사사기묵상 QT2 210804수【도전하는 용기】사사기 1장 11-21

사사기 1장 11-211:11 거기서 나아가서 드빌의 거민들을 쳤으니 드빌의 본 이름은 기럇세벨이라1:12 갈렙이 말하기를 기럇 세벨을 쳐서 그것을 취하는 자에게는 내 딸 악사를 아내로 주리라 하였더니1:13 갈렙의 아우요 그나스의 아들인 옷니엘이 그것을 취한고로 갈렙이 그 딸 악사를 그에게 아내로 주었더라1:14 악사가 출가할 때에 그에게 청하여 자기 아비에게 밭을 구하자 하고 나귀에서 내리매 갈렙이 묻되 네가…

士師記 QT1 210803火【士師記を読み始める】士師記 1篇 1~10

士師記 1篇 1~101:1 ヨシュアの死後、イスラエルの子らは主に尋ねた。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」1:2 すると、主は言われた。「ユダが上って行くべきである。見よ、わたしはその地を彼の手に渡した。」1:3 ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私と一緒に、私に割り当てられた地に上ってください。私たちはカナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地に一緒に行きます。」そこでシメオンは彼と一緒に行った。1:4 ユダが上って行くと、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を討ち取った。1:5 彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会い、彼と戦ってカナン人とペリジ人を討った。1:6 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落とした。1:7 アドニ・ベゼクは言った。「かつて、両手両足の親指を切り落とされた七十人の王たちが、私の食卓の下でパン屑を拾い集めていたものだ。私がしたとおりに、神は私に報いを返された。」彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行き、彼はそこで死んだ。1:8 ユダ族は、エルサレムを攻めてこれを取り、剣の刃で討って町に火を放った。1:9 その後、ユダ族は、山地やネゲブやシェフェラに住んでいるカナン人と戦うために下って行った。1:10 ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを討った。   今日から士師記のQTが始まります。出エジプト記がモーセの時代であれば、ヨシュア記はモーセの死後にたてられたヨシュアの時代です。それから士師記1章1節は、「ヨシュアの死後」という言葉から始め、士師記の最後の第21章25節は、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。25」で終わります。つまり、士師記の時代的な位置はヨシュア以後からイスラエルに王が立てられるまでの混乱期であり、期間は350年間です。   イスラエルは神様の恵みによって奴隷の地から救い出され、荒野の生活を経て、与えられた約束の地に彼らが定住できるようになりました。その地がカナンでした。いかに大きな祝福でしょうか。しかし、人は恵みをくださった神様に集中せず、恵みが残した結果に執着します。それゆえに恵みを失ってしまいます。祖父の紅海は伝説となり、父のヨルダン川は老害になってしまいました。神様は何度も約束を求め、民はそれに答えましたが、祝福の環境に慣れるうちにイスラエルは記憶を失って、子どもたちにも教えませんでした。   彼らは、約束という原則を破り、自分たちの合理性に従います。カナンの地にある部族を消滅せず、妥協して利益を取り、それによって最終的には彼らの宗教と混合してしまいます。記憶を持続しなければ、恵みも持続しません。士師記のサイクルは、罪を犯すことにとって懲戒され、悔い改め、また回復が与えられる、というものです。士師記は失敗の歴史です。なぜならそれが繰り返されているからです。カナンは確かに祝福の地でしたが、祝福を受け取った当事者たちが、それを祝福の地として楽しむことができません。私はたちは恐れをもって士師記を読んでいきたい思います。

사사기묵상 QT1 210803화【사사기를 시작하며】사사기 1장 1-10

사사기 1장 1-101:1 여호수아가 죽은 후에 이스라엘 자손이 여호와께 묻자와 가로되 우리 중 누가 먼저 올라가서 가나안 사람과 싸우리이까1:2 여호와께서 가라사대 유다가 올라갈지니라 보라 내가 이 땅을 그 손에 붙였노라 하시니라1:3 유다가 그 형제 시므온에게 이르되 나의 제비 뽑아 얻은 땅에 나와 함께 올라가서 가나안 사람과 싸우자 그리하면 나도 너의 제비 뽑아 얻은 땅에 함께…

