마태복음 QT6 20210118월【마귀의 유혹은 어떻게 오는가】마태4장 1~11

마태4장 1~114:1 그 때에 예수께서 성령에게 이끌리어 마귀에게 시험을 받으러 광야로 가사4:2 사십 일을 밤낮으로 금식하신 후에 주리신지라4:3 시험하는 자가 예수께 나아와서 가로되 네가 만일 하나님의 아들이어든 명하여 이 돌들이 떡덩이가 되게 하라4:4 예수께서 대답하여 가라사대 기록되었으되 사람이 떡으로만 살것이 아니요 하나님의 입으로 나오는 모든 말씀으로 살 것이라 하였느니라 하시니4:5 이에 마귀가 예수를 거룩한 성으로…

한국어 예배 (2021-01-17)

히브리서 4:12-1312 하나님의 말씀은 살았고 운동력이 있어 좌우에 날선 어떤 검보다도 예리하여 혼과 영과 및 관절과 골수를 찔러 쪼개기까지 하며 또 마음의 생각과 뜻을 감찰하나니13 지으신 것이 하나라도 그 앞에 나타나지 않음이 없고 오직 만물이 우리를 상관하시는 자의 눈 앞에 벌거벗은 것 같이 드러나느니라

日本語礼拝 (2021-01-17)

ヘブル人への手紙 4:12-1312 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

マタイによる福音書 QT5 20210116土【悔い改めにふさわしい実】マタイ3章 1~10

マタイ3章 1~103:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。   バプテスマのヨハネが荒野に叫ぶ者として登場した時、イスラエルの宗教は植民地政府の下手人になって社会的利益を維持していました。ヨハネは「まむしの子」という厳しい言葉で彼らを批判しました。ヨハネは「悔い改めなさい」ではなく、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」といいました。口ではなく、観念でもなく、実践して悔い改めの証拠を示すということです。示すためのものであれば本当の悔い改めではないかもしれませんが、本当に悔い改めているなら必ず変化があるからです。   バプテスマのヨハネの叫びについては、ルカの方がはマタイより具体的に述べています。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」服を二着以上持ってはいけないということではないです。周りに貧しい人々の裸を見ながら、より良いもの、より多くのことをむさぼることに対する戒めです。社会は経済的な弱者の権利を分配する必要があります。   「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。」公権力を用い、国民を怖がらせずに法を利用し、不当に国民のことを奪うず、それを権力と利益の道具として使わないという言葉です。「自分の給料で満足しなさい。」正当な報酬のほか、他の不正な利益を取ってはいけないことです。   すべて礼拝堂の外で起こることです。ヨハネの説教の対象というのは、社会と宗教が分離されていません。いずれの場合も、宗教は社会と分離されません。いや、宗教は社会に必ず属し、その社会をリードしなければなりません。社会的な責務において宗教が例外になることがありません。   韓国では伝染病予防のために教会の集会が強制的に禁止され、教会が困難を覚えています。それは教会だけではありません。この時代に生きる誰もが同じです。それに対して宗教弾圧、教会破壊という利己的な宗教、幼稚的な独善を言う人たち見ながら絶望感に陥らざる得ないです。神様の御言葉は読まず、自分たちの利益のみを黙想するから、教会が間違った場方向に走っているのです。   アウグスティヌスの信仰に大きな影響を与えたというアンブロシウスは、皇帝がミラノ大聖堂に入ろうとしていたときに、教会も天国も悔い改めていない人は、入ってはいけませんと言って、悔い改めてない皇帝が教会に入らないようにしたという話があります。それは皇帝の道徳的反省を求めたことではなく、王であるなら定義と公平を決断し、それを政治に反映、実行するようにという社会的な求めでした。   「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』3」主の道を用意し、その道をまっすぐにすることに参加したい聖徒がいますか?彼らはより広い神学的な主題と、その解釈と実践を行われなければなりません。それこそが人生の価値と信仰の価値が分離されず、一つとして一元化していくことだと思います。  

마태복음 QT5 20210116토【회개에 합당한 열매】마태3장 1~10

마태3장 1~103:1 그 때에 세례 요한이 이르러 유대 광야에서 전파하여 가로되3:2 회개하라 천국이 가까왔느니라 하였으니3:3 저는 선지자 이사야로 말씀하신 자라 일렀으되 광야에 외치는 자의 소리가 있어 가로되 너희는 주의 길을 예비하라 그의 첩경을 평탄케 하라 하였느니라3:4 이 요한은 약대 털옷을 입고 허리에 가죽띠를 띠고 음식은 메뚜기와 석청이었더라3:5 이 때에 예루살렘과 온 유대와 요단강 사방에서 다…

