출애굽기 QT10 210415목【예배의 경제학】출애굽기 5장 1~14

출애굽기 5장 1~145:1 그 후에 모세와 아론이 가서 바로에게 이르되 이스라엘 하나님 여호와의 말씀에 내 백성을 보내라 그들이 광야에서 내 앞에 절기를 지킬 것이니라 하셨나이다5:2 바로가 가로되 여호와가 누구관대 내가 그 말을 듣고 이스라엘을 보내겠느냐 나는 여호와를 알지 못하니 이스라엘도 보내지 아니 하리라5:3 그들이 가로되 히브리인의 하나님이 우리에게 나타나셨은즉 우리가 사흘길쯤 광야에 가서 우리 하나님…

出エジプト記 QT9 20210414水【一致のための危機】出エジプト 4章 24~31

出エジプト記 4章 24~314:24 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。4:25 そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」4:26 すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。4:27 さて、主はアロンに言われた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。4:28 モーセは、自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、彼に命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。4:29 それからモーセとアロンは行って、イスラエルの子らの長老たちをみな集めた。4:30 アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。4:31 民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。   「一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた24」神様は突然モーセを殺そうとされましたが、その理由が何かについては説明がありません。モーセが死の危機をあうと、ツィポラは慌て「火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。まことに、あなたは私には血の花婿です。25」といいます。ツィポラが息子の包皮を切り取ったのは、割礼を行ったということであって、割礼というのは、つまりヘブル人のアイデンティティをいいます。   ですから、モーセが突然死の危機に置かれ、その時にツィポラが息子に割礼を行ったというのは、ヘブライ人のアイデンティティの問題をめぐって夫婦の間に葛藤があったということです。それまで、モーセが息子たちに割礼を行わなかったこと、そしてエジプトへの道でツィポラがあわてて息子の割礼を行ったのは、神様がモーセの家族に命じた使命にふさわしい一致したアイデンティティを求めておられるのです。   ツィポラは夫に付いてエジプトに向かっていますが、自分と子どもたちが安全の確保もないエジプトに行かなければならない理由が分かっていません。モーセが夫ということ以外にはツィポラにおいてエジプトもイスラエルも何の関係もないからです。この問題で葛藤している途中、神様がモーセを死の危機に攻め、それに気づいたツィポラが取り急ぎ、息子に割礼を行ったということです。そして告白します。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」すなわち私の夫は、割礼を受けたヘブライ人であり、私は彼の妻であり、私の息子も、ヘブライ人でありますという告白です。すると、モーセは死の危機から抜け出されました。   これをもってモーセ家はモーセのアイデンティティと使命の中で一つに一致され、ツィポラは、神様を経験するようになります。家庭の構成員が同じアイデンティティと方向を共有するということは与えられた使命のための先決課題です。モーセの妻は、ヘブライ人ではなく、ミデヤン出身ですから、最初からアイデンティティが一致していたわけではありません。しかし、神様はモーセの従順を通して家庭の一致を成し遂げられます。これは自然にできることでもなく、人の力でできることでもありません。先に信仰が起きあがり、聞き従い、身をささげるとき、神様によって周りは一つに一致されていきます。

출애굽기 QT9 210414수【일치를 위한 위기】출애굽기 4장 24~31

출애굽기 4장 24~314:21 여호와께서 모세에게 이르시되 네가 애굽으로 돌아가거든 내가 네 손에 준 이적을 바로 앞에서 다 행하라 그러나 내가 그의 마음을 강퍅케 한즉 그가 백성을 놓지 아니하리니4:22 너는 바로에게 이르기를 여호와의 말씀에 이스라엘은 내 아들 내장자라4:23 내가 네게 이르기를 내 아들을 놓아서 나를 섬기게 하라 하여도 네가 놓기를 거절하니 내가 네 아들 네 장자를…