ピレモンへの手紙 QT1 210802月【福音によって生きる】ピレモン 1篇 15~25

ピレモン1章 15~251:15 オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。1:18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。1:19 私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。1:20 そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。1:21 私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています。1:22 同時に、私の宿も用意しておいてください。あなたがたの祈りによって、私はあなたがたのもとに行くことが許されると期待しているからです。1:23 キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。1:24 私の同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。1:25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。   ピレモンへの手紙は、パウロがピレモンという人にオネシモという人を嘆願している短い手紙です。オネシモは、コロサイ地方のピレモンという人の奴隷でしたが、主人のピレモンのものを盗んで逃げたということでローマで捕まえて投獄されていました。その牢屋のパウロも投獄されていて、パウロは彼を伝道し、彼はイエス・キリストを信じて受け入れたのです。それでパウロはピレモンにオネシモののことを赦してくれるように嘆願の文を書き送りました。   ピレモンはオネシモの主人でありましたが、コロサイ教会の信徒でもありました。彼もエペソを訪問したときにパウロによって伝道を受け、信徒になった人でコロサイ教会が建てられることに重要な役割を果たした人です。パウロはこのようなピレモンにオネシモを赦してくれるようお願いしながら、財産上の被害は、自分が代わりに返済しますと言っています。   ピレモンの返信は残っていませんが、結果的にピレモンはオネシモのことを赦し、その恵みによってオネシモは変わり、パウロの大切な同労者となります。コロサイ人への手紙を読むと、オネシモの名前が再び出てきます。「また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。4:9」逃げだした奴隷が故郷に戻り、パウロのメッセージを伝えました。赦しという恵みは、いかに劇的で美しいことでしょうか。オネシモとピレモンの再会がどのようなものだったのか想像できます。   短い手紙ですが、貴重な神学的内容と感動が残る手紙です。この手紙の中に福音があり、福音にふさわしい信仰の実践もあります。福音はたくさんのことを変える力があります。財産の被害を代わりに返すといいながら願うパウロから、キリストの愛に出会います。キリストの教会を立てた功労者ピレモンから、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」との信仰が確認されます。赦された罪人、オネシモは生まれ変わり、自分を救った恵み、福音のための働き手となりました。これまで読んできた詩篇では、人間の奥深いところにあることをを吐き出すようなことを読みましたが、ピレモンへの手紙からは、人々の間に複雑に絡まっていることが解決されていくような感動を読みました。

빌레몬묵상 QT1 210802월【복음은 어떻게 삶이 되는가】빌레몬서 1장 15-25

빌레몬서 1장 15-251:15 저가 잠시 떠나게 된 것은 이를 인하여 저를 영원히 두게 함이니1:16 이 후로는 종과 같이 아니하고 종에서 뛰어나 곧 사랑 받는 형제로 둘 자라 내게 특별히 그러하거든 하물며 육신과 주 안에서 상관된 네게랴1:17 그러므로 네가 나를 동무로 알진대 저를 영접하기를 내게 하듯하고1:18 저가 만일 네게 불의를 하였거나 네게 진 것이 있거든 이것을…

