시편 QT16 210724토【주는 나의 주시오니】시편 16편 1-11

시편 16편 1-1116:1 하나님이여 나를 보호하소서 내가 주께 피하나이다16:2 내가 여호와께 아뢰되 주는 나의 주시오니 주 밖에는 나의 복이 없다 하였나이다16:3 땅에 있는 성도는 존귀한 자니 나의 모든 즐거움이 저희에게 있도다16:4 다른 신에게 예물을 드리는 자는 괴로움이 더할 것이라 나는 저희가 드리는 피의 전제를 드리지 아니하며 내 입술로 그 이름도 부르지 아니하리로다16:5 여호와는 나의 산업과…

詩篇 QT15 210723金【幕屋に宿る人】詩篇 15章 1~5

詩篇 15章 1~515:1 主よだれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。15:2 全き者として歩み義を行い心の中の真実を語る人。15:3 舌をもって中傷せず友人に悪を行わず隣人へのそしりを口にしない人。15:4 その目は主に捨てられた者を蔑み主を恐れる者を彼は尊ぶ。損になっても誓ったことは変えない。15:5 利息をつけて金を貸すことはせず潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。このように行う人は決して揺るがされない。   15編は短いですが、節ごとに厳格な基準が提示されています。主の幕屋に宿る人は誰なのかについて話しています。言い換えると、誰が誠の信仰を持っているのかということです。それはまず正直と真実です。偽りを隠し、偽善的な思いで、神様に仕えることはできません。   そして、公義を実践しなければならないということ。欲や立場で考ええるのではなく、善と悪を分別し、正しいところに立つ勇気です。特別な何かがあるのでなく、ごく当たり前なことを言っていますが、しかし誰であっても「当たり前」であると言える人はいません。ヤコブはヤコブ1章で「そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。8」と責め、4章で「二心の者たち、心を清めなさい。8」と警告していたことを覚えます。   「舌をもって中傷せず友人に悪を行わず隣人へのそしりを口にしない人。3」考えてみれば、私たちにその権利はありません。エペソ4章でパウロが昔の人を捨て、新しい人を着るようにと言ったときに、「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。25」と言いました。誰かと話し合うとき、第三者の名前は出さない方が良いですね。言葉は、伝えられると膨らみます。言葉が漏れるとき、話す人の人格も漏れます。   「その目は主に捨てられた者を蔑み主を恐れる者を彼は尊ぶ。」力ある人にへつらうことはせず、神様の人を見つけ、彼らを優待します。人気や権力があるとして高ぶっているものに頭を下げません。力がなく、富みがなくても、神様の前に真実な人を尊い存在として優待します。   「損になっても誓ったことは変えない。」神様と約束したことを、状況に応じて変えることはしないということです。自分が神様よりよい判断ができると思ってはいけません。約束したことがもし損になることがあっても、神様はそれに従う信仰を確認して、それを良いものに変えてくださることを信じなければなりません。   「利息をつけて金を貸すことはせず」銀行まで違法扱いすることではありません。困難な人を助けるとき、代価を求めないという意味です。「潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない」15編を読んでみると、神様の幕屋に宿る人は、決して甘いものではありません。ダビデ自身もそれに自信があるからではなく、そのように生きることを固く心にしていたのでしょう。信仰に生きるということが何かを読んで、それをそれぞれの価値観の中に積み重ねていきましょう。

시편 QT15 210723금【주의 장막에 유할 자】시편 15편 1-5

시편 15편 1-515:1 여호와여 주의 장막에 유할 자 누구오며 주의 성산에 거할 자 누구오니이까15:2 정직하게 행하며 공의를 일삼으며 그 마음에 진실을 말하며15:3 그 혀로 참소치 아니하고 그 벗에게 행악지 아니하며 그 이웃을 훼방치 아니하며15:4 그 눈은 망령된 자를 멸시하며 여호와를 두려워하는 자를 존대 하며 그 마음에 서원한 것은 해로울지라도 변치 아니하며15:5 변리로 대금치 아니하며 뇌물을…

