출애굽기 QT36 2105015토【여호와는 우리 중에 계신가】출애굽기 17장 1~7

출애굽기 17장 1~717:1 이스라엘 자손의 온 회중이 여호와의 명령대로 신 광야에서 떠나 그 노정대로 행하여 르비딤에 장막을 쳤으나 백성이 마실 물이 없는지라17:2 백성이 모세와 다투어 가로되 우리에게 물을 주어 마시게 하라 모세가 그들에게 이르되 너희가 어찌하여 나와 다투느냐 너희가 어찌하여 여호와를 시험하느냐17:3 거기서 백성이 물에 갈하매 그들이 모세를 대하여 원망하여 가로되 당신이 어찌하여 우리를 애굽에서…

出エジプト記 QT35 20210513金【休まない奴隷根性】出エジプト 16章 21~36

出エジプト記 16章 21~3616:21 彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。16:22 六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、16:23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」16:24 モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。16:25 モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。16:26 六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」16:27 七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。16:28 主はモーセに言われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。16:29 心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」16:30 それで民は七日目に休んだ。16:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。16:32 モーセは言った。「主が命じられたことはこうだ。『それを一オメル分、あなたがたの子孫のために保存しなさい。わたしがあなたがたをエジプトの地から導き出したときに、荒野であなたがたに食べさせたパンを、彼らが見ることができるようにするためである。』」16:33 モーセはアロンに言った。「壺を一つ持って来て、マナを一オメル分その中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」16:34 主がモーセに命じられたとおり、アロンはそれを保存するために、さとしの板の前に置いた。16:35 イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。16:36 一オメルは一エパの十分の一である。   世界は無理を強要するとき、憎らしく、口では無理しないでいいといいます。無理しなければならない構造が不義です。休まず働かなければならない構造というのは、世の中に資源が足りないからではなく、競争を煽る人間の貪欲のゆえです。貪欲は、安全と休息のための費用も利益にするからです。   人が休まずに働いているのを見ると、世が人を搾取していることがわかります。 「夕方のある生活」というスローガンもありましたが、仕事に中毒してしまった人は、休憩を与えても途方に暮れます。成長と競争の時代を生きた人たちは休み方をよく知りません。休みを習ったことがないからです。   大学時代に塾でアルバイトをしたとき、日曜日の午前に教会へ行って遅刻してきた生徒をたたいたことがあります。その頃はそうでした。「受験生が教会なんかに行く暇があるか…」と。教会を通い始めてから、その事をよく思い出しました。間違っていました。休んだらいけないと思っていました。休んでいると不安でした。だからといって情熱的に、集中的にするものでもありませんでした。   これがまさにファラオが教えてくれたことです。奴隷に肉を食べさせ、休まず、より多くの仕事をさせるのです。仕事に夢中にならなければ余計なことを考えると思ったからです。安息すると、魂と思いが息をつけ始め、人は尊厳を考え、神を考えるからです。   神様は荒野に出てきた子どもたちにマナを食べさせ、休ませました。休むことなく、働こうとする奴隷根性に、必ず安息するようにと制度化されました。週末に会社に出勤しないことは、会社が作ったものではなく、神様が定められたものです。安息は一時停止です。歩んできた道を振り返ります。止まってこれから進むべき道も眺めることができます。

출애굽기 QT35 2105014금【쉬면 안 된다는 노예 근성】출애굽기 16장 21~36

출애굽기 16장 21~3616:21 무리가 아침마다 각기 식량대로 거두었고 해가 뜨겁게 쪼이면 그것이 스러졌더라16:22 제육일에는 각 사람이 갑절의 식물 곧 하나에 두 오멜씩 거둔지라 회중의 모든 두목이 와서 모세에게 고하매16:23 모세가 그들에게 이르되 여호와께서 이같이 말씀하셨느니라 내일은 휴식이니 여호와께 거룩한 안식일이라 너희가 구울 것은 굽고 삶을 것은 삶고 그 나머지는 다 너희를 위하여 아침까지 간수하라16:24 그들이…