マタイによる福音書 QT4 20210115金【殺す王、生かす王】マタイ2章 13~23

マタイ2章 13~232:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」2:14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、2:15 ヘロデが死ぬまでそこにい た。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。2:16 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。2:18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」2:21 そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。   イスラエルの王が生まれると言われたヘロデは、当時に生まれた男の子を虐殺します。モーセが生まれた時代にもヘブライ民族の拡張を警戒していたエジプトの王が、ヘブライ人の家庭に生まれた男の子をみな殺した出来事がありました。同様に、イスラエルの王が生まれたということを聞いたヘロデ王は、王になる赤ちゃんが誰なのか分からないので当時生まれた赤ちゃんをみな殺したのです。   ヘロデという王は絶対君主がありません。ローマ帝国の皇帝が植民地のユダヤを治めるために任命した領主です。雇われた王です。自分の位置を維持するために、常に皇帝の顔色を伺う人です。自分の政治的生存のために生まれたばかりの赤ちゃんの生存権を無残に奪ったのがヘロデの幼児虐殺です。   韓国で養子となった子どもを虐待して死亡してしまった事件が起こり、社会全体が公憤しています。小さな利益の欲のために子どもを入籍し、自己暴力によって子どもの生存権を奪ったのです。貪欲と暴力は人間の本性です。それは犯罪者が新たに作られたものではなく、制御できないとき、活性化してしまう人間の本性の断面です。   すべての人間に貪欲があり、暴力性があります。ポンプに少しの水を注げば、水が絶えなく出てくるように暴力という水を注げば、暴力はアクティブになって絶えず繰り返され、さらに発展します。繰り返され、深化された暴力、人間性が制御できない悪魔性を受け、子どもは死に至りました。   自分の生存と貪欲のために誰かを利用し、暴力を振る舞い、命をも殺すことができるという悪魔性は、認めたくないですが、誰にでもあるものです。それを使い始めると、その暴力性は活性化します。家庭、学校、職場という組織の内で習慣的に行われる暴力は人間性を破壊する悪魔のものです。破壊は、加害と被害の両方で起こります。誰であっても誰かの生きる権利を奪う権利はありません。罪を制御しなければ両方死にます。   ここに、殺そうと王と救って生かす王がいます。白い馬と黒い馬が自分の中で戦うとき、どちらが勝つのでしゅか?私が勝ちなさいと命令する馬が勝ちます。自ら低くなり、貪欲と暴力の罪を代わりになって十字架で死ぬために王がきました。心の中にそれを信じる信仰が勝たなければならいます。貪欲と暴力、利己主義が秩序になってしまった世の中で王と王の言葉に仕える人には、それを制御する力、愛と平和という回復された創造の秩序が与えられます。  

마태복음 QT4 20210115금【살리는 왕, 죽이는 왕】마태2장 13~23

마태2장 13~232:13 저희가 떠난 후에 주의 사자가 요셉에게 현몽하여 가로되 헤롯이 아기를 찾아 죽이려하니 일어나 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 피하여 내가 네게 이르기까지 거기 있으라 하 시니2:14 요셉이 일어나서 밤에 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 떠나가2:15 헤롯이 죽기까지 거기 있었으니 이는 주께서 선지자로 말씀하신바 애굽에서 내 아들을 불렀다 함을 이루려 하심이니라2:16 이에 헤롯이 박사들에게…