詩篇 QT14 210722木【無神論の正体】詩篇 14章 1~7

詩篇 14章 1~714:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。14:3 すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。14:4 不法を行う者はみな知らないのか。彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ主を呼び求めない。14:5 見よ彼らは大いに恐れた。神は正しい一族とともにおられるからだ。14:6 おまえたちは苦しむ者の計画を踏みにじろうとするだろう。しかし主が彼の避け所である。14:7 ああイスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。   「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。1」もし、愚かな言い方をする人がいれば、それは口の問題ではなく、考える根拠がないからです。同様に、神様という根拠がない人の人生は愚かです。   ここに言う愚かというのは、知識の量を言うものではありません。知識を無視するつもりもありません。分かるということは素晴らしいことだと思いますし、私たちも知って行かなければなりません。知ろうとしない人は、知恵を持つこともできません。   ということで知識は大切ですが、知っていく過程は充実でもその根源と結果について質問しないから愚かになります。持っている知識を用い、熟考し、省察してそこから神様の秩序、すなわち真理を見つける洞察がないからです。   大学や学者は、真理を探求するといいますが、その中には専門分野の課題を遂行するだけで、宇宙の中で、その課題の位置がどこかについて質問する人はなかなかいません。現象を観察しますが、根源までさかのぼりません。人について研究しますが、人の根拠について考えません。   「主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。2,3」悟る者、神を求める者がいないということです。みな考えないということです。無神論というのは、考えない怠けの愚かさです。聖書の言う罪は、人が神様を拒否し、離れることです。   パウロの雄弁を思い出します。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。Ⅱコリント10:4、5」   人間は存在論的に堕落しています。それを悟り、知ることが人間の「善」です。自分が善なるところのない存在であることに気づき、それを認めることが善の始まりです。自分を捨て、神様を求めることで、私たちの中に少しのスペースができます。それを善と名づけ、そこで私たちはたましいの息をつけることができます。     詩篇 14章 1~714:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。14:3 すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。14:4 不法を行う者はみな知らないのか。彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ主を呼び求めない。14:5 見よ彼らは大いに恐れた。神は正しい一族とともにおられるからだ。14:6 おまえたちは苦しむ者の計画を踏みにじろうとするだろう。しかし主が彼の避け所である。14:7 ああイスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。   「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。1」もし、愚かな言い方をする人がいれば、それは口の問題ではなく、考える根拠がないからです。同様に、神様という根拠がない人の人生は愚かです。   ここに言う愚かというのは、知識の量を言うものではありません。知識を無視するつもりもありません。分かるということは素晴らしいことだと思いますし、私たちも知って行かなければなりません。知ろうとしない人は、知恵を持つこともできません。   ということで知識は大切ですが、知っていく過程は充実でもその根源と結果について質問しないから愚かになります。持っている知識を用い、熟考し、省察してそこから神様の秩序、すなわち真理を見つける洞察がないからです。   大学や学者は、真理を探求するといいますが、その中には専門分野の課題を遂行するだけで、宇宙の中で、その課題の位置がどこかについて質問する人はなかなかいません。現象を観察しますが、根源までさかのぼりません。人について研究しますが、人の根拠について考えません。   「主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。2,3」悟る者、神を求める者がいないということです。みな考えないということです。無神論というのは、考えない怠けの愚かさです。聖書の言う罪は、人が神様を拒否し、離れることです。   パウロの雄弁を思い出します。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。Ⅱコリント10:4、5」   人間は存在論的に堕落しています。それを悟り、知ることが人間の「善」です。自分が善なるところのない存在であることに気づき、それを認めることが善の始まりです。自分を捨て、神様を求めることで、私たちの中に少しのスペースができます。それを善と名づけ、そこで私たちはたましいの息をつけることができます。    

시편 QT14 210722목【무신론의 정체】시편 14편 1-7

시편 14편 1-714:1 어리석은 자는 그 마음에 이르기를 하나님이 없다 하도다 저희는 부패하고 소행이 가증하여 선을 행하는 자가 없도다14:2 여호와께서 하늘에서 인생을 굽어 살피사 지각이 있어 하나님을 찾는 자가 있는가 보려 하신즉14:3 다 치우쳤으며 함께 더러운 자가 되고 선을 행하는 자가 없으니 하나도 없도다14:4 죄악을 행하는 자는 다 무지하뇨 저희가 떡먹듯이 내 백성을 먹으면서 여호와를…