出エジプト記 QT34 20210513木【荒野の基本所得】出エジプト 16章 11~20

出エジプト記 16章 11~2016:11 主はモーセに告げられた。16:12 「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」16:13 すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。16:14 その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。16:15 イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。16:16 主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」16:17 そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。16:18 彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。16:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」16:20 しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。   マナは、荒野のイスラエルに与えられた神様の特別な食料でした。マナを与える際に神様のご計画がありました。16章4節で、神が会っをくださる時、「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」と言われました。安息日の前日のみ二日分が収められたのは、安息日の遵守のためです。家族の数に応じてそれを取りました。しかし備蓄してはいけなかったのは、欲望との競争を捨てて、神様に頼る共同体を形成するためです。   経済的な基本権が整っていない生活は不安です。また過度の競争は、生活と共同体​​を疲弊させることになります。過度な競争に埋没せず、経済的な基本権が与えられたのは、先進的な福祉社会です。だからといってマナを食べることが決して食い倒れになるとは言えません。朝早く起きてマナを集める労働で一日が始まります。礼拝をささげることができないほど忙しいこと、重要なことだというのは、社会全体として存在しません。むしろ安定した礼拝のために、安定した労働と分配があったのです。マナは、みなと一緒に平和のうちに神様が与えられた食糧を食べ、礼拝を備え、慕い求めることができる、いわば基本所得になりました。   競争を通して発展していくということもあり、不安だからより働くということもあり、熱心と誠実さと能力に応じた補償の違いがなければならないということもあります。仕事というのは確かに重要な価値です。とはいえ、それが人生の中で最高の価値とはいえません。それはだまされているのです。クリスチャンにあるべき最も根本的な使命は、神様の創造秩序の回復です。額に汗を流して働かなければならなかったことは、人類の堕落の後に与えられた罰です。その前に、アダムは園で許された木の実を食べながら、神様と過ごしました。   私たちは確かに疲弊した精神の時代、疲れ果てた競争の時代、無限の欲の時代を生きています。素朴なことに自足し、感謝の気持ちでじっととどまって考える、黙想することができる時間、神様を礼拝するという価値が、経済的な付加価値に押されてしまってはいけません。たとえ山海の珍味ではないけれども、マナが降り、不安ではない生活、戦わなくても皆がたべる配慮できる生活、だから平安のうちに神様を礼拝する生活、そのような生活こそ共生の生活なのではないでしょうか。

출애굽기 QT34 2105013목【광야의 기본소득】출애굽기 16장 11~20

출애굽기 16장 11~2016:11 여호와께서 모세에게 일러 가라사대16:12 내가 이스라엘 자손의 원망함을 들었노라 그들에게 고하여 이르기를 너희가 해 질 때에는 고기를 먹고 아침에는 떡으로 배부르리니 나는 여호와 너희의 하나님인 줄 알리라 하라 하시니라16:13 저녁에는 메추라기가 와서 진에 덮이고 아침에는 이슬이 진 사면에 있더니16:14 그 이슬이 마른 후에 광야 지면에 작고 둥글며 서리 같이 세미한것이 있는지라16:15 이스라엘…

