시편 묵상 【귀머거리 독사】 202403121(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 58:1~1158:1 인자들아 너희가 당연히 공의를 말하겠거늘 어찌 잠잠하느뇨 너희가 정직히 판단하느뇨58:2 오히려 너희가 중심에 악을 행하며 땅에서 너희 손의 강포를 달아주는도다58:3 악인은 모태에서부터 멀어졌음이여 나면서부터 곁길로 나아가 거짓을 말하는도다58:4 저희의 독은 뱀의 독 같으며 저희는 귀를 막은 귀머거리 독사같으니58:5 곧 술사가 아무리 공교한 방술을 행할지라도 그 소리를 듣지 아니하는 독사로다58:6 하나님이여 저희 입에서 이를…

詩篇 黙想 【私は国々の民の間で】 20240320(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 57:1~11 57:1 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。 57:2 私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。 57:3 神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ神は恵みとまことを送ってくださいます。 57:4 私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。 57:5 神よあなたが天であなたの栄光が全世界であがめられますように。 57:6 彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ 57:7 神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。 57:8 私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。 57:9 主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。 57:10 あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。 57:11 神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。 57編は人間が置かれた悲惨さを嘆くことから始まり、神様の栄光を称えることで終わります。この詩はダビデがサウルを避けて敵国であるペリシテに逃げ、ペリシテ王の前でよだれを垂らしながら狂ったふりをして生き返った後に書いた詩です。ダビデは生きるということが何なのか悩んだはずです。底をつき自尊感など残っていない時、ダビデは神様の栄光を歌いました。つらい状況にもかかわらず神様の栄光を賛美したのではなく、底で悲惨を経験する時に、見つかる神様の栄光が真の慰めになるからです。神様が人間ではなく神様であるということ、それが慰めであり喜びになるのです。   カルバンは、人間が喪失と回復の過程、自分自身と世の中の関係を通じて神様を知っていくことができると言いました。人間が自分の限界と存在の悲惨さに気付くとき、神様の懐の大きさを知ることができます。それで人間の自己認識は神様の存在と属性に対する知識を拡張させます。カルバンはキリスト教綱要を始めながらこれを一番最初に書きました。神様を知る知識と人間を知る知識は互いに深く関連していて、自分の認識と神様の認識は相互補完的なもので、互いに影響を及ぼし合います。自分自身を理解する時、神様を知ることができ、御言葉を通じて神様を知っていく時、自分が誰なのか分かります。   7節の「心は揺るぎません」は、自分の卑下を避けて通れない一人の悲惨な人間が、生と信仰の意志をもう一度固めているもので、8節の「私は暁を呼び覚まそう」は、夜明けがダビデを起こすのではなく、ダビデが闇の中で夜明けを起こすという先駆者的意志です。すべての人間のすべての苦難と逆境は、栄光の神様の中で揺るがない、呼び覚ますことができます。自分を知る知識では不可能ですが、神様を知る知識の中では可能です。「主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。9」国々の民が世に集中していても、私は主の栄光を賛美しますということでしょう。ダビデは悲惨な時間に神様の栄光の前で賛美と安息を楽しんでいます。  

시편 묵상 【내가 만민 중에서】 202403120(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 57:1~11 57:1 하나님이여 나를 긍휼히 여기시고 나를 긍휼히 여기소서 내 영혼이 주께로 피하되 주의 날개 그늘 아래서 이 재앙이 지나기까지 피하리이다 57:2 내가 지극히 높으신 하나님께 부르짖음이여 곧 나를 위하여 모든것을 이루시는 하나님께로다 57:3 저가 하늘에서 보내사 나를 삼키려는 자의 비방에서 나를 구원하실지라(셀라) 하나님이 그 인자와 진리를 보내시리로다 57:4 내 혼이 사자 중에 처하며…