出エジプト記 QT8 20210413火【安心して行きなさい】出エジプト 4章 18~23

出エジプト記 4章 18~234:18 そこでモーセは行って、しゅうとイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」イテロはモーセに言った。「安心して行きなさい。」4:19 主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」4:20 そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った。4:21 主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。4:22 そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。4:23 わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」   モーセはようやく行くべき道を心に決めました。家族を連れてミデヤンを離れ、エジプトへ行くために、まずしゅうとイテロの許可を受けようとします。ミデヤンの荒野でモーセは社会的にも経済的にも無能でした。そんなモーセにイテロはありがたい人でありましたし、頼れる存在でした。イテロにモーセは婿でしたが、自分の羊を飼っていた労働者でもありますし、モーセが離れると娘と孫たちも一緒にいなくなります。   ところがイテロは、モーセを送り出します。「イテロはモーセに言った。安心して行きなさい。」原文は、私たちに知られている言葉、シャローム(שָׁלוֹם)です。モーセの祝福はイテロの歓送から始まります。モーセが離れるとさっそくモーセが飼っていた羊の群れの面倒が大変になります。また何の保証もない険しい道に家族を行かせるということは心配ことですが、行くべき人を祝福して行かせることはいかに大切なことでしょうか。   自分の利益のために人をとらえる人々もいます。人を道具にする人です。そのような人は、必要がなくなれば人を捨てます。送る時に送り、その時には祝福して送り出します。それに失敗した人がヤコブのしゅうとです。ヤコブの労働力を搾取するために彼を縛り、送りませんでした。しかし、神様の祝福はラバンの欲に負けません。誰もヤコブの祝福を止めることはできませんでした。   イテロはモーセをエジプトに送りましたが、エジプトの王ファラオはイスラエルを送りませんでした。ファラオは送るべきときも知らなかったし、祝福して人を送ることも知りませんでした。人が道具と思っていたからです。問題はそこからです。ということで、エジプトとファラオは長子の死を迎えなければなりません。人間の欲は人を縛りますが、神様の計画は人を送り出します。   人間の欲が神様のご計画に打ち勝つことはできません。信仰の証拠は空の下でみなが同じであることを認めることです。家庭も教会も同しです。信仰によって起き上がらせ、使命によって送り出します。送る時には「シャローム」と祝福して送り出します。イテロがモーセ送りだしたから、イスラエルは神様の救いの使者を迎えることができたのです。

출애굽기 QT8 210413화【평안히 가라】출애굽기 4장 18~23

출애굽기 4장 18~234:18 모세가 장인 이드로에게로 돌아가서 그에게 이르되 내가 애굽에 있는 내 형제들에게로 돌아가서 그들이 생존하였는지 보려하오니 나로 가게 하소서 이드로가 그에게 평안히 가라 하니라4:19 여호와께서 미디안에서 모세에게 이르시되 애굽으로 돌아가라 네 생명을 찾던 자가 다 죽었느니라4:20 모세가 그 아내와 아들들을 나귀에 태우고 애굽으로 돌아가는데 하나님의 지팡이를 손에 잡았더라4:21 여호와께서 모세에게 이르시되 네가 애굽으로…