マタイによる福音書 QT3 20210114木【もう一人の博士】マタイ2章 1~12

マタイ2章 1~122:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。   東方の博士は三人いたと推測されますが、ヘンリー・ヴァン・ダイクが書いた小説の中には「もう一人の博士」という話があります。もう一人の博士の名前はアルタバンで職業は医師でした。火災によって愛する家族を失ってから、星を研究していたある日、メシアの星を見て礼拝することを心に決めます。ささげものとしてサファイア、ルビーと真珠を用意しました。   出発する日にアルタバンは道ばたで死にかかっているお年寄りに会います。彼の最期を見届けたため、出発の約束時間に遅れてしまいます。アルタバンはサファイアを売ってラクダを買い一人で出発します。ベツレヘムに着いたとき、すでにキリスト・イエスは生まれ、3人の博士は礼拝をささげた後でした。   アルタバンは、キリストと会えず、避難のためエジプトに下る赤ん坊イエスとすれ違います。その道でヘロデの兵士たちの幼児虐殺をするのを見て、自分が持っていたルビーを賄賂として与え、母さんと赤ちゃんたちを救いました。   最後に残った真珠も貧しい人々に分けて与え、病気の人を治療しながら貧しい町に20年間とどまります。そんなある日、自分では治せなかった盲目の少年が、エルサレムでイエスに会い、目を開けてもらったという叫びを聞きます。   アルタバンは同行していた奴隷を解放し、イエスに会うために旅を再開します。最後の晩餐をされた家に辿り着いたのですが、イエス・キリストはいませんでした。ゲッセマネに行ってみましたが、ペテロが一人で泣いているだけでした。イエス・キリストは十字架を背負ってゴルゴタの丘を歩いていました。   年を取って弱まったアルタバンは倒れ、死境をさまよっていたときに、復活したイエス・キリストが現れました。いよいよイエスに出会ったのです。アルタバンはイエス・キリストに言います。「申し訳ありません。礼拝したいのですが、もうささげものがありません。」   イエス・キリストは言われました。「わたしはあなたがささげた贈り物をすべて受け取りました。死にかけていたヘブライの老人を大切にしてくれたこと、ベツレヘムの赤ちゃんとお母さんたちを死から救ってくれたこと、貧しい村の病気の人を助けてくれたこと、奴隷を自由の身に解放したこと、そして故郷の友人の一人娘を救ってくれたことです」と言われました。   アルタバンはその言葉を聞いて息を引きとりました。小説を書いたヘンリー・ヴァン・ダイクは牧師でもありました。「もう一人の博士」の礼拝は、人生全体を通してささげた礼拝であり、その人生は、神様が受けとるようなものでした。アルタバンはやがてメシアを拝みました。この話が単なるフィクションに聞こえないのは、アルタバンの人生が、キリストの人生と最も似ているからです。  

마태복음 QT3 20210114목【네 번째 동방박사】마태2장 1~12

마태2장 1~122:1 헤롯왕 때에 예수께서 유대 베들레헴에서 나시매 동방으로부터 박사들이 예루살렘에 이르러 말하되2:2 유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시뇨 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라 하니2:3 헤롯왕과 온 예루살렘이 듣고 소동한지라2:4 왕이 모든 대제사장과 백성의 서기관들을 모아 그리스도가 어디서 나겠느뇨 물으니2:5 가로되 유대 베들레헴이오니 이는 선지자로 이렇게 기록된바2:6 또 유대 땅 베들레헴아 너는…

マタイによる福音書 QT2 20210113水【救いとインマヌエル】マタイ1章 18~25

マタイ1章 18~251:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。   マタイの系図の終わりにヨセフとマリアの家に来られるイエス・キリストが紹介されます。系図を紹介したのは、ユダヤ人が納得できるメシアの根拠を提示するためであり、聖霊によって身ごもった処女から生まれたのも、彼らが否定できないイザヤ7章の預言を思い起こさせているのです。   イエス・キリストがマリアに身ごもられた時に、すでに福音は証しされます。本文が証しするイエス・キリストの受肉の目的は2つです。一つは、「ご自分の民をその罪からお救うため」、もう一つは「神が私たちとともにおられるため」です。   「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。21」「「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。23」   救いのギリシャ語(σωζω)ソゾは、救助する、解放するという意味です。新約聖書でイエス・キリストが病気や悪魔に苦しむ人を救うときに、この言葉が使われます。救いは絶望的な状態で救助を受けることであります。この絶望的な状態というのは、神様と断たれている状態を言います。   断絶による苦痛です。断絶は、神の民が神を捨てて、罪を選んだゆえにくる痛みです。ですから罪による断絶の痛みからご自分の民を救う方という、イエスの名をもって来られました。   その救いの方法は、インマヌエルです。私たちの中に来られました。天から救うことせず、私たちの中に来て対面しました。イエス・キリストが私たちのところに来てくださったので、神は私たちとともに住み始めたのです。   そして、やがてイエス・キリストは天にお帰りしましたが、信じる者には内住される聖霊を与えられています。ご臨在、救いの証しです。罪から救われた十字架を証しするというのは、受肉した神を証しするものであり、内住する聖霊を証しすることです。ですから、聖書をよく知っていても、自分の中にイエス・キリストがいなければ、十字架は伝えられません。   そして「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ…我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と告白する共同体の中に、神は今日もインマヌエルしておられます。