마태복음 QT9 20210121목【회복된 사람】마태5장 17~26

마태5장 17~265:17 내가 율법이나 선지자나 폐하러 온 줄로 생각지 말라 폐하러 온 것이 아니요 완전케 하려 함이로다5:18 진실로 너희에게 이르노니 천지가 없어지기 전에는 율법의 일점 일획이라도 반드시 없어지지 아니하고 다 이루리라5:19 그러므로 누구든지 이 계명 중에 지극히 작은 것 하나라도 버리고 또 그같이 사람을 가르치는 자는 천국에서 지극히 작다 일컬음을 받을 것이요 누구든지 이를 행하며…

マタイによる福音書 QT8 20210120水【悲しむ者は幸いです】マタイ5章 1~16

マタイ5章 1~165:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。   マタイ5章から山上の垂訓が始められ、7章まで続きます。本文には八つの「幸いです」が繰り返します。「幸いになろう」ではなく、「幸いです」ですから、付け加えるべき幸いの条件ではなく、既に存在している幸いを宣言しているのです。   この幸いは、貧しい者と悲しむ者から始まります。人生が追い求める物質的な幸福とはまったく違います。苦しまなければならないこと、その苦労を通じた内面の成熟がの幸いの状態なのです。「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、 義のために迫害されている者です。」です。   八つの幸いを1ページにまとめることはできません。今日は第2の幸いである「悲しむ者の幸い」について考えます。イエス様が伝えてくださった良い知らせ、つまり十字架の愛が私たちの罪を赦し、救ったということを私たちは「福音」と呼びます。ところが、それが福音になるには、十字架より、復活より、天国よりも先に前提されなければならないのが自分の「罪」の自覚であり、それらの認めることです。その後に悲しくなります。それが悲しむ者です。   ですから幸いがあって慰められる人は、信仰心に満ちて、自信満々な人ではなく、欠乏し、不完全のゆえに悲しんでいる人です。そのような人が神様が与える慰めを受ける人です。救われたと言いながら、自信感に満ちているならそれは「救われた」に矛盾するのではないしょうか。救われた者にふさわしい感情や態度は、感謝と謙虚でしかありません。   韓国の詩人、尹東柱の「八つの幸い」という時には「マタイ5章4節」というサブタイトルがついています。「悲しむ者は幸いです。」を8回繰り返し、最後に「その人は永遠に悲しむのです。」と言って終わります。   「八つの幸い」の聖書的な理解がなければ、尹東柱の『八つの幸い』は厭世的に感じられるかもしれません。尹東柱は、自分が生きていた時代の感情を代弁して「八つの幸い」の中の「悲しみ」を代表としました。   これは悲しむ者が幸いであるなら、永遠に悲しむ者は永遠の幸いがあるという逆説にもなります。そして裏返し言えば、永遠に幸いを受けるためには、永遠に悲しまなければなりません。永遠というのは私たちが理解できる概念ではないのですが、永遠と最も似ているのは「今」であると思います。   信仰を持っていますが、罪による悲しみが完全に消えることはありません。しかし、その悲しみの上に神様の慰めを受ける者は幸いです。それを続きたいです。私たちの心を悲しませることを通して神様から慰められる人はを祝福ある人です。  

마태복음 QT8 20210120수【슬퍼하는 자는 복이 있나니】마태5장 1~16

마태5장 1~165:1 예수께서 무리를 보시고 산에 올라가 앉으시니 제자들이 나아온지라5:2 입을 열어 가르쳐 가라사대5:3 심령이 가난한 자는 복이 있나니 천국이 저희 것임이요5:4 애통하는 자는 복이 있나니 저희가 위로를 받을 것임이요5:5 온유한 자는 복이 있나니 저희가 땅을 기업으로 받을 것임이요5:6 의에 주리고 목마른 자는 복이 있나니 저희가 배부를 것임이요5:7 긍휼히 여기는 자는 복이 있나니 저희가 긍휼히…

