마태복음 QT71 210403토【예수님의 장례】마태 27장 57~66

마태 27장 57~66 27:57 저물었을 때에 아리마대 부자 요셉이라 하는 사람이 왔으니 그도 예수의 제자라27:58 빌라도에게 가서 예수의 시체를 달라 하니 이에 빌라도가 내어주라 분부하거늘27:59 요셉이 시체를 가져다가 정한 세마포로 싸서27:60 바위 속에 판 자기 새무덤에 넣어두고 큰 돌을 굴려 무덤 문에 놓고 가니27:61 거기 막달라 마리아와 다른 마리아가 무덤을 향하여 앉았더라27:62 그 이튿날은 예비일…

マタイによる福音書 QT70 20210402金【本当に神の子であった】マタイ 27章 45~56

マタイ 27章 45~5627:45 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。27:47 そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」27:48 そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。27:49 ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。27:50 しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。27:53 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。27:54 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」27:55 55また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。27:56 その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。   イエス様が十字架につけられた時間は、午前9時で、午後1時からは、全地に闇が臨み、午後3時まで続きました。イエス様はエリ、エリ、ラマサバクタニと言われた後、息を引き取られました。罪がないのになくなったのではありません。罪を担って死なれました。午後に襲われた全地の暗闇がを通じて、イエス様が十字架の上で背負った人間の罪の重さがどのようなものだったのか思わされます。   神殿の幕が上から下に真っ二つに裂かれたのは不要な仕切りが取り除かれたということです。隔ての壁を打ち壊されました至聖所に入ることができるようになりました。以前は、祭司のみでしたが、今はすべてに人に開かれています。すなわちすべての人が祭司となって至聖所に入り、神様を礼拝することができるようになったということです。   原理は同じです。礼拝しようと思ったら血を流し、贖わなければなりません。礼拝するためには贖いのいけにえが必要です。犠牲をささげず礼拝することはできません。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。犠牲の資格と条件を備えたのは、汚れも、傷もなく、その口には欺きもなかったイエス・キリストしかおられません。イエス・キリストが世の罪を取り除く神の子羊だからです。礼拝する者は、イエスの血を携えなければなりません。   ということで、イエス・キリストを信じることを確証しなければ、礼拝は不可能です。イエス・キリストを信じる信仰の確証というのは告白です。十字架の現場で死刑を執行していた軍人たち、つまりイエス様を殺した人々は、彼が神の子であることを最初に告白しました。   逆説的ですが、イエス様を十字架につけ、殺したことを認めている人がイエス・キリストを神の子であると認めています。十字架の釘は、ローマの兵士がつけたのではなく、私の罪がたたきこんだのです。その事実を知り、認める人は、イエス様が神の子であることを告白することができます。それで今や礼拝する準備ができました。    

마태복음 QT70 210402금【진실로 하나님의 아들이었도다】마태 27장 45~56

마태 27장 45~56 27:45 제 육시로부터 온 땅에 어두움이 임하여 제 구시까지 계속하더니27:46 제 구시 즈음에 예수께서 크게 소리질러 가라사대 엘리 엘리 라마 사박다니 하시니 이는 곧 나의 하나님, 나의 하나님, 어찌하여 나를 버리셨나이까 하는 뜻이라27:47 거기 섰던 자 중 어떤이들이 듣고 가로되 이 사람이 엘리야를 부른다 하고27:48 그 중에 한 사람이 곧 달려가서 해융을…

マタイによる福音書 QT69 20210401木【十字架につけられたイエス】マタイ 27章 27~44

マタイ 27章 27~4427:27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。27:28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。27:29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。27:30 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。27:31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。27:32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。27:33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。   ピラトは群衆の要求に応じて、バラバを釈放し、イエス様をむち打ちにした後、十字架の処刑に渡しました。人間的に思えば、悔しいことですが、これで神様の御業は決定的に成し遂げられていきます。   イエス様は十字架につけられてから絶えず十字架から降りてきなさいという声を聞かれました。十字架に付けられているイエス様を嘲ったのは、サタンの悪賢い誘惑です。しかし、イエス様が十字架から降りたなら、それこそ王であり、キリストであるご自身を自ら放棄することになります。   映画『パッション オブ クライスト』でイエス様が十字架で息を止めたとき、サタンが深いところに落ち、悲鳴を上げる場面があります。イエス様が十字架で死ぬということは、人間の罪の鎖で縛ろうとするサタンの完全な敗北を意味するからです。十字架は神様の勝利であると同時にサタンの敗北です。   しかし、サタンはまだ働いています。イエス様を十字架の下に引き下ろすことには失敗しましたが、その十字架を信じることを恥じと思わせ、その十字架を負って従うことを面倒なことと思わせ、使命による苦難を恐がらせて、人々をだまします。イエスの十字架という勝利がありますが、目を覆い、それを見ないようにさせます。イエスの十字架という勝利がありますが、その十字架に伴う信仰はまだ戦争中なのです。

