ルカの福音書 QT41 220224木【放蕩息子の兄】ルカ 15章 11~32

ルカ 15章 11~3215:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」   本日は「放蕩息子のたとえ話」です。失われた羊のたとえ話で、九十九匹の羊がパリサイ人と律法学者であると言いましたが、そうであるなら放蕩息子の話でも、パリサイ人と律法学者が誰かの姿で隠れているはずです。それが放蕩息子の兄です。イエス様は、宗教的、道徳的に優れていると自負していたパリサイ人と律法学者を兄と重ね、たとえ話でおられます。放蕩息子のたとえ話は、放蕩息子の道徳性と父の赦しに焦点を置きがちですが、父が兄に弟を受け入れるように頼んでいるというメッセージを見逃してはならなりません。ティム・ケラーの本『放蕩sする神』(The Prodigal God)で「イエス様が教えておられる対象は、不道徳な外部の人ではなく、道徳的な内部の人である」と言いました。逆説的で、恐ろしいですが、パリサイ人と律法学者が神様に近づけないのは、彼らの「罪」のためではなく、彼らの「自己信仰」のためです。変化と改革の対象は未信者ではなく、「自己信仰」で歪んでいて教会の中にいる人であるということです。ティム・ケラーは、正鵠を射り、「あなたの罪悪と良い行いの両方の背後に自ら救い主になりたいという渇望が隠れている」と言います。   数日前、アンドレ・ジッドの『狭き門』について書いたことがありますが、宗教主義に反対していたアンドレ・ジッドは『放蕩息子の帰宅』も書きました。アンドレ・ジッドの『放蕩息子の帰宅』には、放蕩息子が家を出たのが、父が嫌いだからではなく、宗教主義の兄を避けて逃げたのだと言います。彼は父から離れたことがなく、ただ、家を離れたということです。つまり、父は神様であって神様を離れたことはなく、家は宗教をいい、宗教から離れたということです。形式化され、規範化された教会を離れたということです。この話には聖書にはない放蕩息子の弟が登場します。逃げられず、帰ってきた放蕩息子は、弟には宗教から抜け出すように家出を誘います。『狭き門』と『放蕩息子の帰宅』は、宗教主義に窒息していたアンドレ・ジッドの悲鳴のような物語りです。イエス様の放蕩息子のたとえ話も、究極的に罪人を受け入れない宗教主義者たちを懲らしめているのです。放蕩息子に向かって回心しなさいというより、先に兄​​が悔い改めをしなければなりません。

누가복음 QT41 220224목【탕자의 형】누가복음 15장 11~32

누가복음 15장 11~3215:11 또 가라사대 어떤 사람이 두 아들이 있는데15:12 그 둘째가 아비에게 말하되 아버지여 재산 중에서 내게 돌아올 분깃을 내게 주소서 하는지라 아비가 그 살림을 각각 나눠 주었더니15:13 그 후 며칠이 못되어 둘째 아들이 재산을 다 모아가지고 먼 나라에 가 거기서 허랑방탕하여 그 재산을 허비하더니15:14 다 없이한 후 그 나라에 크게 훙년이 들어 저가…

ルカの福音書 QT40 220223水【悔い改めない九十九匹の羊】ルカ 15章 1~10

ルカ 15章 1~1015:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」   九十九匹の羊と失われた一匹の羊のたとえ話しも、置かれている状況というものがあります。たとえ話は、どのような状況でどのような主題をもって語られたのかを考えながら理解しなければなりません。イエス様はユダヤ社会が禁じていた取税人たちや罪人たちと一緒に食事をしたことで非難されていました。イエス様はその状況で取税人たちや罪人たちと一緒に食事される理由を言われながら、失われた羊のたとえ話をされました。ですから、ここで失われた羊一匹というのは、取税人や罪人であるに違いありません。   それでは、悔い改める必要のない正しい人とは誰でしょうか。すでに悔い改めて正しくなった人でしょうか?それとも悔い改めをせず、自称の義人を言い続ける人しょうか?悔い改めもせずに正しいと言い張るのはパリサイ人と律法学者です。九十九匹の羊はおそらく彼らです。イエス様は、取税人や罪人を悔い改めさせるために来ましたが、自分で正しいと自負するパリサイ人と律法学者を救うために来られたのではありません。5章32節には、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」と結論しました。自称の義人は招かれていません。   イエス様は、1%の失われた少数を救うことを、99%の多数を救うことよりも喜ばれました。ということからこれを「博愛」とは思えません。明らかに差等があります。1%を埋め込んで100%を満たそうではありません。99%と同じ1%でもありません。100%に含まれる1%でもなく、99%より大切な1%を救うことが目的です。   イエス様は1%に目を止められました。99%の律法主義者ではなく、1%の悔い改める人が選ばれた人です。悔い改める必要のない正しい人、つまり、決して悔い改めない自称の信仰の九十九人ではなく悔い改める一人のためです。上位1%ではなく、罪人1%が救われるのが100%の恵みです。多数より少数、家出した羊を好むことではありません。罪を悟り、悔い改める心を好まれます。そしてイエス様それを憐れみ、救うことを喜ばれます。