マタイによる福音書 QT7 20210119火【わたしについて来なさい】マタイ4章 12~25

マタイ4章 12~254:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。4:18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。   マタイの福音書は時間の流れに沿って記述された本ではありません。イエス様が荒野での試みを受けた後、時間が経過しました。その間、バプテスマのヨハネは牢屋に閉じ込められます。その背景には、ヨハネの福音書の方が詳しく述べています。領主ヘロデが弟の妻ヘロデヤを取ったことを批判したことで、権力を欲しがっていたヘロデヤがヘロデにヨハネを殺すことを願ったからです。   イエス様はその時から疎外された辺境、イスラエル北部に移動して、公生涯を始めます。ヨハネが荒野で悔い改めを促し、天の国を説教したように、イエス様も辺境で悔い改めと天の御国を伝えます。ヨハネの働きもイエスの働きも改革を始めたことでした。   改革は、エルサレムとローマで始まったものではなく、ナザレとガリラヤから始まって、エルサレム、ローマと広がっていきました。磁石が荒野と辺境に置かれていても磁場の影響を受けたのはみな磁石の周りに集まってきます。神様が選んだ民はみな救いを受けるでしょう。まるで磁石にしがみつきようにイエス様に従った人の話しが続いて出てきます。   イエス様はガリラヤ湖のほとりで魚をとる漁師たちを弟子として呼ばれました。マタイの記述を読めば、ペテロとアンデレの兄弟、そして共同経営者のヤコブとヨハネの兄弟が召されましたが、たちまちすべてを置いて従うことがわかります。網も船も捨て、父も捨て、イエス様についていきます。   何かに憑かれたようについて行きますが、この背景についてはルカが詳細に伝えます。彼らがイエス様について行ったのは魚をとれなかったからではなく、むしろ魚をとれたからです。魚をとることができなかった無能な彼らに魚をとることができるような根源的な力が現れましたが、それがイエス様のみ言葉だったからです。   ということで彼らがイエス様を従った後、海辺には網と船だけではなく満船になった魚も残されました。それらを惜しげもなく捨てたのは、彼らがすでに磁石に導かれていたからです。磁石に長くくっ付いている鉄は磁力ができ、また、自分の磁場を形成していきます。   個人的には22節が描くことが悲しいと思いました。風の海に一人として残された父…イエス様は捨て従うようにしましたし、彼らは捨てていきました。しかし、イエス様は彼らの家族を捨てませんでした。戻ってペテロの義母の熱をおさめ。癒してくださったし、ヤコブの母も、イエス様に従う人になりました。   神様の召しは磁石のようです。磁石の磁は、仁慈の慈から生まれました。鉄を引き寄せる磁石がまるで母親が子を抱く慈しみを思い起こさせるということで磁石になりました。   船と魚があれば家庭の経済力は守れるかもしれませんが、それを捨てる献身は、家族を救うことになりますた。捨てるとこによってとるというのは逆説です。皆が恵みを求めますが、献身しなければ、その恵みを体験することができないかもしれません。   神様の恵みと人の献身をもって取り引きをするつもりではありません。恵みと献身は、本質が同じではありませんか?漁を取っていた漁師たちがイエス様に従うようになったのは、献身であるし、同時に恵みでもありました。

마태복음 QT7 20210119화【나를 따라 오너라】마태4장 12~25

마태4장 12~254:12 예수께서 요한의 잡힘을 들으시고 갈릴리로 물러 가셨다가4:13 나사렛을 떠나 스불론과 납달리 지경 해변에 있는 가버나움에 가서 사시니4:14 이는 선지자 이사야로 하신 말씀을 이루려 하심이라 일렀으되4:15 스불론 땅과 납달리 땅과 요단강 저편 해변 길과 이방의 갈릴리여4:16 흑암에 앉은 백성이 큰 빛을 보았고 사망의 땅과 그늘에 앉은 자들에게 빛이 비취었도다 하였느니라4:17 이 때부터 예수께서 비로소…

マタイによる福音書 QT6 20210118月【サタンは誘惑はどのように来るのか】マタイ4章 1~11

マタイ4章 1~114:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。   悪魔がイエス様を試みましたが、それを受けた場所は荒野であり、荒野に導いたのは御霊です。イエス様が受けた誘惑というのは今の私たちにおいても変わらず脅威的な誘惑であります。聖霊は、悪魔の力を根本的に取り除くのではなく、悪魔の策略を知らせ、それから打ち勝つことができるように霊的な耐性に養います。   最初の誘惑は、石をパンにすることです。悪魔は一番弱いところを狙います。40日間の断食で飢えを覚えているイエス様に食べものの誘惑は致命的なものです。イエス様が石をパンにするとしたら、先にご自分の当面の飢えを解決することになります。悪魔が、まずイエス様が自分のために食べることによって、イエスをパンで生きるものにしたいという試みです。   空腹であるなら食べものを切に求めるし、満腹になったらよりよい美味しいものが食べたいという貪欲が起こります。歴史上、今のような消費時代はありませんでした。消費中毒の人々は、お金を使えないということに深刻な不安を感じています。食べものの確保、経済戦争が、人生の唯一の目的になってしまったのは久しいことです。   経済力を持てという悪魔に向かって、イエス様は、人間は経済力のみで生きるのではなく人間らしく生きるものであって、それは神様の御言葉を通して、人間の本来にあるべき姿を回復し、目指すべき目的を見つけることだと答えられました。   最初の試みがお金のことであったなら、第二の試みは、力の誘惑です。神殿という場所はへりくだった人間が神様を礼拝するための場所です。悪魔は、イエス様を、その神殿の頂に立たせ、スーパーマンのように飛び降り、自分の能力を誇るようにと誘惑します。   超越を追い求める信仰は、現実と乖離した神秘主義を生み出します。教会は力を追い求め、それを誇るところではありません。教会の上に掲げている十字架が大きくなればなるほど、それは宗教の力が大きくなっていくのではなくて、悲惨な人間に与えられた神様の恵みが大きくなるということを覚えなければなりません。   第三の試みは、この世のすべての王国とその栄華を与えるという悪魔のうそです。すべての王国とその栄華とうことも実際、悪魔のものでもありません。無断に持ち主ふりをするだけですが、悪魔は自分にひれ伏し、拝むなら世界と栄光を与えると言うのです。悪魔にひれ伏し、拝む人はいません。しかし、世とそれがもたらす栄光に膝をまずくす人は大勢います。その栄光に心を奪われること、それがすなわち悪魔にひれ伏し、拝むということです。   イエス様はこれらの誘惑に対して、人はパンで生きることではなく、神様の口から出る言葉によって生きると答えられ、神様を試みないようた答えられ、ただ神様のみ礼拝するように答えられした。悪魔の試みはすべて聖書的な根拠を持っていますが、すべて文脈を考慮していない恣意的かつ断片的な根拠でした。   神様の御言葉は切り取って財布に収めるお守りではなく、年明けのくじ引きで当たる宝くじでもありません。文脈と状況の中で言葉の意図と目的を理解し、その精神を聖徒の生活の価値観にするのです。神様の御言葉によって人生の態度と求める価値が変わるなら、それがまさに最大の神秘であり、力ではないでしょうか。  