마태복음 QT69 210401목【십자가에 달리신 예수】마태 27장 27~44

마태 27장 27~44 27:27 이에 총독의 군병들이 예수를 데리고 관정 안으로 들어가서 온 군대를 그에게로 모으고27:28 그의 옷을 벗기고 홍포를 입히며27:29 가시 면류관을 엮어 그 머리에 씌우고 갈대를 그 오른손에 들리 고 그 앞에서 무릎을 꿇고 희롱하여 가로되 유대인의 왕이여 평안할지어다 하며27:30 그에게 침 뱉고 갈대를 빼앗아 그의 머리를 치더라27:31 희롱을 다한 후 홍포를 벗기고…

マタイによる福音書 QT68 20210331水【ピラトの裁判】マタイ 27章 11~26

マタイ 27章 11~2627:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」27:12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」27:14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。   ピラトはイエス様に罪がないことを知っていたのでイエスを過越の祭りに特別赦免しようと考えました。ピラトはユダヤの宗教指導者たちがイエス様を告訴したのが、妬みと嫉妬のためであることを知っていましたが、扇動された世論の圧力のゆえに、十字架の処刑という政治的な選択をしました。選択は自分がしましたが、責任は自分にないと宣言しました。彼の言葉通り、彼は裁判官として無責任な宣言をしたわけであります。   イエス様は終始一貫、無罪のための何の弁護もせずに沈黙しました。まるで有罪判決を受けなければならな人のように、怒りと殺意に抵抗しませんでした。イエス様は、自分の無罪を証明しようとされたのではなく、神の子を殺そうとしている多くの罪人の罪を担う使命を証明されました。イエス様を殺そうとする人々の狂気が大きければ大きいほど、イエス様はさらに沈黙ました。   あなたユダヤ人の王なのかというピラトの質問にイエス様は、「あなたがそう言っています」と答えたものが全部です。偽りとむりやりの告訴に対しては沈黙ましたが、王的身分については、群衆の怒りに油を注ぐ結果であることが確かでありながら、答えたのです。それは、大祭司の家での尋問でも同じでした。あきらめられないこと、退くことができないこと、言わざるを得ないことは、イエス様が神の子であり、治める王であり、救うキリストであるという真実です。   人々の声の中でイエス様を弁護する声はありませんでした。イエス様に罪はありませんという真実の声は聞こえません。叫んいる群衆から、イエス様よりも大きい沈黙を出会います。真実を言わずに良心を隠します。世は変わってないでしょう。良心を騙し、真実を言わず、自分のために声を出します。ピラトの法廷のような世の中で、教会は沈黙してはなりません。イエス様が神の子であり、われら治める王であり、罪びと救うキリストである真実を言わなければなりません。

마태복음 QT68 210331수【빌라도의 재판】마태 27장 11~26

마태 27장11~26 27:11 예수께서 총독앞에 섰으매 총독이 물어 가로되 네가 유대인의 왕이냐 예수께서 대답하시되 네 말이 옳도다 하시고27:12 대제사장들과 장로들에게 고소를 당하되 아무 대답도 아니하시는지라27:13 이에 빌라도가 이르되 저희가 너를 쳐서 얼마나 많은 것으로 증거하는지 듣지 못하느냐 하되27:14 한마디도 대답지 아니하시니 총독이 심히 기이히 여기더라27:15 명절을 당하면 총독이 무리의 소원대로 죄수 하나를 놓아 주는 전례가…