詩篇 黙想 【神に信頼する】 20240319(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 56:1~13 56:1 神よ私をあわれんでください。人が私を踏みつけ一日中戦って私を虐げているからです。 56:2 私の敵は一日中私を踏みつけています。高ぶって私に戦いを挑む者が多いのです。 56:3 心に恐れを覚える日私はあなたに信頼します。 56:4 神にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。 56:5 一日中彼らは私のことを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな私に対する悪です。 56:6 彼らは襲おうとして待ち伏せし私の跡をつけています。私のいのちを狙って。 56:7 不法があるのに彼らを見逃されるのですか。神よ御怒りで国々の民を打ち倒してください。 56:8 あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。 56:9 そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを。 56:10 神にあって私はみことばをほめたたえます。主にあって私はみことばをほめたたえます。 56:11 神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。 56:12 神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。 56:13 まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。 恋人に愛していると告白するプロポーズには、いくつかの意味があります。相手を愛しているという告白だけでなく、他の人は愛していないということ、これからも他の人を愛しないという誓いです。相手が誰なのか分かる知識と経験なしに、愛を守る意志もなしに、ただ一時的な感情で表現したものなら、それを本当の愛の告白と言えません。理解と責任のない愛は嘘です。聖徒に使命という責任があることも、三位一体の神様が私に向けた愛を守るためにどのような責任を負われたのかを知っているからです。   神様を信じるということは、神様について知っているということであって、他のことは信じないという告白であって、今後も他のことを信じることはしないという意志の表現です。信仰には知・情·意が伴わなければなりません。知識と経験をもって相手について知らなければならず、感情が同意しなければならず、意志と努力も伴わなければなりません。誰かを愛するなら、その人がどんな人なのかを知らなければならず、愛の感情を確認しなければならず、意志をもって決断をしなければなりません。知・情·意の人格的な反応なしには人を愛することも、神を信じることもできないでしょう。   4節と11節では、繰り返し神様を頼りにしたので、人を恐れないと言います。「…神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。4」「神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。11」神様を頼りにしたから人を恐れないということは、神様に頼りにしたから他のことに頼ることはしないということを誓ったことです。ダビデが置かれた危機であれ、私たちそれぞれにおいても神様を頼るということの行動方式は一体どのようなことでしょうか?   4節と11節のには共通して「みことば」という目的語が隠れています。「神にあって私はみことばをほめたたえます。4」「神にあって私はみことばをほめたたえます。主にあって私はみことばをほめたたえます。10」この後に神様を頼っているという言葉が出てきます。ですから神様に頼るということは、神様のみことばに頼るということです。神様に頼り方は、無防備状態でただ待つということではありません。状況を読みとり、時間をわきまえ、行動を決断しなければなりません。神様のみことばがそれを教えられ、導かれます。   神様のみことばを抽象的に受ける人は、信仰も抽象的です。神様のみことばを逃さずに読んで聞いて問い詰めて現在的な解釈をする人は、自分の人生の具体的な問題をみことばをもって対応します。 証しはその時にあります。説教を聞く方式だけで神様のみことばを受けようとするなら、時間が経っても証しは見つけることはできないでしょう。みことばと自身が個人的に交わりを持たなければなりません。みことばを通して神様と人格的に交わる人は、みことばによって状況と時と行動をわきまえます。時にはすでに自分の中に内在したみことばであり、時には毎朝と夕ごとに与えられる神様のみことばです。ですから他のことに頼らずにただ神様のみことばに頼ります。

시편 묵상 【내가 하나님을 의지하였은즉】 20240319(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 56:1~13 56:1 하나님이여 나를 긍휼히 여기소서 사람이 나를 삼키려고 종일 치며 압제하나이다 56:2 나의 원수가 종일 나를 삼키려 하며 나를 교만히 치는 자 많사오니 56:3 내가 두려워하는 날에는 주를 의지하리이다 56:4 내가 하나님을 의지하고 그 말씀을 찬송하올지라 내가 하나님을 의지하였은즉 두려워 아니하리니 혈육있는 사람이 내게 어찌하리이까 56:5 저희가 종일 내 말을 곡해하며 내게 대한…