詩篇 QT22 21073土【心の望み】詩篇 21篇 1~13

詩篇 21篇 1~1321:1 主よあなたの御力を王は喜びます。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。21:2 あなたは彼の心の望みをかなえ唇の願いを退けられません。セラ21:3 あなたは幸いに至る祝福をもって彼を迎え頭に純金の冠を置かれます。21:4 いのちを彼はあなたに願いあなたは彼にそれをお与えになります。いつまでもとこしえまでも限りなく。21:5 御救いによって彼の栄光は大いなるものとなり威厳と威光をあなたは彼の上に置かれます。21:6 あなたはとこしえに彼に祝福を与え御前で喜び楽しませてくださいます。21:7 王は主に信頼しているのでいと高き方の恵みにあって揺るぎません。21:8 あなたの御手はすべての敵を見つけ出しあなたの右の手はあなたを憎む者を見つけ出します。21:9 あなたの現れのときあなたは彼らを燃える炉のようにされます。主は御怒りによって彼らを吞み尽くし火は彼らを食い尽くします。21:10 地の上から彼らの裔を人の子らの中から彼らの子孫をあなたは滅ぼしてしまわれます。21:11 彼らがあなたに対して悪を企て計略をめぐらしても成し遂げられません。21:12 あなたは彼らが背を見せるようにし弓弦を引き彼らの顔を狙われます。21:13 主よあなたの御力のゆえにあなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。   望んでいること、求めていること、心の願いがある人は祈ります。祈りが良いものであっても心に願う望みがなければ祈りは続けられません。祈りは時間が経つにつれ、自分の中に溶けていき、熟成されていくものです。祈りは少しずつ発展して理由と目的と根拠を持ち、それなりの論理を作っていきます。根拠と論理は、神様を説得するためのものではなく、祈っている自分が自分の祈りを理解するためのものです。   ヤコブは、「…自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。4:2」といいました。すべてが満たされて祈っていないなら、それは何かを失っていることかもしれません。祈りを始めると、心の中から捨てられるものがあり、新しく入ってくるものもあります。天の扉が開いて地上に降りかかる前にまず祈る人の心の中に何かの変化が起こります。でも祈らないから求めるべきものが何であるかを知らないし、求めるものがないから祈らないという悪循環になります。   ヤコブは続いて、「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。4:3」と言いました。ここで快楽とは、祈りの方向が常に自分自身に向かっている状態です。もちろん個人事の祈ってははいけないといううわけではありません。それは大切です。ただ、神様の御旨を探ることが省いていることの指摘です。本文2節でダビデは、「あなたは彼の心の望みをかなえ唇の願いを退けられません」とあります。ダビデが心に抱いた願いがあり、その願いは神様がダビデに与えたものであってダビデは、神様から与えられた心の願いを持って祈り、神様はそれをダビデに答えました。   ピリピ人への手紙でパウロは、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。2:13」と言います。というのは、希望の源は神様であり、それの応える能力の源も神様です。神様が始め、神様が閉めるの間に神様はダビデに心の願いを与えました。ダビデはそれをもって祈りました。そして、祝福は祈った人、ダビデのものになります。神様が私に与えた私の願い、望みは何なのか、それを見つけたいのです。

시편 QT22 210731토【마음의 소원을 주셨으며】시편 21편 1-13

시편 21편 1-1321:1 여호와여 왕이 주의 힘을 인하여 기뻐하며 주의 구원을 인하여 크게 즐거워하리이다21:2 그 마음의 소원을 주셨으며 그 입술의 구함을 거절치 아니하셨나이다 (셀라)21:3 주의 아름다운 복으로 저를 영접하시고 정금 면류관을 그 머리에 씌우셨나이다21:4 저가 생명을 구하매 주께서 주셨으니 곧 영영한 장수로소이다21:5 주의 구원으로 그 영광을 크게 하시고 존귀와 위엄으로 저에게 입히시나이다21:6 저로 영영토록 지극한…

詩篇 QT21 210730金【私たちの神主の御名を呼び求める】詩篇 20篇 1~9

詩篇 20篇 1~920:1 苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。20:2 主が聖所からあなたに助けを送りシオンからあなたを支えられますように。20:3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留めあなたの全焼のささげ物を受け入れてくださいますように。セラ20:4 あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように。20:5 私たちはあなたの勝利を喜び歌い私たちの神の御名により旗を高く掲げます。あなたの願いのすべてを主が遂げさせてくださいますように。20:6 今私は知る。主が主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって聖なる天からその者に答えてくださることを。20:7 ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神主の御名を呼び求める。20:8 彼らは膝をつき倒れた。しかし私たちはまっすぐに立ち上がった。20:9 主よ王をお救いください。私たちが呼ぶときに答えてください。   詩篇20篇7節では、「ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神主の御名を呼び求める。」と言われました。何事も信じず、何事にも頼らずに生きている人はいません。誰でも人であっても、お金にあっても何かを信じて生きています。それは現実の生活に直接に助かるものです。それらの価値を引き下げるつもりはありません。誰にでも必要なものであって、大切なものだからです。今よりもあらに周りの人々を大切に思い、今よりもさらに与えられたことについて感謝しなければなりません。   しかし、用途の価値を認めても、それらは人間が頼りの対象ではありません。それが人生の誇りにはなりません。それが安楽で快適に見えても、人間が必要に応じて使かうものが、人間の存在の尊厳の価値を脅かすなら、人間は当然にそれに抵抗しなければならないのです。世が、頼るべきものを宣伝し、それらが消え去った状況については言わないので、まるで永遠に続くものと思い、誇りにします。   パウロはガラテヤ人への手紙でこれを誇りました。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。6:14」人生を通して誇るべき価値を持っているのかを思わされます。Ⅱコリントでは、「誇る者は主を誇れ10:17」と言われました。王ダビデと使徒パウロは、人の力、ものの力をよく知っています。けれども、ダビデは「私たちの神主の御名を呼び求める」とし、パウロは、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。」言いました。私は何を誇りにして生きているのか振り返ってみたいと思います。