マタイによる福音書 QT67 20210330火【ユダの死】マタイ 27章 1~10

マタイ 27章 1~1027:1 さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。27:2 そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。27:3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。27:4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」27:5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。27:6 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」27:7 そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。27:8 このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。27:9 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。27:10 主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」   ペテロの話しとユダの話しは十字架を前にして並列的に記述されています。マタイの編集の意図は、この二人の出来事を比較しているようです。ペテロの後悔は、消極的なもので涙を流すだけであって、意志的決断や改心のようなものはありませんでした。自分の過ちを痛感しましたが、それでも恐れのせいで意志的な宣言も行動も何もできませんでした。   一方、ユダの場合は、意志的に、イエス様を売りましたが、また、意志的にお金を返そうとしました。イエス様を売って受け取ったお金は、銀貨30シェケル。ユダはそれを返そうとしましたが、大祭司は受け取らなかったので、ユダはそれを神殿に投げ入れ、自ら死んでしまいます。すべてが一方的です。生きようとする悔い改めではなく死のうとする自虐であると同時に放棄でした。   銀貨30シェケルには二つの意味があります。イエス様を売って受け取ったお金という意味と犯した罪を赦される福音という機会を拒否してしまったお金という意味です。裏切ったペテロは、十字架の恵みによって福音の伝道者となりましたが、ユダは自分自身を放棄しました。ペテロは後悔の中で十字架の福音を発見しましたが、ユダは最後まで十字架の福音に気付かずにあきらめてしまいました。   消せない罪を犯したのではなく、罪を洗うことができる方法を知らなくて自ら放棄したのです。銀貨30シェケルでイエス様を売り、またそのお金で福音を代わりにしました。イエス様の価値が銀貨30シェケルにあるわけがないように、返した30シェケルに贖罪の価値があるわけがありません。十字架の福音の前で最も悪い罪というのは、間違うこと、倒れることではなく、神様の恵みを自ら制限すること、それによって自分自身を放棄することです。  

마태복음 QT67 210330화【유다의 죽음】마태 27장 1~10

마태 27장 1~10 27:1 새벽에 모든 대제사장과 백성의 장로들이 예수를 죽이려고 함께 의논하고27:2 결박하여 끌고 가서 총독 빌라도에게 넘겨주니라27:3 때에 예수를 판 유다가 그의 정죄됨을 보고 스스로 뉘우쳐 그 은 삼십을 대제사장들과 장로들에게 도로 갖다 주며27:4 가로되 내가 무죄한 피를 팔고 죄를 범하였도다 하니 저희가 가로되 그것이 우리에게 무슨 상관이 있느냐 네가 당하라 하거늘27:5 유다가…

マタイによる福音書 QT66 20210329月【ペテロの裏切り】マタイ 26章 69~75

マタイ 26章 69~75 26:69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」26:70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。26:71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」26:72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。26:73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」26:74 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。26:75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。   マタイの福音書の主人公はここでしばらく変わります。イエス様は登場せず、ペテロが主役になりますが、テーマはまさに裏切りです。ペテロは、身の安全を確保するために三度、イエス様を知らないと答えます。注目したいのは、その程度が最初は「否定」、その後は「誓い」となり、最後は「呪い」になっていくという点です。偽りを貫くためにイエス様を呪ってしまいました。   誰でもイエス様を裏切ることができます。しかし、教会に失望したとか、自分の信仰が足なかったとかなどの言葉は、自己憐憫のゆえに美化したことにすぎません。イエス様を裏切る唯一の理由は、自分のためです。ユダの場合も、ペテロの場合も、パリサイ人や祭司やピラトの場合も、殺しなさいと叫んだ群衆の場合も同じです。   イエス様は私のために血を流しに行きますが、イエス様のために涙一滴、汗一滴も流せない利己的なのが、人間だからです。それでもイエス様は失望されなかったでしょう。なぜなら、人間というのは自己愛に満ちた希望のない利己主義者であることを知っておられるからです。それが罪であり、それに代わって十字架にかけられたのです。赦しのための十字架を裏切っているペテロの裏切りのパラドックスが悽絶です。   「ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。75」泣いているペテロに必要なのは、励まし、慰めにではなく、さらなる涙です。もっと泣かなければありません。ペテロは、夜明けの鶏が泣くたびにこのことが思い出され、庭に出ていて泣いていたと伝われますが、それも仕方がないことです。記憶に残っている後悔までも洗うことはできないからです。   一滴の血も残さず、すべて流されて死なれたイエス様の十字架の上で、裏切り者の涙さえ免除するなら、回復の道はありません。安っぽい赦しと励しは魂を救うことができません。それらはお金さえあれば、世からでも手に入れるようなものです。ペテロは悔恨の涙の中で福音が何であるかを発見したのです。