダムの回復が復活です。ということで復活を熱望します。罪を脱いだ肉体がどんなものなのか、夢でも一度経験したいところですが、その日に、罪と死のないところで永遠にそれを味わいます。キリストはそのために血を流しました。  

누가복음 QT70 220330수【육체의 부활】누가복음 24장 36~43

누가복음 24장 36~4324:36 이 말을 할 때에 예수께서 친히 그 가운데 서서 가라사대 너희에게 평강이 있을지어다 하시니24:37 저희가 놀라고 무서워하여 그 보는 것을 영으로 생각하는지라24:38 예수께서 가라사대 어찌하여 두려워하며 어찌하여 마음에 의심이 일어나느냐24:39 내 손과 발을 보고 나인줄 알라 또 나를 만져보라 영은 살과 뼈가 없으되 너희 보는 바와 같이 나는 있느니라24:40 이 말씀을 하시고…

ルカの福音書 QT69 220329火【エマオに行く弟子たち】ルカ 24章 13~35

ルカ 24章 13~3524:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」24:19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。24:20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、24:22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、24:23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」24:25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」24:33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、24:34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。24:35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。   イエス様が亡くなった後、弟子たちは散らされました。ペテロが魚を取りに行くと言ったように、以前の生活に戻りました。まだ、復活に出会ってない彼らにとってイエス様の死は完全な絶望だったからです。もうイエス様はいません。イエス様を通して実現したかった政治的、社会的な期待感も水の泡となりました。肉体の終わりは死なので、肉体の思いで死の絶望に勝てる希望はありませんでした。   今日、みことばにエマオに行く二人の弟子たちが出てきます。彼らはイエス様のいないエルサレムを離れてエマオという地方に下っていきました。一人の名前はクレオパ、もう一人の名前はかわかりません。道の上で復活したイエス様が彼らに現れました。それで三人は道を一緒に歩き、会話しましたが、彼らはその方がイエス様であることに気がつきませんでした。宿に入って、イエス様がパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡すときに、彼らはイエス様であることがわかります。   彼らが道の上でイエス様に聞いたことばは、信仰のないことの叱責でした。イエス様はその叱責の根拠を教えてくださいましたが、27節です。「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。27」。「モーセやすべての預言者たち」とは、旧約聖書のことです。イエス様は旧約聖書を通してイエス・キリストが救い主であるということを証明する贖いの観点から旧約を解釈してくださったことです。   「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。32」絶望していた弟子たちはみことばの中で再び燃え上がりました。彼らは立ち上がり、直ちにエルサレムに戻ります。使徒たちはみなエルサレムに集まっていました。聖霊が臨むまでエルサレムを離れずに祈らなければならなかったからです。   聖霊が来られると、みことばは思い出され、みことばが解き明かされます。そのことばの中で贖われたイエス・キリストに出会うたびに、心は熱くなります。十字架の愛が悟られると、信仰は熱くなります。イエス様は、エルサレムにおられなく、エマオへの道にもおられません。みことばとともに歩む人が、キリストとともに歩む人です。  

누가복음 QT69 220329화【엠마오로 가는 제자들】누가복음 24장 13~35

누가복음 24장 13~3524:13 그 날에 저희 중 둘이 예루살렘에서 이십 오리 되는 엠마오라 하는 촌으로 가면서24:14 이 모든 된 일을 서로 이야기하더라24:15 저희가 서로 이야기하며 문의할 때에 예수께서 가까이 이르러 저희와 동행하시나24:16 저희의 눈이 가리워져서 그인줄 알아보지 못하거늘24:17 예수께서 이르시되 너희가 길 가면서 서로 주고 받고 하는 이야기가 무엇이냐 하시니 두 사람이 슬픈 빛을 띠고…

ルカの福音書 QT68 220328月【空の墓】ルカ 24章 1~12

ルカ 24章 1~1224:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。   安息日が過ぎた後、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア及び何人かの女性はイエス様の墓を向かいました。着いてみると、驚きに墓を封じていた石は転がされ、入り口が開いていました。彼女たちが入ってみると、イエス様の遺体が見えないのです。空の墓は彼女たちを不安にしました。墓に向かって行くときは、どのように墓の扉を開けて、イエス様に香料を塗るかを心配しながら行きました。墓に着いてからは、墓は開いていましたが、空の墓を見て、イエス様の遺体がなくなったと思って悲しみ、心配しました。墓は主の復活の現場でしたが、彼女たちにとっては心配の所でした。   彼女たちは、状況を心配していますが、復活すると言われたイエス様のみことばを思い出し、それを信じている人はいませんでした。天使たちが現れ、イエス様の復活を伝えると、イエス様が十字架で殺され、三日後によみがえられると言われたことが思い出されました。みことばを覚えて信じていたなら、空いている墓は喜びになりますが、みことばを信じなかったなら、空の墓は絶望の上に悲しみに過ぎないものです。イエス・キリストの復活、それに続く私たちの復活を耳で聞いた人は多くいますが、それを信じる人は少ないです。   しかし、空の墓は復活の証しです。復活すると言われたイエス様は、みことば通りに死に打ち勝ち、復活されました。イエス様を信じるということは、イエス様の復活を信じることであり、イエス様の復活を信じるということは、やがて来る自分の復活を信じることです。復活の信仰は、復活すると約束したみことばを信じる信仰です。女性たちがイエス様の復活のことを弟子たちに伝えたとき、弟子たちは信じませんでした。みことばを信じなければ、目に見える状況を把握することもできません。ペテロは走って自分の目で確認しましたが、みことばを信じなかったので心配して帰りました。いつか来るその日の復活も、復活のみことばを聞いた人ではなく、復活のみことばを信じた人に起こります。

