Ⅱコリント8【幕屋が壊れても】2200715(金) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 5:1~105:1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。5:3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。5:4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。5:5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。5:6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。5:7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。5:8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。5:9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。   パウロは人生を幕屋、つまり、テントにたとえました。テントを張ったら、再びたたんで別の場所に移動しなければなりません。幕屋の家は私たちの肉を指します。体は臨時的なものということです。人が肉体にすべての価値をかけてしまうなら、生老病死は悔しくて恐ろしいことになります。しかし、臨時であることが分かる人は受け入れ方が異なります。死は存在の終わりではないからです。クリスチャンというのは、ある日に死という恐ろしい結末に出会うのではなく、最初から死ぬ存在として送られたことを知っている人です。   死を受け入れることができるのは、死が予期せぬ失敗ではなく、神様の秩序の中にあることを知る信仰があるからです。信仰がなければ、誰も死を説明することはできません。ですから信仰の中で死というのは絶望ではなく、かえって希望になります。パウロは命が死を吞み込んだと表現しました。死は死で終わりません。誰もが死にますが、何を信じるかによって、今、この肉体の幕屋でどのように生きるべきかを決めることができるでしょう。

고린도후서 묵상8【장막 집이 무너지면】220715(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 5:1~105:1 만일 땅에 있는 우리의 장막 집이 무너지면 하나님께서 지으신 집 곧 손으로 지은 것이 아니요 하늘에 있는 영원한 집이 우리에게 있는 줄 아나니5:2 과연 우리가 여기 있어 탄식하며 하늘로부터 오는 처소로 덧입기를 간절히 사모하노니5:3 이렇게 입음은 벗은 자들로 발견되지 않으려 함이라5:4 이 장막에 있는 우리가 짐 진것 같이 탄식하는 것은 벗고자 함이 아니요…

Ⅱコリント7【外なる人、内なる人】2200714(木) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 4:13~184:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。   人には外面だけではなく、内面もあります。見えるところがあれば、見えないところもあります。この人間の二重性は仕方がないのですが、さらに悲しいのは、自分の外面を自分の内面であると勘違いしていることです。新しい服を着たからといって新しい人になるのではなく、顔に化粧をしたからといって心が美しくなるわけではありません。私たちは外面、見える世界がすべてのように生きていますが、実は世と見えるものは滅びていくものです。新しいものは古くなり、若いもの衰え、生きていたものは死んで消えていきます。舞台に上がりましたが、すぐに退場しなければなりません。それが恐い人は、医学の発達で寿命が長くなり、ケアを通して健康になると期待します。肉体を健康に管理することは重要ですが、健康な人もいつか病にかかり、事故に遭って死ななければなりません。より根本的なケアをしなければなりません。   肉体が弱くなることに連れ、肉体が健康な時には知らなかったことに気づくようになります。臨終を迎える人は、もはや肉体には期待できないことを知っているので、ようやく内なる人が出てきます。最後の瞬間に愛と赦しと後悔と感謝を語ろうとしますが、その一言を言うことができずに死にます。内なる人が起き上がるときは、外面を信頼できない時からです。生まれ変わった人というのは、神様を信じ、受け入れ、すでに自分の肉体に絶望した経験を持っている人です。だから、生まれ変わったクリスチャンです。ところが、信仰生活の中でも霊、すなわち内なる人は眠っています。外なる人の公式に内なる人の答えを求めてみますが答えが見つかりません。外なる人のスケジュールに巻き込まれると、霊は息詰まります。自分の内なる人を目覚めさせ、弱い肉体と同行していきたいと祈ります。

고린도후서 묵상7【겉사람과 속사람】220714(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 4:13~184:13 기록한바 내가 믿는고로 말하였다 한 것 같이 우리가 같은 믿음의 마음을 가졌으니 우리도 믿는 고로 또한 말하노라4:14 주 예수를 다시 살리신 이가 예수와 함께 우리도 다시 살리사 너희와 함께 그 앞에 서게 하실 줄을 아노니4:15 모든 것을 너희를 위하여 하는 것은 은혜가 많은 사람의 감사함으로 말미암아 더하여 넘쳐서 하나님께 영광을 돌리게 하려함이라4:16 그러므로…

Ⅱコリント6【土の器のように】2200713(水) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 3:12~184:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。4:2 かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。4:3 それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。4:4 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。   使徒パウロの献身は今でも宣教と教会のための大きな感動になりますが、当時パウロは教会内外から迫害と拒絶を受けて困難していました。それにもかかわらず、パウロがそのような献身ができたのは、献身しなければならないという意志ではなく、福音の価値が大きすぎるからです。パウロはその宝を自分の弱い土の器の中に入れたと言いました。壊れやすく、傷つきやすいのですが、その土の器の中には決して変わらない、決してあきらめない福音があります。   その困難な時間を乗り越えたパウロはコリント教会の感謝と誇りになります。しかし、わたしたちはパウロの宣教の情熱ではなく、パウロを最後まで宣教への情熱を燃やしたその土の器の中にある福音を読み取らなければなりません。私たちも、土の器のように弱いのですが、その中にあきらめられない福音があります。土の器のような人生に福音を抱き、それを守り、伝えていくことを願います。  