出エジプト記 QT33 20210512水【食べたいイスラエル】出エジプト 16章 1~10

出エジプト記 16章 1~1016:1 イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。16:2 そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。16:3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。16:5 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」16:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、16:7 朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」16:8 モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」16:9 モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」16:10 アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。   スコトでイスラエルの民は飲み水がなくて苦労しましたが、シンの荒野に着いたら今度は食べものがなくて困りました。それでまた、彼らは神様を恨みました。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」奴隷らしい言葉です。奴隷の時代にたくさんの肉を食べたはずもないと思いますが、昔の話はいつも誇張されます。とにかくたくさん食べた奴隷の時が良かったと言うのです。   「われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ」という言葉に神様に対する嘲笑があり、「肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたとき」が良かったという言葉に、彼らが信じている神がどのようなものかが分かります。ローマ16章でパウロが「私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲望に仕えているのです」という言葉があります。欲望を仕えるというのは、昔の話でもなく、見知らぬ話でもありません。パンの前に神を比較して嘲笑しているから彼らの神はパンです。   彼らの神は世であって、世が食べさせることさえしてくれれば、抑圧と暴力と不正とは何の問題もありません。自分だけが満腹できれば、独裁でも搾取でも関係ありません。パンはすなわち経済です。お金はすべてだと思う人はいません。お金があればすべてを手に入れられると思うから、それを追い求めるのです。それでパンは神となります。   イスラエルがが渇き、空腹を覚えるのは、神様の供給の力が足りないからではありません。あえて苦労させるつもりでもありません。パンの出所がどこなのかを整理しなくては信仰は前進できないからです。財政の訓練です。神様に対して財政の告白ができない人は、腹が減った時に自分の神を探して、世に戻ってしまうのです。   神様は、恨んでいた民に水を与えてくださったように、恨んでいる民に食べ物を与えてくださいます。マナを約束します。マナは足りなくも不足もありませんでした。一人一人が、自分が食べる分だけ持って行きます。多く取り入れて備蓄しておいても腐って食べられませんでした。欠がなければ欲もありません。荒野は、まるで天国のようなところでした。パンのために生きなくてもよかったし、パンのために戦い合わなくてもよかったのです。しかし、イスラエルの民は、後にマナばかり食べて飽きたといい、また恨みます。飽きるのは、マナではなく、人間の心です。   安息日の前日のみ2倍のマナが降りました。それは翌日の安息日にも腐らず、食べることが出来ました。安息日は、労働せずに礼拝するという意味です。礼拝しながら欲を張って生きるとか、欲のまま生きながら礼拝することはみな矛盾です。飢えによって神様を恨むというのは、本来の日常は飢えてなということです。ですから、飢えてない今、神様に感謝せず、よりたくさんの貪欲を張るなら、飢えるときには必ず神を恨みます。信じる神が異なるからです。   荒野を通ってカナンの目前に立ったモーセの説教、申命記8章3節です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」イエスはマタイ4章4節で、これを引用して言いました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」   マナは毎日に食べるもので、神様の御言葉も毎日食べるものです。荒野の40年が長いと思われますが、それもあっという間です。毎朝祈祷会の時間に創世記から一章すつ読みましたが、昨日、旧約を読み終わり、今朝マタイ1章を読みました。旧約聖書を一度読むのに5年以上かかったわけです。毎日食べなければ、それを食べる時間もあまりありません。神様の御言葉を主人として生きることを祈ります。

출애굽기 QT33 2105012수【배고픈 이스라엘】출애굽기 16장 1~10

출애굽기 16장 1~1016:1 이스라엘 자손의 온 회중이 엘림에서 떠나 엘림과 시내산 사이 신 광야에 이르니 애굽에서 나온 후 제 이월 십오일이라16:2 이스라엘 온 회중이 그 광야에서 모세와 아론을 원망하여16:3 그들에게 이르되 우리가 애굽 땅에서 고기 가마 곁에 앉았던 때와 떡을 배불리 먹던 때에 여호와의 손에 죽었더면 좋았을 것을 너희가 이 광야로 우리를 인도하여 내어 이…

出エジプト記 QT32 20210511火【渇いたイスラエル】出エジプト 15章 22~27

出エジプト記 15章 22~2715:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。15:24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。15:25 モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、15:26 そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。   紅海を渡ったイスラエルの民は荒野に入って三日の道のりを歩きましたが、水がありませんでした。三日後とうとう水を見つけましたが、その水は苦くて飲むことができませんでした。幼い子どもや老人を含む大勢の人が三日間水が飲めないというのは、どんなに大きい苦しみだったことでしょう。そういう意味でその井戸を「マラ(הרם)」と名付けました。マラは「苦い、辛い」という意味です。   民の不満があらわれました。水を得た期待感は、また直ぐに水が飲めない失望と怒りに変わりました。イスラエルの民は、紅海の奇跡を体験しましたが、3日後に水がなくて不平不満を持って恨んだのは、言葉通りに三日坊主です。日常が不便になると救いの記憶は3日で、その有効期間が終わってしまうとのことです。70人訳では、ヘブライ語のマラ(הרם)をアフェイデス(ἀπειθής)というギリシャ語に翻訳しました。これは、「不従順」という意味です。マラは不従順となりました。   イスラエルの民が神様を恨むときは、その怒りは常にモーセに向けられます。モーセは祈り、神様は問題を解決してくださいます。恨まなければならないことは、神様とモーセではなく、目の前の問題に一喜一憂する私たちのみじめな信仰です。イエスを信じれば、すべてが栄えるという言葉は嘘です。救いの途上では辛いことにも遭遇します。しかし信仰はそれに打ち勝つ力なのです。   神様はある一本の木を示され、モーセがその木を井戸に投げる込むと、苦い水が浄化され、飲める水になりました。苦い水の問題は木によって解決しました。その木は、イスラエルの民の目の前にあったものです。飲めない水であることを知ったとき、誰かが腹いせに蹴りをしたものかもしれない木です。甘い水を飲んで気が戻った民は恥じを覚えたかもしれません。   渋柿は食べることができませんが、渋柿を塩水に浸して半日漬けておけば、すぐに甘柿になります。塩はしょっぱく柿も渋いですが、それが出会うと甘くなります。柿を熟すと熟柿となり、干すと干し柿になって甘くなります。ただしばらく待たなければなりません。化学作用は奇跡ではなく、神様が造られた秩序です。マラの水が甘くなったのが奇跡であるなら、秋に柿を食べるのことも奇跡です。神様の奇跡は、周りにありがちなものをもって、苦く、辛く、どうしようもない私の性質を変えてくださるものす。