누가복음 QT68 220328월【빈 무덤】누가복음 24장 1~12

누가복음 24장 1~1224:1 안식 후 첫날 새벽에 이 여자들이 그 예비한 향품을 가지고 무덤에 가서24:2 돌이 무덤에서 굴려 옮기운 것을 보고24:3 들어가니 주 예수의 시체가 뵈지 아니하더라24:4 이를 인하여 근심할 때에 문득 찬란한 옷을 입은 두 사람이 곁에 섰는지라24:5 여자들이 두려워 얼굴을 땅에 대니 두 사람이 이르되 어찌하여 산 자를 죽은 자 가운데서 찾느냐24:6 여기…

ルカの福音書 QT67 220326土【救われた死刑囚】ルカ 23章 33~43

ルカ 23章 33~4323:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。23:35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」23:36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、23:37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」   「イエスを十字架につけた。33」「彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。34」「民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。35」十字架に付けられたイエス様は、肉体の苦しみの中で精神的苦痛もされていました。架想七言の最初の言葉は、34節の「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」という祈りであり、2番目のが43節の「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」です。痛みのうめき声でも、嘲笑に対する答えでもありません。その瞬間に一人の魂の救いの言葉を宣言しました。これは、イエス様と一緒に釘付けられた死刑囚の2人のうちの1人に言われた言葉です。   この人の救いは、39節からある十字架にかかった2人の死刑囚の会話から始まります。一人の死刑囚は死ぬ直前までイエス様を嘲笑して誹謗していました。死の現実の直前までも、他人を恨み、誹謗できるという人間が悪毒が怖いです。しかし、もう一人の死刑囚はそれを聞き、反対します。自分たちは明らかな罪を犯し、罰を受けて死んでいますが、イエス様には罪があにということです。   この短い言葉の中に大切な2つの知識があります。彼はイエス様がどなたであるかを知り、自分が誰であるかを知っていました。そして、恥ずかしいですが、願望があります。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。42」イエス様は彼に救いを宣言されました。イエス様の最後の瞬間に救われたこの人は強盗と伝えられます。しかし、彼は実に十字架に最も近い人でした。物理的な距離でイエス様の十字架に最も近いところにいた人でもありますが、イエス様の十字架の功労の恵みを受けた最初の人であるということで十字架に最も近い人です。彼は世からは救われる道のない死刑囚でした。   十字架で救われた強盗を考えるたびに、イエス様が、バプテスマのヨハネに言われたみことばが思い出されます。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。マタイ11:11」バプテスマのヨハネが偉大な預言者であっても天国では小さい人であるということは、天国は十字架の義を持って入る所だからです。バプテスマヨハネにも、強盗にも天国に自分の功績はありません。イエス・キリストの十字架の贖いの恵みを信じる信仰によって救われます。イエス様は、強盗さえも救われるのではなく、強盗のような告白と希望を持った人を救われます。

누가복음 QT67 220326토【구원받은 사형수】누가복음 23장 33~43

누가복음 23장 33~4323:33 해골이라 하는 곳에 이르러 거기서 예수를 십자가에 못 박고 두 행악자도 그렇게 하니 하나는 우편에 하나는 좌편에 있더라23:34 이에 예수께서 가라사대 아버지여 저희를 사하여 주옵소서 자기의 하는 것을 알지 못함이니이다 하시더라 저희가 그의 옷을 나눠 제비 뽑을쌔23:35 백성은 서서 구경하며 관원들도 비웃어 가로되 저가 남을 구원하였으니 만일 하나님의 택하신 자 그리스도여든 자기도…

ルカの福音書 QT65 220325金【クレネ人シモンの十字架】ルカ 23章 26~32

ルカ 23章 26~3223:26 彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。23:27 民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。23:28 イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。23:30 そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。23:31 生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」23:32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。   イエス様は、十字架の苦しみの道を歩きますが、イエス様のために泣く人々のために、イエス様は悲しまれました。彼らが遭遇する患難と苦しみのゆえです。イエス様は、ご自身をたたき、嘲笑する軍兵たちに対しても、一緒に十字架につけられた罪人たちに対しても最後の瞬間まで利他的でした。ユダヤの宗教は、自分の貪欲のために罪のない人を十字架につけて殺していますが、イエス様は自分のために生きた方ではありません。   今朝の本文の中には、イエス・キリストの十字架に参加した一人が出ます。グレネ人シモンです。グレネは北アフリカのリビアです。遠いところで過越の祭を迎え、エルサレムの上がった人です。「彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。26」この人は、うかうかとイエス様の十字架の代わりに負けてゴルゴダの丘まで行った人です。   彼はイエス様に会ったことがありません。通り過ぎる道に十字架を背負っていくイエス様のを見、ローマ軍兵がその人に無理やり十字架を負わせたのです。イエス様はもはや気力がなく、十字架を背負わなかったからです。彼はわけもわからないまま、強制する軍兵によって十字架を負いました。そして、その十字架をゴルゴダ落とし、十字架で死んでいくイエス様を見ました。   マルコの福音書にはこの内容をこう伝えます。「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルポスの父で、田舎から来ていた。15:21」マルコはグレネ人シモンがアレキサンダーとルポスの父であることを語っています。ローマ書にもこの人の情況が出てきます。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。16:13」ルポスの母はグレネ人シモンの妻です。   彼は、十字架の現場でイエス様に出会って帰ってきてから初代教会の時代に北アフリカでイエス様の福音の伝える人になりました。今でもリビア地方にはこのシモンの信仰と業績を記念しています。イエス様の十字架の代わりに背負ったグレネ人シモンと彼の家族は、自分の十字架を負う道を歩きました。偶然ではないと思います。イエス・キリストの十字架を発見した人は、自分の十字架を背負って生きます。