출애굽기 QT34 2105013목【광야의 기본소득】출애굽기 16장 11~20

출애굽기 16장 11~2016:11 여호와께서 모세에게 일러 가라사대16:12 내가 이스라엘 자손의 원망함을 들었노라 그들에게 고하여 이르기를 너희가 해 질 때에는 고기를 먹고 아침에는 떡으로 배부르리니 나는 여호와 너희의 하나님인 줄 알리라 하라 하시니라16:13 저녁에는 메추라기가 와서 진에 덮이고 아침에는 이슬이 진 사면에 있더니16:14 그 이슬이 마른 후에 광야 지면에 작고 둥글며 서리 같이 세미한것이 있는지라16:15 이스라엘…

出エジプト記 QT33 20210512水【食べたいイスラエル】出エジプト 16章 1~10

出エジプト記 16章 1~1016:1 イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。16:2 そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。16:3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。16:5 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」16:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、16:7 朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」16:8 モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」16:9 モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」16:10 アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。   スコトでイスラエルの民は飲み水がなくて苦労しましたが、シンの荒野に着いたら今度は食べものがなくて困りました。それでまた、彼らは神様を恨みました。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」奴隷らしい言葉です。奴隷の時代にたくさんの肉を食べたはずもないと思いますが、昔の話はいつも誇張されます。とにかくたくさん食べた奴隷の時が良かったと言うのです。   「われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ」という言葉に神様に対する嘲笑があり、「肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたとき」が良かったという言葉に、彼らが信じている神がどのようなものかが分かります。ローマ16章でパウロが「私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲望に仕えているのです」という言葉があります。欲望を仕えるというのは、昔の話でもなく、見知らぬ話でもありません。パンの前に神を比較して嘲笑しているから彼らの神はパンです。   彼らの神は世であって、世が食べさせることさえしてくれれば、抑圧と暴力と不正とは何の問題もありません。自分だけが満腹できれば、独裁でも搾取でも関係ありません。パンはすなわち経済です。お金はすべてだと思う人はいません。お金があればすべてを手に入れられると思うから、それを追い求めるのです。それでパンは神となります。   イスラエルがが渇き、空腹を覚えるのは、神様の供給の力が足りないからではありません。あえて苦労させるつもりでもありません。パンの出所がどこなのかを整理しなくては信仰は前進できないからです。財政の訓練です。神様に対して財政の告白ができない人は、腹が減った時に自分の神を探して、世に戻ってしまうのです。   神様は、恨んでいた民に水を与えてくださったように、恨んでいる民に食べ物を与えてくださいます。マナを約束します。マナは足りなくも不足もありませんでした。一人一人が、自分が食べる分だけ持って行きます。多く取り入れて備蓄しておいても腐って食べられませんでした。欠がなければ欲もありません。荒野は、まるで天国のようなところでした。パンのために生きなくてもよかったし、パンのために戦い合わなくてもよかったのです。しかし、イスラエルの民は、後にマナばかり食べて飽きたといい、また恨みます。飽きるのは、マナではなく、人間の心です。   安息日の前日のみ2倍のマナが降りました。それは翌日の安息日にも腐らず、食べることが出来ました。安息日は、労働せずに礼拝するという意味です。礼拝しながら欲を張って生きるとか、欲のまま生きながら礼拝することはみな矛盾です。飢えによって神様を恨むというのは、本来の日常は飢えてなということです。ですから、飢えてない今、神様に感謝せず、よりたくさんの貪欲を張るなら、飢えるときには必ず神を恨みます。信じる神が異なるからです。   荒野を通ってカナンの目前に立ったモーセの説教、申命記8章3節です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」イエスはマタイ4章4節で、これを引用して言いました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」   マナは毎日に食べるもので、神様の御言葉も毎日食べるものです。荒野の40年が長いと思われますが、それもあっという間です。毎朝祈祷会の時間に創世記から一章すつ読みましたが、昨日、旧約を読み終わり、今朝マタイ1章を読みました。旧約聖書を一度読むのに5年以上かかったわけです。毎日食べなければ、それを食べる時間もあまりありません。神様の御言葉を主人として生きることを祈ります。