詩篇 黙想 【不安な実存】 20240318(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 55:16~23 55:16 私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。 55:17 夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。 55:18 主は私のたましいを敵の挑戦から平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。 55:19 神は聞き彼らを苦しめられる。昔から御座に着いておられる方は。セラ彼らは改めず神を恐れない。 55:20 彼は親しい者にまで手を伸ばし自分の誓約を犯している。 55:21 その口はよどみなく語るが心には戦いがある。そのことばは油よりも滑らかだがそれは抜き身の剣である。 55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。 55:23 しかし神よあなたは彼らを滅びの穴に落とされます。人の血を流す者どもと欺く者どもは日数の半ばも生きられないでしょう。しかし私はあなたに拠り頼みます。 個人的に黙想のためには確保された時空間が必要で、移動が多かったここ数週間は何かを書くことができませんでした。我が家があるところは我が国ではなく、我が国にに帰っても我が家がなく、安らぎはありませんでした。御言葉の前にじっと座り、自分の中にあるものを取り出す作業をしなければ、やはり思いは散漫になり、不安は募ります。ときめきで始まった旅は、帰りの安堵で終わります。世に出かけますが、御言葉のある父の家に戻らなければなりません。それが魂がいただく最も安全な時間です。私たちの日常は「神様の御前に静める時」を基準に再編成しなければなりません。   神様を信じるという信仰には、状況に勝つ力が内在していると信じます。うまくいく時には高ぶりやすく、危機に瀕した時に落ち込みやすいですが、高くなるほどかえって謙遜になり、危機であるほどもっと勇気を出さなければなりません。そのように努力しなければならないのではなく、神様を信じる聖徒の信仰には本来そのような力が含まれています。「夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。17」夕べと朝と真昼に嘆きうめくのは、危機と失敗という状況のためではなく、存在の絶望を知っているからでしょう。   人間は不安を感じ、絶望を経験する存在です。驚くべきことに、不安という穴を埋めても不安は消えません。不安が人間の実存です。不安が存在の証です。不安でなければ不安でないことで不安になります。その不安の穴は神様だけで埋められるからです。不安を感じる人間にだけ神様の恵みは実在になります。自ら不安ではないと考える人は、どのような恵みがあってもそれを認識することはできません。実存的な絶望と危機を持っている人間に、不安を避けることはできません。ですから、常に嘆きうめくため息をつかざるを得ません。逆説的ですが、それこそ平安が与えられます。救いの感激はそこでしか実在しません。   神様の前でうめきがない人は、すでに何らかの偶像に仕えていることを傍証するものです。頼れるようなものがあるから不安ではないと思うことであって、だから嘆願はないのです。それが高慢です。朝起きた人は、私は絶望的な人ですと告白しなければならず、真昼の炎天下に立った人は危機に瀕していると告白しなければならず、夕には戻って神様の救いを哀願しなければなりません。素敵な感謝の祈りは、かえって自分の魂を隠している偽善かも知れません。助けと救いを嘆願しなければなりません。神様の恵みなしでは生きていけない実存的絶望の時点を日常から回復させるのが謙遜の実力です。「私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。16」神様の御前に静める時に絶望を吐露することが希望の始まりです。  

시편 묵상 【불안한 실존】 20240318(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 55:16~23 55:16 나는 하나님께 부르짖으리니 여호와께서 나를 구원하시리로다 55:17 저녁과 아침과 정오에 내가 근심하여 탄식하리니 여호와께서 내소리를 들으시리로다 55:18 나를 대적하는 자 많더니 나를 치는 전쟁에서 저가 내 생명을 구속하사 평안하게 하셨도다 55:19 태고부터 계신 하나님이 들으시고 (셀라) 변치 아니하며 하나님을 경외치 아니하는 자에게 보응하시리로다 55:20 저는 손을 들어 자기와 화목한 자를 치고 그…

詩編 黙想 【いずれ崩落ちるもの】 20240309(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 49:1-12 49:1 すべて国々の民よこれを聞け。すべて世に住む者よ耳を傾けよ。 49:2 低い者も高い者も富む者も貧しい者もともどもに。 49:3 私の口は知恵を語り私の心は英知を告げる。 49:4 私はたとえ話に耳を傾け竪琴に合わせて謎を解き明かそう。 49:5 なぜ私はわざわいの日々に恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が  私を取り囲むときに。 49:6 彼らは自分の財産に拠り頼み豊かな富を誇っている。 49:7 兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。 49:8 たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。 49:9 人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。 49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に愚かな者浅はかな者も等しく滅び自分の財産を他人に残すのを。 49:11 彼らの心の中ではその家は永遠で住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。 49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。  昨日の御言葉から見たように、神様の城が永遠に立つこととは異なり、人間のすべてはいずれその終わりを迎えます。キリスト教の教理の終末論では、人間個人が迎える死という終末を個人的終末、世界中が迎える終末の日を普遍的終末といい、結局すべての存在に終わりの時が来るということを教えています。  遠い昔から一国を、民族を治める力を持っていた人々は、唯一自分が治められないこと、自分の死という存在を恐れ、そのために多くの偶像や迷信を作り出しました。しかし、今の私たちが知っている通り、誰もその死を治めることはできませんでした。  聖書は、その死というものがどこから来たのか、なぜ私たちに来たのかを明確に教えています。それは、死は人間の罪から来たものであり、依然として私たちの罪によって私たちと共に存在しているということです。つまり、その死を治めるためには、まず私たちの罪を治めなければならないということです。しかし残念ながらも、私たち自らはその罪を治めることも、その罪の代価を払うことも不可能です。  しかし、私たちが聖書を通して聞き、信じている通り、そのすべての罪の代価を払ってくださり、治める力を与えてくださった方が私たちの主イエス·キリストです。そして昨日の御言葉を通して見たように、その福音はすべてが終わりを迎える時にも決して消えることのない唯一のもの、神の城のようなものです。  人は死んで名を残すことが名誉だと言われています。実際、私たちの周りには誰かの名前から取ってきた地名、研究、法律など、様々な領域で人々は名前を残しています。しかし、私たちは彼らの名前は知っていても、彼らがどんな人なのかはまったく知りません。 彼らはもうこの世には存在していないからです。  神様の御名とその栄光は、すでにこの世に広く知られています。そしてそれと同時に、神様がどのような方であるのかもよく知られています。その神様が今も私たちと共にしておられるからです。そして、その神様がこれからも永遠に私たちと共にしておられるから、人の名前と存在はいずれ崩れ落ちて消えてしまうとしても、神様の御名と存在は決して忘れることがありません。 https://youtu.be/jgcbZEUTFe0?si=3pGM7n_Cqt6WgWM7

