マルコの福音書 黙想 【悔い改めへのアラーム】 20240217(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 14:66-72 14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。 14:67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」 14:68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。 14:69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」 14:70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」 14:71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。 14:72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。  キリスト者にとって抜けてはならないことはいろいろありますが、悔い改めはその中でも重要なことです。私たちがキリスト者として生きていく中で、瞬間の悔い改めから劇的な回心など、私たちの罪を神様の御前に告白することを通して神様に赦されるからです。    しかし、自分の罪を自覚することは簡単ではありません。いつか、ある青年集会で私たちの罪に対する情熱的な説教が語られた後、教会に来て数ヶ月ぐらい経っていた兄弟に質問をしたことがあります。このような説教を聞いたらどんな気持ちになるのか、理解できるのかなどの質問でした。    その兄弟の答えは簡単でした。自分がなぜ罪人なのかも分からないし、その罪というのが具体的に何なのかも分からない。だから、このような説教を聞いても理解もできないということでした。    すでに罪に慣れている私たち人間には、自分の罪に自ら気づくことが不可能なので、この問題はその兄弟だけの問題ではないでしょう。私たち皆が一度は経験したはずの問題、今後も経験していく問題であるのです。そのため、神様は私たちが私たちの罪に気づくことができるように、そこから罪の問題を解決してくださるようにいつも隣で助け、教えてくださっています。    今日の箇所でのペトロは、イエス様が自分に言われた言葉を覚えていました。しかし、それでも彼は自分が3回イエス様を否定する瞬間までも、その罪に気づけませんでした。しかしその時、鶏の二回目の鳴き声が聞こえてきました。    鶏の鳴き声を聞いて、ペトロは自分の罪に気づきました。ペトロにとって鶏のその鳴き声は単純に物理的な時間を知らせるアラームを越えて、彼に悔い改めの時間を知らせるアラームであったのです。    忙しい日常の中で、私たちは悔い改めるどころか、神様の存在さえも忘れてしまって生きていく時が良くあります。なので、私たちにも一つのルーチンのようなものがあると良いと思います。ペトロが罪に気づいて悔い改めることができるように知らせてくれた鶏の鳴き声のように、私たち一人一人にも私たちを悔い改めに導く何かが必要です。    神様は私たちが悔い改めることを望んでおられます。それは私たちの罪がけしからなくて、喧嘩した後先に謝ることを待っているようなことではなく、私たちを赦してくださるためにその悔い改めを望んでおられるのです。そして、その悔い改めに至る道まで準備してくれます。時には御言葉で、賛美で、礼拝で、時には日常の中で私たちを悔い改めに導く神様の信号にいつも耳を傾けて生きていくことが大切です。  https://youtu.be/k1PIYMIRIsE?si=T8kHFJgfUwLE3NV9

마가복음 묵상 【회개의 알람】 20240217(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 14:66-72 14:66 베드로는 아랫뜰에 있더니 대제사장의 여종 하나가 와서 14:67 베드로가 불 쬐고 있는 것을 보고 주목하여 이르되 너도 나사렛 예수와 함께 있었도다 하거늘 14:68 베드로가 부인하여 이르되 나는 네가 말하는 것이 무엇인지 알지도 못하고 깨닫지도 못하겠노라 하며 앞뜰로 나갈새 14:69 여종이 그를 보고 곁에 서 있는 자들에게 다시 이르되 이 사람은 그 도당이라 하되 14:70 또 부인하더라 조금…

