ルカの福音書 QT33 220215火【忠実で賢い管理人】ルカ 12章 35~48

ルカ 12章 35~4812:35 腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。12:37 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。12:38 主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」12:41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」12:42 主は言われた。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。12:44 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。12:45 もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、12:46 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。12:47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。12:48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。   賢い管理人と邪悪な忠実で賢い管理人が出てきます。「管理人」を「しもべ」と訳することもありますが、「奴隷」とは違います。奴隷は「ドゥロス(δουλος)」という別の言葉があります。ギリシャ語でこの管理人は「オイコノモス(οἰκονόμος)」です。「家または家族」という意味の「オイコス(οἶκος)」に「分ける」という意味の「ノモス(νομος)」が加わり、「家で分ける人」になります。ということで、日本語では「管理人」と言い、英語の聖書は「マネージャー」と翻訳します。家の管理を担って運営しなければならない任務と責任が任された人です。ギリシャ語の「オイコス」から経済を語る英語「エコノミー」が出てきました。   しもべはやらせることをやるという受け身的なイメージが強いのですが、管理者、マネージャーといったときはそれよりも積極的、能動的でなければなりません。イギリスで発行する経済雑誌の『エコノミスト』は経済だけを言うのではありません。経済を考える人々のテキストは世の全てだからです。多くことを知り、それを運営する力が必要です。雇い人より管理人は悩むべきことが多いです。オイコノモスは事業を企画する段階から主人に委任された管理者なので、創造的な仕事をしなければならなりません。タラントのたとえ話の原文でもタラントを受けた3人のしもべは、「オイコノモス」すなわち、マネージャーですした。彼らは資本を動かさなければならないし、人をも動かさなければなりません。財政と人事の権限と責任があります。   イエス様が言われました忠実で賢い管理人は、その責任を持って運用した人です。管理人の反対の言葉は「雇い人」でしょう。雇い人は悪い人ではなく、お金を受けた分だけ働く人です。しかし、管理人は、雇われた人々に仕事をさせ、その報酬を分けて与えられなければならない人です。事業を計画し、資本を投資し、人材を雇用し、労働の代価を補償します。やらせることやる人ではなくて、仕事を作り、仕事を分け、利益を分ける人です。   主人がいつ来るのかはわかりません。それを聞かないように言われたのは一貫です。どのように待つのか、つまりどのように生きるのかについてのみ語られます。邪悪な管理人は怠けで、貪り、労働の代価を払わず、利益を横どって職務を放棄していましたが、賢い管理人は責任を持って運用し、分けるべきものをを分けました。説教においてティム・ケラーの本を取り上げていますが、ティム・ケラーは、教会の聖徒に自分が持っている財政と経験を使って「善い事業」を起こすようにと励ましています。教会だけではなく、社会の中で能動的な賢い管理人であるべきということに同意します。  

누가복음 QT33 220215화【지혜 있고 진실한 청지기】누가복음 12장 35~48

누가복음 12장 35~4812:35 허리에 띠를 띠고 등불을 켜고 서 있으라12:36 너희는 마치 그 주인이 혼인 집에서 돌아와 문을 두드리면 곧 열어 주려고 기다리는 사람과 같이 되라12:37 주인이 와서 깨어 있는 것을 보면 그 종들은 복이 있으리로다 내가 진실로 너희에게 이르노니 주인이 띠를 띠고 그 종들을 자리에 앉히고 나아와 수종하리라12:38 주인이 혹 이경에나 혹 삼경에 이르러서도…