출애굽기 QT33 2105012수【배고픈 이스라엘】출애굽기 16장 1~10

출애굽기 16장 1~1016:1 이스라엘 자손의 온 회중이 엘림에서 떠나 엘림과 시내산 사이 신 광야에 이르니 애굽에서 나온 후 제 이월 십오일이라16:2 이스라엘 온 회중이 그 광야에서 모세와 아론을 원망하여16:3 그들에게 이르되 우리가 애굽 땅에서 고기 가마 곁에 앉았던 때와 떡을 배불리 먹던 때에 여호와의 손에 죽었더면 좋았을 것을 너희가 이 광야로 우리를 인도하여 내어 이…

出エジプト記 QT32 20210511火【渇いたイスラエル】出エジプト 15章 22~27

出エジプト記 15章 22~2715:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。15:24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。15:25 モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、15:26 そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。   紅海を渡ったイスラエルの民は荒野に入って三日の道のりを歩きましたが、水がありませんでした。三日後とうとう水を見つけましたが、その水は苦くて飲むことができませんでした。幼い子どもや老人を含む大勢の人が三日間水が飲めないというのは、どんなに大きい苦しみだったことでしょう。そういう意味でその井戸を「マラ(הרם)」と名付けました。マラは「苦い、辛い」という意味です。   民の不満があらわれました。水を得た期待感は、また直ぐに水が飲めない失望と怒りに変わりました。イスラエルの民は、紅海の奇跡を体験しましたが、3日後に水がなくて不平不満を持って恨んだのは、言葉通りに三日坊主です。日常が不便になると救いの記憶は3日で、その有効期間が終わってしまうとのことです。70人訳では、ヘブライ語のマラ(הרם)をアフェイデス(ἀπειθής)というギリシャ語に翻訳しました。これは、「不従順」という意味です。マラは不従順となりました。   イスラエルの民が神様を恨むときは、その怒りは常にモーセに向けられます。モーセは祈り、神様は問題を解決してくださいます。恨まなければならないことは、神様とモーセではなく、目の前の問題に一喜一憂する私たちのみじめな信仰です。イエスを信じれば、すべてが栄えるという言葉は嘘です。救いの途上では辛いことにも遭遇します。しかし信仰はそれに打ち勝つ力なのです。   神様はある一本の木を示され、モーセがその木を井戸に投げる込むと、苦い水が浄化され、飲める水になりました。苦い水の問題は木によって解決しました。その木は、イスラエルの民の目の前にあったものです。飲めない水であることを知ったとき、誰かが腹いせに蹴りをしたものかもしれない木です。甘い水を飲んで気が戻った民は恥じを覚えたかもしれません。   渋柿は食べることができませんが、渋柿を塩水に浸して半日漬けておけば、すぐに甘柿になります。塩はしょっぱく柿も渋いですが、それが出会うと甘くなります。柿を熟すと熟柿となり、干すと干し柿になって甘くなります。ただしばらく待たなければなりません。化学作用は奇跡ではなく、神様が造られた秩序です。マラの水が甘くなったのが奇跡であるなら、秋に柿を食べるのことも奇跡です。神様の奇跡は、周りにありがちなものをもって、苦く、辛く、どうしようもない私の性質を変えてくださるものす。

출애굽기 QT32 2105011화【목마른 이스라엘】출애굽기 15장 22~27

출애굽기 15장 22~2715:22 모세가 홍해에서 이스라엘을 인도하매 그들이 나와서 수르 광야 로 들어가서 거기서 사흘길을 행하였으나 물을 얻지 못하고15:23 마라에 이르렀더니 그 곳 물이 써서 마시지 못하겠으므로 그 이름을 마라라 하였더라15:24 백성이 모세를 대하여 원망하여 가로되 우리가 무엇을 마실까 하매15:25 모세가 여호와께 부르짖었더니 여호와께서 그에게 한 나무를 지시하시니 그가 물에 던지매 물이 달아졌더라 거기서 여호와께서…