누가복음 QT40 220223수【회개하지 않는 아흔 아홉 마리 양】누가복음 15장 1~10

누가복음 15장 1~1015:1 모든 세리와 죄인들이 말씀을 들으러 가까이 나아오니15:2 바리새인과 서기관들이 원망하여 가로되 이 사람이 죄인을 영접하고 음식을 같이 먹는다 하더라15:3 예수께서 저희에게 이 비유로 이르시되15:4 너희 중에 어느 사람이 양 일백 마리가 있는데 그 중에 하나를 잃으면 아흔 아홉 마리를 들에 두고 그 잃은 것을 찾도록 찾아 다니지 아니하느냐15:5 또 찾은즉 즐거워 어깨에…

ルカの福音書 QT39 220222火【献身が能力の源です】ルカ 14章 25~35

ルカ 14章 25~3514:25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。14:28 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。14:29 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、14:30 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。14:32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。14:33 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」   今日の本文には、私たちが知っているいくつかの話が絡み合っており、またつながっています。今まで私たちは、つながっている文脈ではなく、切れた文章で理解していましたが、本文は重要な意味を持つ接続詞を用いながらイエス様が言われようとする主題を一貫して伝えています。   イエス様の共同体に人々が増え始めました。イエス様はその時に厳しく言われます。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。26,27」量的な成長が起きた時、それが目的ではないことを強調するよう、群衆や組織の中で薄くなっていく「完全な献身」に対する警戒を語られたのです。   そしてイエス様はいつものように、この主題を説明するためのたとえ話をされました。それは「塔を建てること」と「王が戦いを備えること」です。塔を建てる人は、全工程の工事規模と予算を立て、工事の可能性を計ってから工事を着工しますし、王が相手の国と軍事力を計ってから戦争を始めるという話です。ところが、すべてを捨てて従いなさいと言われた「弟子道」と「作業工程と予算策定、軍備比較」という教訓がよくつながりません。この話は、よく計算して、予算を立てなければならないという意味ではありません。無理であると判断したら、あきらめたり、予算が足りないと思ったら、仕事を始めないという教訓ではありません。   イエス様はこのたとえ話が終わった後、33節を通して結論を​​下しますが、まず、それを確認します。 33節は「そういうわけで」(ウトス、οὕτως)で始まりますが、 (ウトス、οὕτως)という言葉は、先に出た内容の原因として結果を語るための接続副詞です。マタイの福音書 7章 12節の「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」では(ウトス、οὕτως)が「ですから」に翻訳されました。   結論の33節の全体を読んでみると、「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」とあります。すべてを捨てることができなければ、イエス様の弟子になることはできないということと、塔を建てることと王が戦いを備えるという例え話の目的は、明らかに「完全な献身」を語られるのが分かります。塔を建てることと王の戦いの話は、規模を見積もることを知る知識の校訓ではありません。文脈に沿って理解すれば、イエス様は「完全な献身」の意味でこのたとえ話をされたことが明らかです。   献身は一時的なものではなく、塔が完成するまですることであり、献身は戦いを始める時ではなく、戦いが終わり、勝利するまですることです。口で塔を建てると言うのが信仰ではなく、戦うと言うのも信仰ではなく、それに最後まで献身するのが信仰です。神様を信じて従う献身より、計算が早ければ従えないということです。イエス様に従うときは、完全な献身を覚悟しなければなりません。イエス様は人に献身を頼みません。   ここでもう一つ、文章として理解していたみことばが34節に続きます。「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。34」翻訳されていませんが、ギリシャ語の原語には、この文章にも「オーン、οὖν」という接続副詞がありました。これも「ですから」という因果関係を示す言葉です。ですから、「完全な献身」こそ「塩味」を出すということです。自分のための執着を捨てる力、キリストに従う力、塔を竣工する力、戦いに勝つ力、塩味を出しながら生きる力が「完全な献身」から出るということです。朝の御言葉が文脈につながることを見つけて嬉しかったです。そして今朝の本文は35節で終わります。 「聞く耳のある者は聞きなさい 35」

누가복음 QT39 220222화【헌신이 능력의 근원입니다】누가복음 14장 25~35

누가복음 14장 25~3514:25 허다한 무리가 함께 갈새 예수께서 돌이키사 이르시되14:26 무릇 내게 오는 자가 자기 부모와 처자와 형제와 자매와 및 자기목숨까지 미워하지 아니하면 능히 나의 제자가 되지 못하고14:27 누구든지 자기 십자가를 지고 나를 좇지 않는 자도 능히 나의 제자가 되지 못하리라14:28 너희 중에 누가 망대를 세우고자 할진대 자기의 가진 것이 준공하기까지에 족할는지 먼저 앉아 그…