ルカの福音書 QT32 220214月【背けられる御国】ルカ 12章 22~34

ルカ 12章 22~3412:22 それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。12:23 いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。12:24 烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。12:25 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。12:26 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。12:27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。12:30 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。12:31 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。12:32 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。12:33 自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。12:34 あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。   イエス様が教えてくださった昨日の本文のメッセージは、人間は「欲張る貪欲的な存在」であることと、いつなのか分からないまま「死を迎えなければならない虚しい存在」であるということでした。富と命の主権は神様にあるからです。人間がものを集めて見ても、神様が命を下さなければ無駄になります。今朝の本文はそれに続く教えです。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。29」とありますが、経済問題でストレスを受けない現代人はおそらく誰もいません。それがなければ、生活を営むことはできません。それらは私たちに必要なものです。ということで、イエス様がそのように言われたことには、供給の責任を持つという意味です。   しかし、人々はそれを信じません。それを信じない人は、自分が信じられるようなものを見つけてそれを信じます。ここで裏切りと背教と反乱が起こります。「お金を与える神様」を信じるのではなく、ダイレクトで「お金の威力」を信じます。お金は良いものだと思いますが、そのようなわけでお金は人の「偶像」になります。それに欲張り、執着すればするほど「偶像崇拝」は深くなります。「あなたがいないと生きられません」と言うなら、それはプロポーズであり、信仰の告白です。神様なしでは生きても、お金なしでは生きられない。神様がいなくても不安ではありませんが、お金はなくなる前から不安です。人生がそれを追い求めている以上、言葉では信仰を言っても、それが一致することはありません。「偶像崇拝」に「偽善」が加わるだけです。   「信仰」と「行為」が向き合って神学的論争をすることもありますが、いつも「信仰」が先です。行為では信仰の贈り物を受けることはできません。しかし、昨日の説教で引用したティム・ケラの言葉の通り、福音と福音の結果、つまり私が行ったことではなく、キリストがすでに行ったことが福音であり、それを受け入れた人の反応が福音の結果であることを考えると、信仰の真正性とは、人生の生き方にて如実に表れることです。木が自分が結んだ実を通して、世にその真正性を赤裸々に表すことと同じです。   「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。31」この御言葉は耳に慣れています。これを読んだ人は、果たして「御国」、「神の国」とは何かと悩みますが、御言葉を最後まで読んでないからです。まず、求めるべき神の国の実践編は33節にすでに提示されています。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。33,34」イエス様は貧しい人々の福祉と救済のためにこう言われたことではありません。お金に縛られ、実践的無神論者になってしまった人をお金から自由にするためです。使うことで豊かになります。これが「それに加えて与えられます」「喜んであなたがたに与えてくださる」という御言葉で主人公である「あなたがた」になる「秘訣」です。

누가복음 QT32 220214월【외면당하는 그의 나라】누가복음 12장 22~34

누가복음 12장 22~3412:22 또 제자들에게 이르시되 그러므로 내가 너희에게 이르노니 너희 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라12:23 목숨이 음식보다 중하고 몸이 의복보다 중하니라12:24 까마귀를 생각하라 심지도 아니하고 거두지도 아니하며 골방도 없고 창고도 없으되 하나님이 기르시나니 너희는 새보다 얼마나 더 귀하냐12:25 또 너희 중에 누가 염려함으로 그 키를 한 자나 더할 수…