出エジプト記 QT7 20210412月【協力の賜物】出エジプト 4章 10~17

出エジプト記 4章 10~174:10 モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」4:11 主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」4:13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。4:15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。4:16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。4:17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」   神様は出エジプトのためにモーセを送ろうとしますが、モーセは頑なに拒みます。行きたくないということより、現実的に不可能だと考えていたからです。昨日の本文で、神様は杖を蛇に変え、再び蛇を杖にします。ヘビと杖というのは逆説です。杖は身を寄せているものですが、その杖が脅威的なヘビになり、ヘビは再び杖に変わるからです。神様はモーセに蛇の尾をつかむように言われます。ヘビをつかむときは頭をつかまなければなりません。尾をつかむと蛇が手を噛むからです。この逆説は神様の力を示すためです。神様は人の考えで不可能なことであってもそれを成し遂げる方であり、危険なことであっても、安全に守られる方です。   それでもモーセの確固たる信念は変わりません。モーセは自分が行けない理由として「口が重く、舌が重い」と言います。弁舌が優れてないないということです。口が上手な人もそうではない人も神様がお造りになりました。神様が言葉を預けるならできないことはないと言われますが、モーセはまだまだ自分の判断に閉じこもっています。モーセは、自分ではなく、他のより有能な人を送ってくださいと願います。神様は怒りましたが(14)ここでさらに具体的な代案を提示します。モーセの兄弟アロンが口が上手だからモーセが考え、アロンにしゃべらせるということです。   賜物を与えてくださる方は神様です。造られたのが神様であるため、人を神様の働きをにする際に才能や能力を与えることも神様の御業です。数多くの自己啓発書を読むことより、神様の働きに参加することが、自分を啓発するために最もよい機会なのです。よくできる人を見つけて用いるのではなく、召した人に相当する力を与えてくださいます。一人で羊飼いをしていたモーセが40年間、何百万人のイスラエルの民を導き、危機と混乱の状況の中で優れたリーダーシップを発揮したのは、神様がモーセのリーダーシップを用いたのではなく、モーセに相応しい力を与えてくださったからです。   モーセが言葉使いが鈍いと言いましたから神様はモーセに弁舌の賜物を与えればよかった。しかし、神様は弁舌のアロンをともにしてくださいました。神様の賜物を一人にすべて集中させるなら、最終的には何もできなくなります。賜物の中で最も良い賜物は協力の賜物です。さまざま神様からの賜物が神様の働きのために協力するのです。Ⅰコリントの手紙によると、賜物の中で最も優れた賜物は愛であります。愛がなければ良い賜物を受けたといしても活用できなくなります。多くの賜物を受けるよりさらに優れたことは、皆で一緒に働くことができる協力の賜物です。しかし、愛がなければ協力はできません。愛がなければ神様から受けた賜物と機会は死蔵してしまうのです。

출애굽기 QT7 210412월【동역의 은사】출애굽기 4장 10~17

출애굽기 4장 10~174:10 모세가 여호와께 고하되 주여 나는 본래 말에 능치 못한 자라 주께서 주의 종에게 명하신 후에도 그러하니 나는 입이 뻣뻣하고 혀가 둔한 자니이다4:11 여호와께서 그에게 이르시되 누가 사람의 입을 지었느뇨 누가 벙어리나 귀머거리나 눈 밝은 자나 소경이 되게 하였느뇨 나 여호와가 아니뇨4:12 이제 가라 내가 네 입과 함께 있어서 할 말을 가르치리라4:13 모세가…

出エジプト記 QT6 20210410土【わたしは『わたしはある』という者】出エジプト 3章 13~22

出エジプト記 3章 13~223:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。3:17 だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』3:18 彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。3:22 女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」   モーセがホレブ山で神様に会ったとき、神様はモーセをイスラエルを救うためにエジプトに戻らせようとしました。しかし、荒野で年を取ったモーセは、もう正義感に満ちた若気の青年モーセではありませんでした。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」自分の人生に自嘲がが混ざっています。「エジプトの王子であって、イスラエルを助けようとしたことで荒野の人生になった私が今になって何にができますか」ということです。   モーセが神様の名前を聞くと、神様は「わたしは『わたしはある』という者」と言われます。多くの学者たちが14節についての研究し、今も論争中です。「『わたしはある』(אהיה אשׁר אהיה)」という言葉は現在、未来とも解釈することもできます。英語翻訳の中で現在形に解釈したのが「I am who I am(私は私である)」であり、未来型に解釈したのが「I will be who I will be」です。未来になると、「私はなろうとするようになる私である」となります。   ですから未来に解析するとき、「私がどのような神なのかを将来に示す」という意味につながります。昨日本文の最後の部分を参考にするそ、11節の「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」という11節のモーセの質問に対して、神様は12節で「わたしが、あなたとともにいる。…」と言われました。それでも躊躇していたモーセに対して神様は「『わたしはある』(אהיה אשׁר אהיה)」すなわち「私は私である」もしくは「私はなろうとするようになる私である」ということを繰り返して強調しているのです。   多くの人が自分を無神論者であると紹介しますが、現代の無神論は、自然に生まれたものはありません。無神論の根拠は神がいないということを確認したものではありません。科学と理性主義の中で生まれた人の考えです。宗教は人が作ったと言いますが、無神論という考え方こそ人が作ったものです。近代以前のどんな世界であっても、無神論というものは存在しません。   有神論と無神論をつなぐ歴史的な契機となったのが、18世紀の啓蒙主義の「理神論」です。理神論は、少なくとも創造主なる神を認めました。しかし、神様はこの世と別個に存在するため、世界に介入しないと思いました。「私は私である(I am who I am)」を認めましたが、「私はなろうとするようになる私である(I will be who I will be)」を信じようとしませんでした。ですから目に見えるものだけを信じ始めた人々の末裔が、いわゆる無神論者です。   「『わたしはある』(אהיה אשׁר אהיה)」がもう以上は起源をさかのぼることができない神様の存在の名前なのか、それとも現在から未来につながって伴い、成し遂げられる神様を意味するものかについては一概に定められません。しかし、どのような場合であっても、モーセがエジプトに行かない理由はなくなりました。神様は創造され、今も世界に介入し、伴います。歴史の主人公は神様です。出エジプト記を読んでいくうちにその証拠を見つけるようになります。神様は自らおられる方であって、今ここで伴い、御業を達成される方です。