출애굽기 QT32 2105011화【목마른 이스라엘】출애굽기 15장 22~27

출애굽기 15장 22~2715:22 모세가 홍해에서 이스라엘을 인도하매 그들이 나와서 수르 광야 로 들어가서 거기서 사흘길을 행하였으나 물을 얻지 못하고15:23 마라에 이르렀더니 그 곳 물이 써서 마시지 못하겠으므로 그 이름을 마라라 하였더라15:24 백성이 모세를 대하여 원망하여 가로되 우리가 무엇을 마실까 하매15:25 모세가 여호와께 부르짖었더니 여호와께서 그에게 한 나무를 지시하시니 그가 물에 던지매 물이 달아졌더라 거기서 여호와께서…

出エジプト記 QT31 20210510月【マエストロ・ミリアム】出エジプト 15章 13~21

出エジプト記 15章 13~2115:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。15:14 もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。15:15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。15:16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。15:17 あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。15:18 主はとこしえまでも統べ治められる。」15:19 ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。15:20 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。15:21 ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」   聖書でミリアムの記事はそれほど多くありませんが、幼い時、ナイル川に流されていたかわいそうなモーセについていた悲しい姉ちゃんがミリアムです。そして、出エジプト途上でモーセが異邦の女性を取ったことを非難したミリアムが登場します。それはモーセに一次的な誤りがあるようですが、モーセのリーダーシップを強化しなければならない神様は、公開的にモーセを攻撃したミリアムをらい病にかからせました。モーセはありがたい姉が自分のためにらい病にかかってしまったということで、神様に痛く祈り、ミリアムを回復しました。   今日の本文は、モーセの歌に、姉ミリアムの歌が続きます。20節ではミリアムを女預言者と称しています。ミリアムはタンバリンを持って踊りながら賛美しました。それについて女性のみなが彼女に従って賛美します。ミリアムはイスラエル、とりわけ出エジプトの共同体の中でリーダーシップをもって女性の世界を指揮していました。ミリアムには女丈夫のような面があります。   モーセの歌は長いですが、女丈夫のミリアムの歌は21節のみで短いです。始めてからすぐに終わります。それはミリアムの歌の全部ではなく、編集したものだと思います。一行の詩をもって楽器を演奏し、踊ることはないからです。そして、その編集にも理由があると思います。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。21」   美辞麗句はありません。むしろ神学的論争を呼び起こすような敏感な素材を積極的かつ簡潔に述べています。ミリアムは、神様がイスラエルを救ったことを言わずに、神様がエジプトを殺したことを言っているからです。それがそれで同じことですが、私はミリアムの歌がすっきりして好きになりました。   救いと恵みという言葉が私たちの中でいかに抽象的な意味で使われるのが振り返ってみてください。救いは実際のものであり、私を絶望に引っ張て行く力に対して私の代わりに戦って私を勝たせてくださるのが救です。ミリアムの詩は、神様が救いを妨げる絶望を持ち上げ、それを海にも投げ込んでくださったと歌っているのです。   信じる人は紅海が分かれたことの科学的な証拠を見つけだし、それをもって説得しようと図ります。また、愛の神様がエジプト軍を海の中で殺したという話をするのに自信がなくてイスラエルが紅海を渡ったという婉曲な表現を言いまわします。   間違ってはありませんが、紅海を渡ったことを科学的に説明しなくてもよいです。それは私がイエス様を信じて救われたことを告白したときから、紅海はすでに割れたからです。神様がエジプトを殺したことを言うことにまよまよしなくてもよいです。それは、今でも私の絶望と戦われる神様がなさることだからです。私の救いのために神様は今日も馬と乗り手を海に投げ込っでくださいます。