ルカの福音書 QT31 220212土【聖霊を冒瀆する者】ルカ 12章 1~12

ルカ 12章 1~1212:1 そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。12:2 おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。12:3 ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。12:4 わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。12:6 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。12:8 あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。12:10 人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」   文脈上、イエス様が悪霊につかれた者を癒したこと、そしてそれを見た人々が事実を事実どおり認めず、イエス様がベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出していると陥れようとしたことの後にこの話が続きます。それからイエス様が強調されたのは、「認める」ことです。つまり「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」これが10節の「聖霊冒瀆の罪」とつながっており、4節の「からだを殺しう」権威ある者たちの脅威を恐れてはいけないということとも、明らかに「認めること」と「告白すること」に関連しています。この10節の聖霊冒瀆罪は聖書の代表的な難題です。赦されないと言われているからです。聖霊を冒瀆むということが何であるが断定的に言うことができません。   教会の中で起こる紛争にはいつもこの言葉があります。自分の思いは聖霊の思いであり、他の人は悪魔の思いであるという論理です。しかし,わたしたちは他人に「聖霊を冒瀆する罪」という言葉を勝手に使ってはいけません。この言葉を使う人はたくさんいましたが、意味を分かる人はいません。これを自分の考えを聖霊と同一視する道具として使用してはなりません。救いの主権はただ神様にあり、救いの問題について人間は常に恐れるべきです。救われて生かされた人間の口から、誰が救われ、誰が救われないという判決の言葉は恥ずかしくても言えないものだからです。   私たちの口では「認める」ことが必要です。認めて告白しなければなりません。自分を認め、神様を認め、それを告白します。人生を変えることは人の本なんかで読んだ有名な言葉ではなく、自分と神様について認めてそれを告白した自分の言葉です。信仰によって救われますが、信仰は告白することで証明されます。ところで、告白を妨げるものがあります。それがイエス様がすでに教えられた「自分に対する偽善」であり、「世に対する卑怯」です。つまり、告白を妨げているのは、信じていると思い込んでいる偽善と、周りの機嫌をうかがう卑怯です。私は、聖霊を冒瀆する罪というのは、腐敗した宗教、強制する政治権力ではなく、自分と神様について告白しない人間の心だと思います。

누가복음 QT31 220212토【성령을 모독하는 죄】누가복음 12장 1~12

누가복음 12장 1~1212:1 그 동안에 무리 수만명이 모여 서로 밟힐만큼 되었더니 예수께서 먼저 제자들에게 말씀하여 가라사대 바리새인들의 누룩 곧 외식을 주의하라12:2 감추인 것이 드러나지 않을 것이 없고 숨은 것이 알려지지 않을 것이 없나니12:3 이러므로 너희가 어두운데서 말한 모든것이 광명한데서 들리고 너희가 골방에서 귀에 대고 말한 것이 집 위에서 전파되리라12:4 내가 내 친구 너희에게 말하노니 몸을…

ルカの福音書 QT30 220211金【人目につかない墓】ルカ 11章 37~54

ルカ 11章 37~5411:37 イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。11:39 すると、主は彼に言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。11:40 愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。11:41 とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。11:42 だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。11:43 わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ。11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」11:45 すると、律法の専門家の一人がイエスに言った。「先生。そのようなことを言われるなら、私たちまで侮辱することになります。」11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。11:47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。11:48 こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。11:49 だから、神の知恵もこう言ったのだ。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。11:50 それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。11:51 アベルの血から、祭壇と神の家の間で殺されたザカリヤの血に至るまで。』そうだ。わたしはおまえたちに言う。この時代はその責任を問われる。11:52 わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。11:54 彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである。   本文でイエス様が言われた墓は、不正の意味で使われています。「人目につかない墓」とは、土饅頭を作らないで埋葬した墓を言います。なので墓かどうかの区別がつきません。イエス様がパリサイ人に対して人目につかない墓であると言われたのは、彼らが腐ったのかどうかを目では区別できないからです。信仰であると思いましたが、無知であり、敬虔であると思いましたが、傲慢であり、熱心であると思い込んでいましたが暴力であったことはたくさんあります。とはいえ、パリサイ人が嘘をついているわけではありません。自分が墓なのかとうかが分からないだけです。   教会で起こる問題は、信仰のない人が引き起こすのではありません。自分の信仰が良いと思う人々によって問題が起こります。認知偏向現象の中で「ダニング・クルーガー効果」というものがあります。学ぶ大学生を対象に調べたところ、少し知っている人は自分の能力を過大評価する傾向があり、ある程度知っている人はむしろ自分の能力を過小評価する傾向があったということです。パリサイ人というのは、自分の信仰は優れているという確定偏向がある人々です。他人より優れている信仰を持っている思う人の典型です。   自分を疑ってみない人、自分を客観化するメタ認知ができない人は、パリサイ人にとどまってしまいます。大学生の間でこんな言葉があります。学士は「私が何を知っているのかを分かる」、修士は「私が何を知らないのかを分かる」、博士は「私は何を知っているか分からない」しかし、知識の世界で自分が無知であることに気づくのはそれほど時間がかかりません。問題は信念や信仰の領域です。よく信じていると思っている、それが信仰の恐ろしい敵です。慣れている自分ではなく、未知の自分を見つめる力があることを祈ります。