출애굽기 QT6 210410토【나는 스스로 있는 자니라】출애굽기 3장 13~22

출애굽기 3장 13~223:13 모세가 하나님께 고하되 내가 이스라엘 자손에게 가서 이르기를 너희 조상의 하나님이 나를 너희에게 보내셨다 하면 그들이 내게 묻기를 그의 이름이 무엇이냐 하리니 내가 무엇이라고 그들에게 말하리이까3:14 하나님이 모세에게 이르시되 나는 스스로 있는 자니라 또 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 스스로 있는 자가 나를 너희에게 보내셨다 하라3:15 하나님이 또 모세에게 이르시되 너는…

出エジプト記 QT5 20210409金【あなたの履き物を脱げ】出エジプト 3章 1~12

出エジプト記 3章 1~123:1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。3:2 すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」3:4 主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」   時間は流れてモーセは長い間、自分の仕事を持たず、羊を飼う者として生活していました。王子だった時代の記憶はあやふやです。モーセのプライドが完全に消え去ったとき、神様は彼の前に現れました。人間の挫折は神への望みと同時進行です。人間に対して絶望するときに、神様に対する希望が始まります。神様はモーセに、「あなたの履き物を脱げ」と言われました。古代近東において靴を脱ぐということは、自分が奴隷であることを認め、服従することを表します。   YWAM(国際ユース・ウィズ・ア・ミッション)を設立したローレン・カニンガム牧師は、成功的に牧会をしていましたが、宣教会を設立するために長い間付き合った教団と教会を辞任しました。より大きな教会から招聘もありましたが、それを辞退し、大金を稼げるビジネスの機会も断りました。ローレン牧師は宣教会を開拓するために、妻のダリンと一緒にアリゾナからカリフォルニアに向かいました。その道で大きい交通事故に遭ってしまいます。目が覚めると、砂漠の中であって妻ダリンは、もうすでに息が止まっていました。   その時、神様の声が聞こえます。「ローレン、これでも私に従うのか?」その瞬間、ローレンは今朝の本文の「あなたの履き物を脱げ」ということの意味が分かった証します。ローレンは答えました。「はい。主よ、それでも主に仕えます。今、私の人生に残ったのはもうこの命しかありません。これも主が望むならば引き取って行かれます。」   そう約束してから、ふと見ると、妻の息が戻ってきました。ローレン牧師は宣教会を始めてこれまで全世界に2万人近くの宣教師を派遣しました。この証を読んだ本の名前が「あなたの履き物を脱げ」です。燃える炎の柴の茂みの中でモーセは履き物を脱ぎました。出エジプトの救いは、神様がなさる御業です。ただ、履き物を脱ぐ人を通して行われます。