시편 묵상 【결국 무너질 것】 20240309(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 49:1-12 49:1 뭇 백성들아 이를 들으라 세상의 거민들아 모두 귀를 기울이라 49:2 귀천 빈부를 막론하고 다 들을지어다 49:3 내 입은 지혜를 말하겠고 내 마음은 명철을 작은 소리로 읊조리리로다 49:4 내가 비유에 내 귀를 기울이고 수금으로 나의 오묘한 말을 풀리로다 49:5 죄악이 나를 따라다니며 나를 에워싸는 환난의 날을 내가 어찌 두려워하랴 49:6 자기의 재물을 의지하고…

詩編 黙想 【永遠に立つ城】 20240308(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 48:1-14 48:1 主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山私たちの神の都で。 48:2 高嶺の麗しさは全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。 48:3 神はその都の宮殿でご自分を砦として示された。 48:4 見よ王たちは集ってともどもにやって来た。 48:5 彼らは見ると驚きおじ惑い慌てた。 48:6 その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。 48:7 東風によってあなたはタルシシュの船を砕かれる。 48:8 私たちは聞いたとおりを見た。万軍の主の都私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。セラ 48:9 神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。 48:10 神よあなたの御名と同じくあなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。 48:11 あなたのさばきのゆえにシオンの山が喜びユダの娘たちが楽しみますように。 48:12 シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。 48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。 48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。  詩編では神様を都、城などでよく比喩しています。神様は都であると言えば、私たちに一番先に思い出されることは逃れの町に対することかもしれませんが、神様は私たちの都であるという表現は神様の偉大さと栄光を表す表現としてもよく使われています。  日本各地に点在している多くの城、ダビデの宮、そして歴史の中に登場する多くの城や都がそうであるように、城は単純にその建物の大きさと華やかさだけでも人々に威圧感を与える物です。しかし最終的にその物たちが示すのは、その物の所有者が誰であり、どのような存在であるのかということです。  いくら大きくて派手な城であっても、その所有者が誰であるのかによってその評価が明らかに分かれます。同じ城であっても一国の英雄のような存在が居住している時と、暴君のような者が居住している時、その城を見る視線が変わるのと同じです。  詩篇記者が描写している神様の都の特徴は色々ありますが、王たちがその都を見るだけで子を産む時のような痛みを感じるほど、その栄光が大きいことを表しています。 しかし、世の中の王にとってはその都が恐れるべき存在であっても、その民にとっては、主の恵みを思わせる物であります。  今日の御言葉の通り、私たちはその城壁に心を留めて、注意深く見なければなりません。その都の隅々をよく見なければなりません。そのすべてが神様であり、神様が私たちに与えてくださったものであるからです。  今、私たちの目の前にシオンの山、そして神の都は見えません。しかし、それらのように神を明らかに表しているものはあります。まさにそれは聖書です。  聖書のすべての御言葉は神様そのものであります。また、そのすべての御言葉が私たちに与えられている神の恵みでもあります。その神様を知らない者たちに聖書の御言葉は恐ろしい裁きの言葉になっても、神様の民である教会たちにはその恵みを思わせる、その御名を誉れさせる御言葉になります。  従って、今日の御言葉の通りに、その御言葉という城壁を私たちが見たことで終わってはいけません。その御言葉は後に都の遺跡のようになるものではなく、永遠にその場に立つものであり、私たちと私たちの次の世代のための永遠の城壁となります。その城壁が、世の中から私たちを守ってくださり、私たちの真の主が誰であるのかを知らせてくれるでしょう。 https://youtu.be/g6e8Ga8sjps?si=OPOsWXSN12NAjdcM