고린도후서 묵상6【질그릇 같은 나에게】220713(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 4:1~124:1 이러하므로 우리가 이 직분을 받아 긍휼하심을 입은대로 낙심하지 아니하고4:2 이에 숨은 부끄러움의 일을 버리고 궤휼 가운데 행하지 아니하며 하나님의 말씀을 혼잡케 아니하고 오직 진리를 나타냄으로 하나님 앞에서 각 사람의 양심에 대하여 스스로 천거하노라4:3 만일 우리 복음이 가리웠으면 망하는 자들에게 가리운 것이라4:4 그 중에 이 세상 신이 믿지 아니하는 자들의 마음을 혼미케하여 그리스도의 영광의…

Ⅱコリント5【主の御霊が与える自由】2200712(火) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 3:12~183:12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。3:14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。3:15 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。3:16 しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。3:17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。   13節の「消え去るものの最後」とは、モーセが受けた律法です。モーセの律法というイスラエルに対する神様の契約は、永遠に続くのではありませんでした。将来、いつかはなくなります。覆いを掛けたモーセの顔の輝きが消えたように、律法も結局は消えさり、神様の新しい契約が現れます。パウロがこれを語るときは、すでに律法の時代は終わり、新しい契約である福音の時代が到来していました。   しかし、愚かで頑固な人々は、モーセの顔にある覆いで彼らの心を掛けていました。律法におおわれる福音の自由が分かりませんでした。中身が足りない人は形式主義に陥ります。覆いの裏にある律法ではなく、覆い、そのものにこだわります。福音は覆いをかぶらなくても信じるすべての人に自由を与える神様の恵みです。「主の御霊がおられるところには自由があります。17」律法的な形式、観念の宗教ではなく、たましいに与えられる福音による自由が私たちの日常を守ることを祈ります。

고린도후서 묵상5【주의 영이 주시는 자유】220712(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 3:12~183:12 우리가 이같은 소망이 있으므로 담대히 말하노니3:13 우리는 모세가 이스라엘 자손들로 장차 없어질 것의 결국을 주목치 못하게 하려고 수건을 그 얼굴에 쓴 것 같이 아니하노라3:14 그러나 저희 마음이 완고하여 오늘까지라도 구약을 읽을 때에 그 수건이 오히려 벗어지지 아니하고 있으니 그 수건은 그리스도 안에서 없어질 것이라3:15 오늘까지 모세의 글을 읽을 때에 수건이 오히려 그 마음을…

Ⅱコリント4【キリストの手紙】2200711(月) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 3:1~113:1 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。3:3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。3:5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。   初代教会の時代に教会の教職者は、エルサレム教会から推薦状を受けて各教会に派遣されましたが、パウロの場合はエルサレム教会が正式に認めて派遣した教職ではなく、アンディオクでバルナバによってピックアップされ、最も早い時期に広範な地域に教会を開拓し始めた実際の宣教師です。問題が生じたのは、コリント教会を離間した人々により、パウロに不満を抱いた一部の人々がパウロにエルサレム教会の派遣状がないということでパウロの使徒権を否定したことです。   ここにパウロは、コリント教会の聖徒たちに対して「キリストの手紙」と言いました。つまり、コリント教会の聖徒たちにがパウロの推薦状になるということです。コリント教会は、パウロが開拓し、形成した教会です。彼らが福音を知り、福音による生きるなら、パウロは確かに福音伝道者であり、もし、彼らの信仰が偽りであるなら、パウロの使徒権云々する理由も資格もないわけです。   「キリストの手紙」ということは、真実の中身のことを言います。昨日の本文に聖徒を「キリストの香り」と言ったことに続き、パウロはその真実を表していることを「手紙」にたとえているのです。私たちは、本日も腕を広げ、足で歩き回りますが、本物には本物の香りが、本物の手紙にはその真実の内容が伝わります。聖徒の信仰が、隠せない香ばしい香りになり、世に伝える真実な手紙になることを祈ります。

고린도후서4【그리스도의 편지】220711(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 3:1~113:1 우리가 다시 자천하기를 시작하겠느냐 우리가 어찌 어떤 사람처럼 천거서를 너희에게 부치거나 혹 너희에게 맡거나 할 필요가 있느냐3:2 너희가 우리의 편지라 우리 마음에 썼고 뭇사람이 알고 읽는바라3:3 너희는 우리로 말미암아 나타난 그리스도의 편지니 이는 먹으로 쓴 것이 아니요 오직 살아 계신 하나님의 영으로 한 것이며 또 돌비에 쓴 것이 아니요 오직 육의 심비에 한…