누가복음 QT30 220211금【평토장한 무덤】누가복음 11장 37~54

누가복음 11장 37~5411:37 예수께서 말씀하실 때에 한 바리새인이 자기와 함께 점심 잡수시기를 청하므로 들어가 앉으셨더니11:38 잡수시기 전에 손 씻지 아니하심을 이 바리새인이 보고 이상히 여기는지라11:39 주께서 이르시되 너희 바리새인은 지금 잔과 대접의 겉은 깨끗이 하나 너희 속인즉 탐욕과 악독이 가득하도다11:40 어리석은 자들아 밖을 만드신 이가 속도 만들지 아니하셨느냐11:41 오직 그 안에 있는 것으로 구제하라 그리하면…

ルカの福音書 QT29 220210木【復活の神秘】ルカ 11章 29~36

ルカ 11章 29~3611:29 さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。11:30 ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。11:33 だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです。11:34 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。11:35 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」   人間の魂は、特別な体験を通して神様と連合することができると考えるのが神秘主義です。ということで神秘主義者は特別な体験を追い求め、それを「霊的」といいます。非合理的、非理性的、超自然的なものにさらに集中します。したがって論理的に矛盾が生じると思いますが、それも「霊的」ということで理解されます。 中世14世紀に神秘主義が台頭しましたが、その時代はみことばが伝えられなかった時代です。神様のみことばが解釈されず、伝えられなかった時代、その時代に神様を求めた人々は神秘主義に流れることは当然だったかも知れません。神秘主義はギリシャ文化の影響を受けた初代教会の時代からあり、歴史の中で繰り返され、今もあり、なお生まれています。   イエス様は、しるしを求める人々、不思議なものが見たい人々に対して「悪い時代」であると責められ、見せられる神秘とは「ヨナのしるし」しかないと言われました。ヨナのしるしというのは、イエス様が十字架にかかって死なれ、3日後に復活されるということです。興味を導く不思議なことではなく、死んだ命を生かす救いの神秘です。神秘の中でまことの神秘は復活の神秘です。人々はこれを信じず、不思議な現象と出来事を探して迷っているのです。   イエス様は、ソロモンの時代に、シバ王国の女王がソロモンの知恵を聞くためにエルサレムにきた話をされました。賢者たちはソロモンの知恵を聞くためにエルサレムに集まりましたが、この時代にイエス様のみことばを聞こうとする人はいないということです。イエス様は「ここにソロモンにまさるものがあります」と言われます。みことばがありますが、みことばを聞こうとはせず、目に見える現象に振り回されています。   続くもう一つの話は、灯の明かりをつける話です。先の話と無関係ではないと思います。灯は照明の役割を果たすべきなので、発光しなければなりません。燃料を燃焼して光を出すのです。それが神様のみことばから出てくる光エネルギーです。それを高いところにかけて広いところを照らします。それで灯の役割をする果たすことができます。みことばに無関心で律法の言語遊戯と現象の神秘にのみ振り回されている人々をイエス様は責められました。復活の神秘、救いの神秘は、みことばと向かい合う人に悟られます。神様は、みことばを燃料とし、光エネルギーを明かす人を高く上げられ、世を照らされます。

누가복음 QT29 220210목【부활의 신비】누가복음 11장 29~36

누가복음 11장 29~3611:29 무리가 모였을 때에 예수께서 말씀하시되 이 세대는 악한 세대라 표적을 구하되 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없나니11:30 요나가 니느웨 사람들에게 표적이 됨과 같이 인자도 이 세대에 그러하리라11:31 심판 때에 남방 여왕이 일어나 이 세대 사람을 정죄하리니 이는 그가 솔로몬의 지혜로운 말을 들으려고 땅 끝에서 왔음이어니와 솔로몬보다 더 큰이가 여기 있으며11:32 심판 때에…