出エジプト記 QT31 20210510月【マエストロ・ミリアム】出エジプト 15章 13~21

出エジプト記 15章 13~2115:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。15:14 もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。15:15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。15:16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。15:17 あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。15:18 主はとこしえまでも統べ治められる。」15:19 ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。15:20 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。15:21 ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」   聖書でミリアムの記事はそれほど多くありませんが、幼い時、ナイル川に流されていたかわいそうなモーセについていた悲しい姉ちゃんがミリアムです。そして、出エジプト途上でモーセが異邦の女性を取ったことを非難したミリアムが登場します。それはモーセに一次的な誤りがあるようですが、モーセのリーダーシップを強化しなければならない神様は、公開的にモーセを攻撃したミリアムをらい病にかからせました。モーセはありがたい姉が自分のためにらい病にかかってしまったということで、神様に痛く祈り、ミリアムを回復しました。   今日の本文は、モーセの歌に、姉ミリアムの歌が続きます。20節ではミリアムを女預言者と称しています。ミリアムはタンバリンを持って踊りながら賛美しました。それについて女性のみなが彼女に従って賛美します。ミリアムはイスラエル、とりわけ出エジプトの共同体の中でリーダーシップをもって女性の世界を指揮していました。ミリアムには女丈夫のような面があります。   モーセの歌は長いですが、女丈夫のミリアムの歌は21節のみで短いです。始めてからすぐに終わります。それはミリアムの歌の全部ではなく、編集したものだと思います。一行の詩をもって楽器を演奏し、踊ることはないからです。そして、その編集にも理由があると思います。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。21」   美辞麗句はありません。むしろ神学的論争を呼び起こすような敏感な素材を積極的かつ簡潔に述べています。ミリアムは、神様がイスラエルを救ったことを言わずに、神様がエジプトを殺したことを言っているからです。それがそれで同じことですが、私はミリアムの歌がすっきりして好きになりました。   救いと恵みという言葉が私たちの中でいかに抽象的な意味で使われるのが振り返ってみてください。救いは実際のものであり、私を絶望に引っ張て行く力に対して私の代わりに戦って私を勝たせてくださるのが救です。ミリアムの詩は、神様が救いを妨げる絶望を持ち上げ、それを海にも投げ込んでくださったと歌っているのです。   信じる人は紅海が分かれたことの科学的な証拠を見つけだし、それをもって説得しようと図ります。また、愛の神様がエジプト軍を海の中で殺したという話をするのに自信がなくてイスラエルが紅海を渡ったという婉曲な表現を言いまわします。   間違ってはありませんが、紅海を渡ったことを科学的に説明しなくてもよいです。それは私がイエス様を信じて救われたことを告白したときから、紅海はすでに割れたからです。神様がエジプトを殺したことを言うことにまよまよしなくてもよいです。それは、今でも私の絶望と戦われる神様がなさることだからです。私の救いのために神様は今日も馬と乗り手を海に投げ込っでくださいます。  

출애굽기 QT31 2105010월【마에스트로 미리암】출애굽기 15장 13~21

출애굽기 15장 13~2115:13 주께서 그 구속하신 백성을 은혜로 인도하시되 주의 힘으로 그들을 주의 성결한 처소에 들어가게 하시나이다15:14 열방이 듣고 떨며 블레셋 거민이 두려움에 잡히며15:15 에돔 방백이 놀라고 모압 영웅이 떨림에 잡히며 가나안 거민이 다 낙담하나이다15:16 놀람과 두려움이 그들에게 미치매 주의 팔이 큼을 인하여 그들이 돌같이 고요하였사오되 여호와여 주의 백성이 통과하기까지 곧 주의 사신 백성이 통과하기까지였나이다15:17…

出エジプト記 QT30 20210508土【紅海が分かれる時間】出エジプト 14章 15~31

出エジプト記 14章 15~3114:15 主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。14:17 見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。14:18 ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」14:19 イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。14:21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。14:22 イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。14:23 エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、14:25 戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」14:26 主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」14:27 モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。14:28 水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。14:29 イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。14:30 こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。14:31 イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。   イスラエルの後を追ってくるエジプトの戦車部隊の前で、神様は紅海に道を開いておかれました。15章13節でモーセはこれを「…聖なる住まいに伴われた」と言いました。聖別された民は紅海を歩いて行き、エジプト軍はおぼれて死にました。エジプト軍の戦車の車輪は、泥にはまって無力でしたが、聖別した民は、乾いた地を歩いて渡りました。同じ奇跡でも、その奇跡によって生きる人は生き、死ぬ人は死にます。   紅海というのは、出発点であってゴールではありません。まだ行くべき道は遠いのです。救いが完成するために、神様の救いの意志と計画が人生の中に満たさなければなりません。紅海の奇跡はすなわち荒野の始まりです。神様は私たちの救いのために荒野のただ中に私たちを導き出されます。Ⅰコリント10章2節でパウロはこのことを「…海の中で、モーセにつくバプテスマを受け」と述べました。紅海に入ったことを洗礼と表現したものです。紅海と洗礼の共通点は、選ばれ、聖別され、聖い道を歩き始めたというものです。   罪と共に生きる道の上では何が起こるか分かりませんが、世から離れ聖別した生き方をする信仰の旅を続けるなら、四面楚歌の危機に遭っても奇跡は必ず起こります。奇跡を祈る前に、自らが神様の道を歩んでいるのかを確認しなければなりません。信仰の道、聖別された道を行こうとする神の民には、今日も紅海は開かれています。