詩篇 QT13 210721水【死の眠り】詩篇 13章 1~6

詩篇 13章 1~613:1 主よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。13:2 いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。13:3 私に目を注ぎ私に答えてください。私の神主よ。私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。13:4 「彼に勝った」と私の敵が言わないように。私がぐらつくことを逆らう者が喜ばないように。13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。13:6 私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。   出エジプト記から学んだ安息日に関する律法は、神様が民に宗教的な行為を一方的に要求したことと考えてはいけません。安息を与え、礼拝に導くのは、人のためのことです。時間が経つにつれて、それは安息日遵守という義務に変わり、人間を縛るようになりますが、神様の安息の目的は、人間に自由と安らぎを持たせることです。   恐ろしいのは、私に対して神様の関心がなくなることです。懲戒はまだ大丈夫です。神様の無関心こそが地獄です。地獄を定義するなら、「神様の慈悲がないところ」だからです。信仰から離れていても、富があり、健康があって神様に対して鈍感になるならば、それがすでに罰を受けているのです。 誰でも自分にとって最も重要な関心事を最優先に祈ります。今日の13編でダビデは、一番最初に、神様が自分を忘れてしまったのかを恐れ、訴えます。「主よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。1」これを3節では、「死の眠り」と表現しました。   この死は肉体の死ではなく、霊的な死です。ダビデには、今現在に経験している苦しみの重さより、神様が不在である不安感の方がよほど重いのです。苦しみが続くと信仰まで揺れるかと思って恐れています。自分の信仰を信じることはできません。神様を信じるだけです。肉体は弱くて、攻められ、惑わされると信仰も常に危険です。自分の信仰を信じずに、神様を信じなければなりません。ということで私たちは、いつも「試みにあわせず…」という神様の慈悲を求める祈りをささげます。 ダビデの詩に反転が起こります。「私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。5」ダビデは、「恵みに拠り頼みます」と言います。主の愛とは、まさに条件なしに施される慈悲、資格のない者に与える恵みです。それを覚え、思い出します。神様は恵みを覚えている心の中で生きておられます。   自分自身を信じようとしたときは、恐れてしまいますが、今は神様の愛により頼み、喜んでいます。詩の結末は、信仰の悩みの結論です。神様の恵みを覚え、これからも変わらないその愛に信頼することです。6節になるともとにところに戻り、落ち着きます。「私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。6」世は、神がないと言いますが、本当に怖いのは、神様が私の中でいないことです。  

시편 QT13 210721수【사망의 잠】시편 13편1-6

시편 13편1-613:1 여호와여 어느 때까지니이까 나를 영영히 잊으시나이까 주의 얼굴을 나에게서 언제까지 숨기시겠나이까13:2 내가 나의 영혼에 경영하고 종일토록 마음에 근심하기를 어느 때까지 하오며 내 원수가 나를 쳐서 자긍하기를 어느 때까지 하리이까13:3 여호와 내 하나님이여 나를 생각하사 응답하시고 나의 눈을 밝히소서 두렵건대 내가 사망의 잠을 잘까 하오며13:4 두렵건대 나의 원수가 이르기를 내가 저를 이기었다 할까 하오며…