마태복음 QT6 20210118월【마귀의 유혹은 어떻게 오는가】마태4장 1~11

마태4장 1~114:1 그 때에 예수께서 성령에게 이끌리어 마귀에게 시험을 받으러 광야로 가사4:2 사십 일을 밤낮으로 금식하신 후에 주리신지라4:3 시험하는 자가 예수께 나아와서 가로되 네가 만일 하나님의 아들이어든 명하여 이 돌들이 떡덩이가 되게 하라4:4 예수께서 대답하여 가라사대 기록되었으되 사람이 떡으로만 살것이 아니요 하나님의 입으로 나오는 모든 말씀으로 살 것이라 하였느니라 하시니4:5 이에 마귀가 예수를 거룩한 성으로…

한국어 예배 (2021-01-17)

히브리서 4:12-1312 하나님의 말씀은 살았고 운동력이 있어 좌우에 날선 어떤 검보다도 예리하여 혼과 영과 및 관절과 골수를 찔러 쪼개기까지 하며 또 마음의 생각과 뜻을 감찰하나니13 지으신 것이 하나라도 그 앞에 나타나지 않음이 없고 오직 만물이 우리를 상관하시는 자의 눈 앞에 벌거벗은 것 같이 드러나느니라

日本語礼拝 (2021-01-17)

ヘブル人への手紙 4:12-1312 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

マタイによる福音書 QT5 20210116土【悔い改めにふさわしい実】マタイ3章 1~10

マタイ3章 1~103:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。   バプテスマのヨハネが荒野に叫ぶ者として登場した時、イスラエルの宗教は植民地政府の下手人になって社会的利益を維持していました。ヨハネは「まむしの子」という厳しい言葉で彼らを批判しました。ヨハネは「悔い改めなさい」ではなく、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」といいました。口ではなく、観念でもなく、実践して悔い改めの証拠を示すということです。示すためのものであれば本当の悔い改めではないかもしれませんが、本当に悔い改めているなら必ず変化があるからです。   バプテスマのヨハネの叫びについては、ルカの方がはマタイより具体的に述べています。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」服を二着以上持ってはいけないということではないです。周りに貧しい人々の裸を見ながら、より良いもの、より多くのことをむさぼることに対する戒めです。社会は経済的な弱者の権利を分配する必要があります。   「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。」公権力を用い、国民を怖がらせずに法を利用し、不当に国民のことを奪うず、それを権力と利益の道具として使わないという言葉です。「自分の給料で満足しなさい。」正当な報酬のほか、他の不正な利益を取ってはいけないことです。   すべて礼拝堂の外で起こることです。ヨハネの説教の対象というのは、社会と宗教が分離されていません。いずれの場合も、宗教は社会と分離されません。いや、宗教は社会に必ず属し、その社会をリードしなければなりません。社会的な責務において宗教が例外になることがありません。   韓国では伝染病予防のために教会の集会が強制的に禁止され、教会が困難を覚えています。それは教会だけではありません。この時代に生きる誰もが同じです。それに対して宗教弾圧、教会破壊という利己的な宗教、幼稚的な独善を言う人たち見ながら絶望感に陥らざる得ないです。神様の御言葉は読まず、自分たちの利益のみを黙想するから、教会が間違った場方向に走っているのです。   アウグスティヌスの信仰に大きな影響を与えたというアンブロシウスは、皇帝がミラノ大聖堂に入ろうとしていたときに、教会も天国も悔い改めていない人は、入ってはいけませんと言って、悔い改めてない皇帝が教会に入らないようにしたという話があります。それは皇帝の道徳的反省を求めたことではなく、王であるなら定義と公平を決断し、それを政治に反映、実行するようにという社会的な求めでした。   「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』3」主の道を用意し、その道をまっすぐにすることに参加したい聖徒がいますか?彼らはより広い神学的な主題と、その解釈と実践を行われなければなりません。それこそが人生の価値と信仰の価値が分離されず、一つとして一元化していくことだと思います。