출애굽기 QT30 210508토【홍해가 갈라지는 시간】출애굽기 14장 15~31

출애굽기 14장 15~3114:15 여호와께서 모세에게 이르시되 너는 어찌하여 내게 부르짖느뇨 이스라엘 자손을 명하여 앞으로 나가게 하고14:16 지팡이를 들고 손을 바다 위로 내밀어 그것으로 갈라지게 하라 이스라엘 자손이 바다 가운데 육지로 행하리라14:17 내가 애굽 사람들의 마음을 강퍅케 할 것인즉 그들이 그 뒤를 따라 들어갈 것이라 내가 바로와 그 모든 군대와 그 병거와 마병을 인하여 영광을 얻으리니14:18…

出エジプト記 QT29 20210507金【黙れ、主が戦われる】出エジプト 14章 1~14

出エジプト記 14章 1~1414:1 主はモーセに告げられた。14:2 「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。14:3 ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。14:4 わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。14:5 民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」14:6 そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、14:7 選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。14:8 主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。14:9 エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。14:10 ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。14:11 そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。14:12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」14:13 モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。14:14 主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」   ファラオの心が変わり、イスラエルの後を追ってきました。映画『十戒』で戦車部隊を率いて出撃するユル・ブリンナーは堂々として素敵でした。しかし、イスラエルの民は追撃してくるエジプトの戦車部隊という状況に絶望し、モーセに嘆き、恨みました。ユル・ブリンナーのカリスマに比べると、イスラエルは情けないものでした。   支配者と被支配者の根性はしつこく続きます。十の災いでやられても、奴隷への未練を捨てられないファラオの貪欲は愚かなものであり、ようやくエジプトを出ましたが、危機の前で奴隷の生活に回帰しようとする、イスラエルの奴隷根性も愚かなことにおいては同じでした。支配しようとするものと支配されたいものが同じく愚かなのです。両方とも人間の尊厳について知らないからです。   神様は恨まれながらも、救いの働きを進められます。神様が選ばれた民は奴隷ではないからです。映画『十戒』を撮影する時、エジプト軍が協力したという話を聞いたことがあります。出エジプト記の中でイスラエルの敵はエジプト軍ではなく、変わらないイスラエルの奴隷根性です。荒野で40年間をさまよったのは、エジプト軍が追い続けて来たわけではなく、奴隷の衣を脱がなかったからです。   司馬遷の『史記』に、漢が楚と戦った時、楚の勢いは止まりませんでした。そこで漢が四方から楚の歌を歌ったという話があります。楚軍は楚の歌を聞いて家に帰りたくなって脱走し始めました。漢軍は脱走する楚軍を捕らえたり殺したりせず家に戻らせました。それで楚軍は烏合の衆になってしまいます。これが四面楚歌の由来です。四面楚歌の本来の意味は、到底抜け出せない状況を示しているのではなく、心が散らばってしまったという状況です。   目の前に海が横妨げられ、四方から惑わす楚歌が聞こえてくる、心が罪の奴隷に戻りたくなってしまうときは空を見上げます。「「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。13,14」人の絶望があるからこそ神は救いです。   信仰は霊的戦いです。引きさげる力があります。それを振り切って前進しなければなりません。ひどい罪と不信仰の奴隷になった根性から脱出しなければなりません。奴隷だったところから引き出し、生かし、背中を押してくださる方が、神様です。信仰はそれを知るこです。詩篇46篇は、出エジプトについてこう告白しました。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。46:10」