詩篇 QT12 210720火【悪について】詩篇 12章 1~8

詩篇 12章 1~812:1 主よお救いください。敬虔な人は後を絶ち誠実な人は人の子らの中から消え去りました。12:2 人は互いにむなしいことを話しへつらいの唇と二心で話します。12:3 主がへつらいの唇と傲慢の舌をことごとく断ち切ってくださいますように。12:4 彼らはこう言っています。「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれがわれらの主人なのか。」12:5 主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ貧しい人が嘆くから今わたしは立ち上がる。わたしは彼をその求める救いに入れよう。」12:6 主のことばは混じり気のないことば。土の炉で七度試され純化された銀。12:7 主よあなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも彼らを保たれます。12:8 人の子の間で卑しいことがあがめられているときには悪しき者がいたるところで横行します。   いわゆる神義論はヨブの時代から苦みの中で提起してきた神学的な質問です。神義論とは、全知全能で絶対的に善なる神様が世界を支配しているのに、なぜ世の中には悪が存在するのか。義は苦まれるのに、なぜ悪は繁栄するかという問題です。既にあった質問であり、歴史の中で多くの人々が悩んできましたが、未だに正解がこれだとは言えないものです。公正と定義について私たちの社会は、今も悩んでいるのではありませんか?   伝道者の書でソロモンは、前にあった世代も、今の世代も、後に来る世代も、また知恵ある者も、愚かな者もみなこれを繰り返すと言います。ただし、この問題の根本的な実体に対して、人生の目標は、神様の安息に入ることであり、神様を恐れることが知恵の根本であると語ります。人が自ら善と悪の混乱をまとめてから神様を信じことはありません。信仰が前提しなければ善悪はわきまえることができないからです。   悪というのは、それ自体で独立して存在することではありません。闇は光の不在のために生じ、悪は善の欠如のため生じます。「人の子の間で卑しいことがあがめられているときには悪しき者がいたるところで横行します。8」悪を消滅させることはできません。だから、神様なしに良い世界を作ることはできないのです。それは存在しない蜃気楼です。   悪をなくすことはできず、完全に、善なる人もいません。悪に対抗しようとする人は、信仰を告白しなければなりません。罪からの赦しのために代わりに死んで、救いを道を開いてくださった神様の愛の実践について、その信仰を告白することです。人間の善が悪をなくすことはできませんが、ただし、信仰の告白が広がるところには間違いなく善に変わっていきます。

시편 QT12 210720화【악에 대하여】시편 12장1-8

시편 12:1-812:1 여호와여 도우소서 경건한 자가 끊어지며 충실한 자가 인생 중에 없어지도소이다12:2 저희가 이웃에게 각기 거짓말을 말함이여 아첨하는 입술과 두 마음으로 말하는도다12:3 여호와께서 모든 아첨하는 입술과 자랑하는 혀를 끊으시리니12:4 저희가 말하기를 우리의 혀로 이길지라 우리 입술은 우리 것이니 우리를 주관할 자 누구리요 함이로다12:5 여호와의 말씀에 가련한 자의 눌림과 궁핍한 자의 탄식을 인하여 내가 이제 일어나…

出エジプト記 QT79 210719月【安息を望んで】出エジプト記 40章 34~38

出エジプト記 40章 34~3840:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。40:36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。40:37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。40:38 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。   イスラエルの民は、完成した幕屋の上に雲が現われると移動し、幕屋の上に雲がなければ、その場にとどまりました。雲がサインになって、移動したりした滞在したりしたのです。イスラエルの民は、神様の指示にによって荒野を渡っていきました。   とどまりたくても雲がある時は行かなければならないし、行きたくても雲がなければとどまらなければならなかったのです。数日を待つことも、時には年を超えることもありました。礼拝の中で神様のサインを受けるのです。神様を信頼し、時間を神様に委ねなければできないことです。   ただし、彼らはとどまりながら、旅を続ける準備をし、歩きながらとどまる準備をしました。荒野の路程に疲れるととどまりたくなり、とどまると定着したくなります。しかし、目的はある人は、経由地に心を奪われません。   荒野はとどまる基盤ではなく、貫くべき道です。そこにいかなる望みも未練も持ってはいけません。その道は通りがかる道です。だからといって短時間で全力疾走して通れる道でもありません。礼拝のために幕屋を設置し、一定期間とどまりながら、礼拝しなければなりませんでした。   荒野路程の中には神様は雲の柱だけでなく、火の柱を伴っていました。これからその中心は、幕屋、すなわち礼拝です。「旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。38」   必要が満たされてから礼拝するのではなく、礼拝する人に神様は必要を満たしてくださいます。暑い時は涼しさの恵みを、寒い時は暖かさの恵みにあずかります。行く道が険しくてもとどまって礼拝する安息を待ち望みながら、与えられた道を貫きたいと願います。