시편 QT21 210730금【하나님의 이름을 자랑하리로다】시편 20편 1-9

시편 20편 1-920:1 환난 날에 여호와께서 네게 응답하시고 야곱의 하나님의 이름이 너를 높이 드시며20:2 성소에서 너를 도와주시고 시온에서 너를 붙드시며20:3 네 모든 소제를 기억하시며 네 번제를 받으시기를 원하노라(셀라)20:4 네 마음의 소원대로 허락하시고 네 모든 도모를 이루시기를 원하노라20:5 우리가 너의 승리로 인하여 개가를 부르며 우리 하나님의 이름으로 우리 기를 세우리니 여호와께서 네 모든 기도를 이루시기를 원하노라20:6…

詩篇 QT20 210729木【自分の過ちを悟る者】詩篇 19篇 1~14

詩篇 19篇 1~1419:1 天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。19:2 昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。19:3 話しもせず語りもせずその声も聞こえない。19:4 しかしその光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。神は天に太陽のために幕屋を設けられた。19:5 花婿のように太陽は部屋から出て勇士のように走路を喜び走る。19:6 天の果てからそれは昇り天の果てまでそれは巡る。その熱から隠れ得るものは何もない。19:7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。19:8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ主の仰せは清らかで人の目を明るくする。19:9 主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。19:10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。19:11 あなたのしもべもそれらにより戒めを受けそれを守れば大きな報いがあります。19:12 だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。19:13 あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。19:14 私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よわが岩わが贖い主よ。   エレミヤ17章は、2つの事実について述べています。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。17:9」まず、エレミヤが告発しているのは、人間の心が何よりも偽りで深刻に腐敗しているという事実であります。またもう一つは、人間がそれを受け止めようとしない事実です。腐敗という現実とそれに気づかない無知です。腐敗を認識しているならば、浄化の余地はありますが、問題意識さえなければ、改善の余地はありません。   この問題を直ちに解決する方法はできません。自ら腐敗した状態を元に戻すことができないし、腐敗したことを自覚することもないからです。新鮮の基準がなければ、鮮度を測定することはできません。19編は始めてから、神様と神様から与えられた律法という基準を提示してきました。それから12節で、「だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。」と言い、神様という基準に自分を照らし合わせます。すると腐敗した自分の実体が現れてきます。   罪を認めるということは、困難で痛いことです。神様に悔い改めると言って、神様の前でさえ、罪を具体的に告白しません。悔い改めるなら、自分のことを痛烈に告発する必要があります。自分を告発する言語を飾ったり、緩めたりせずに厳しく告発するのです。自分の罪を知らない人は、神様の恵みが分かりません。宗教改革以降のあらゆる信仰告白は、この二つの真実に対して同じように告白してきました。自分に対して知る時に、神様に対して知ることができる。また、神様を知る時に自分を知ることができるという相互にかかわる知識です。   人の理解は共同体の中にあります。人の知識は本から学ぶことではなく人々の間で学びます。その人間の知識は神様を知る知識となります。人間に対する失望と裏切りを経験するとき、神様に対する信仰告白はさらに大きくなります。聖書を読み、神様を知ったならば、その中にある人間に向かった神様の愛を知ることができます。人間を知るときに、その人間を愛した神様の愛を知り、神様を知るときに、ねじ曲がって癒やしがたい人間を愛する根拠を見つけることができるのです。