ルカの福音書 QT38 220221月【緊急なことと重要なこと】ルカ 14章 15~24

ルカ 14章 15~2414:15 イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」14:16 するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。14:17 宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。14:18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』14:19 別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』14:21 しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』14:22 しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』14:23 すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。14:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」   主人の宴会に招かれましたが、来なかった人は、「畑を買った人、五くびきの牛を買った人、結婚した人」でした。土地を購入して現場に行くこと、新しい車を買って初めてドライブをすること、新婚のを楽しむこと、これらはすべて幸せな日常です。彼らは確かに幸せだったと思います。ところで彼らがそれに陥って宴会の招きに応じなかったので、主人はしもべに「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。」と言われます。   「緊急なこと」があり、「重要なこと」があります。私たちは緊急なことが重要なことだと思います。しかし、緊急なことの中をぞきみると重要ではないことがあります。そして時間は限られています。だから、重要なことを見逃します。もちろん、日常は重要です。しかし、日常に陥ってしまうと、日常外で起こる事は見ることができません。小さなことにこだわって大きなことを見逃します。スノーボードが上手い人が子どもたちに滑り方を教えていました。「視線を遠く見なければならない。下を見て走ると倒れる!」まさに信仰も人生もそのようなものではないかと思いました。地面ばかり見て走りだすと倒れます。衝撃が大きくて起きられません。目の前にあることを怖がらず、目を上げて天を仰げば、かっこよく、美しく滑ることができます。 本来は宴会に入らなかった貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちが神の国に入ります。天の国は神様を仰ぐ貧しい人々のものだからです。信じますが、忙しい日常に足が縛られ、天を見上げない人はそこには入れず、信じていなかった人がそこに入ります。イエス様の信仰の怠惰と傲慢にの警告です。信仰が地と車と家のみにあるので、救いの招きを聞くことができず、応えることもできません。救いが自分にあると固く信じていたユダヤ人たち、いわゆるよく信じる人々に言われた例え話です。  

누가복음 QT38 220221월【급한 일과 중요한 일】누가복음 14장 15~24

누가복음 14장 15~2414:15 함께 먹는 사람 중에 하나가 이 말을 듣고 이르되 무릇 하나님의 나라에서 떡을 먹는 자는 복되도다 하니14:16 이르시되 어떤 사람이 큰 잔치를 배설하고 많은 사람을 청하였더니14:17 잔치할 시간에 그 청하였던 자들에게 종을 보내어 가로되 오소서 모든 것이 준비되었나이다 하매14:18 다 일치하게 사양하여 하나는 가로되 나는 밭을 샀으매 불가불 나가 보아야 하겠으니 청컨대…

ルカの福音書 QT38 220219土【空いている狭い門】ルカ 13章 22~35

ルカ 13章 22~3513:22 イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。13:23 すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。13:24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。13:26 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』13:27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』13:28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。13:29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。13:30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」13:31 ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」13:32 イエスは彼らに言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。13:33 しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』13:34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。13:35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」   アンドレ・ジッドの『狭き門』の主題は、献身のためではなく、当時の律法的、偽善的だったキリスト教に対する嘲笑です。主人公の男女は愛していますが、狭き門という宗教的な統制がそれを許さない悲劇を告発したものです。イエス様が「狭い門」について教えてくださいましたが、時代の教会が、それを道徳的に理解し、禁欲で強制した結果でした。そういう意味で、イエス様が狭い門に入りなさいと言われた背景と、アンドレ・ジッドの苦悩の背景は似ているようです。   マタイの福音書でイエス様が「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。13,14」と言われた時、「狭い門」は宗教的な節制ではなく、イエス様の門に入るということです。福音の道はすべての人が通うほど広いのですが、その入り口は狭いです。ただ、イエス・キリストによって入られるからです。   イエス様の言われた「狭い門」の文脈も、宗教的な虚栄と偽善を警戒しているところです。イエス様は、量的な成長を求めていた弟子たちに、一人でも福音を悟ることが大切であると言われることです。そのため、偽善者、形式主義者は救いに入りません。イエス様が言われた「狭い門」は、命のためにある信仰の門です。   福音は世に公開されていますが、探している人、求めている人がいなくて秘密のままあります。アンドレ・ジッドの『狭き門』のように、律法主義と誤解された禁欲主義はありますが、イエス様を求める人はいません。たくさんの教会があり、聖徒も多くいますが、イエス様の中にある福音に従う人は少ないのです。人々は広い門を作り、そこに押し寄せて生きます。その「広い門」では、救いのところか生き残ることにも厳しいです。「狭い門」は今でも人通りが少ないです。

누가복음 QT38 220219토【비어있는 좁은 문】누가복음 13장 22~35

누가복음 13장 22~3513:22 예수께서 각성 각촌으로 다니사 가르치시며 예루살렘으로 여행하시더니13:23 혹이 여짜오되 주여 구원을 얻는 자가 적으니이까 저희에게 이르시되13:24 좁은 문으로 들어가기를 힘쓰라 내가 너희에게 이르노니 들어가기를 구하여도 못하는 자가 많으리라13:25 집 주인이 일어나 문을 한 번 닫은 후에 너희가 밖에 서서 문을 두드리며 주여 열어 주소서 하면 저가 대답하여 가로되 나는 너희가 어디로서 온…