マルコの福音書 黙想 【わたしが、それです。】 20240216(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 14:53-65 14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。 14:54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。 14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。 14:56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。 14:57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。 14:58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」 14:59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。 14:60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」 14:61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」 14:63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。 14:64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。 14:65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。  イエス様はイスラエルの宗教指導者たちの前で何一つ偽りのことを言いませんでした。むしろそのようなイエス様を陥れるために多くの人々が偽証を作り出し、冤罪を被らせています。その人々の前でイエス様がなさった唯一のことは、ただありのままに自分がどのような存在であるかを言われたことだけです。    今日の箇所のイエス様の姿こそが、この世の人々の前に立つクリスチャンの在り方であるでしょう。世の中は私たちを迫害するために多くの偽証や、ささいなところまで用いて攻め込んで来ますが、私たちはその前で大胆に立ってイエス·キリストが主であることを告白すること、それがキリスト者たちがこの世を生きながら持たなければならない姿勢でしょう。    しかし、今の時代はどうでしょうか。 その信仰によって法廷の前に立つ者たちより、本当に罪を犯して法廷の前に立つキリスト者が多く見えるようです。むしろ世の中が公平に裁判をしようとしても、自分を弁護するための偽証を作り出しています。イエス様を表わし、ありのままの自分を表わすのではなく、多くの言い訳で自分とイエス様を隠しています。    必ずしも法廷に立つ者だけではなくても、普段の日常の中で自分がキリスト者だということを意図的に隠したり、意図的ではなくてもその人の生き方がイエス様の姿を隠してしまうこともあるのが今のキリスト者たちの現実ではないでしょうか。今日の箇所の最後の節に出てくるイエス様に唾をかけ、顔に目隠しをする者たち、もしかしたら彼らがしていたことを、今の私たちもしているのかもしれません。    今日の箇所ではユダヤ人たちがイエス様に向かって彼が神を冒瀆していると言っていましたが、いつか神様の法廷の前に立つことになる人々に向かってイエス様も彼らのように‘あなたたちが私を冒瀆した’と言われるかもしれません。    世の中の誰も神様の法廷の前で堂々と立つことはできません。それは私たちキリスト者にも同じでしょう。 私たちはその前で何一つの言い訳もできません。しかし、イエス様がありのままの自分を裁判官たちの前で表わしたように、私たちも神様の前に私たちのありのままの姿を表わし、私たちはこのような存在であっても、イエス様が‘わたしが、それです。’と言われたように、私たちも‘イエス様がその方です’と告白することで、神様の救いが与えられるでしょう。    水曜日から四旬節が始まりました。イエス·キリストの働きと苦難を黙想するこの時、単純にイエス様がなさったことを記憶することにとどまらず、それを通して私たちの人生を振り返ってみると良いと思います。そうすれば、その時間は単純な自己省察の時間ではなく、このような私たちさえ愛してくださるイエス様、このような私たちのために十字架につけられたイエス様を見つめる時間になるでしょう。  https://youtu.be/1QMlz4GKeUs?si=uLIm2u1s1JSN2QPq

마가복음 묵상 【내가 그니라】 20240216(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 14:53-65 14:53 그들이 예수를 끌고 대제사장에게로 가니 대제사장들과 장로들과 서기관들이 다 모이더라 14:54 베드로가 예수를 멀찍이 따라 대제사장의 집 뜰 안까지 들어가서 아랫사람들과 함께 앉아 불을 쬐더라 14:55 대제사장들과 온 공회가 예수를 죽이려고 그를 칠 증거를 찾되 얻지 못하니 14:56 이는 예수를 쳐서 거짓 증언 하는 자가 많으나 그 증언이 서로 일치하지 못함이라 14:57 어떤 사람들이 일어나 예수를 쳐서…

マルコの福音書 黙想 【皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった】 20240215(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 14:43~5214:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。14:44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。14:45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。14:47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。14:48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。14:49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」14:50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。14:51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。   〈キリストの逮捕〉(Taking of Christ)はカラヴァッジオの1602年の作品です。カラヴァッジオは画面を極端なコントラストで背景を暗く処理し、人物を浮き彫りにするテネブリズム(tenebrism)という技法を使いました。〈キリストの逮捕〉でも7人の登場人物が暗闇の中から顔を出して登場します。作品の一番左にいる人はヨハネです。ヨハネは驚いて逃げており、イエス様は体を少し後ろに反らしたまま悲しい表情をしておられます。イエス様を捕まえて口づけをしているのは、イスカリオテ·ユダです。イエス様は逃げる弟子と裏切る弟子の間で悲しい表情をもって挟まれています。イエス様は頼ることなく、ただ左手と右手を握りしめています。昨日の本文ではイエス様が弟子たちに頼りたかったのですが、弟子たちは眠っていたばかりのことを読みましたが、イエス様に危機が近づくと、積極的に裏切り、逃げ始めます。その隙間でイエス様は目のやり場がなくて目を閉じ、手をつなげてくれる人、握り締める何かを見つけられず、両手の指を組み合わせています。イエス様の使命は孤独のようです。イエス様の側に立つ人がいるでしょうか?それは不可能です。十字架はただイエス様お一人だけが孤独に負って行かなければならないことです。すべての人は、その十字架の下で救われます。その後に自分の十字架を負うことができます。逃げるのが寂しくて、イエス様は孤独でかわいそうですが、それは避けられないことです。十字架は人間の罪に対する神様の対策であり、罪のない人間は一人もいないわけで、神様は子を遣わしたのです。   ヨハネの手は逃げるために虚空をひっかいていて、イエス様を売るユダの手はカニのはさみのようにイエス様をつかんでいます。彼の左腕が異常に短く見えますが、そのためか左手はさらに力が入った状態でイエス様の右肩をつかんでいます。ローマ軍兵がイエス様に手をつけていますが、力はなさそうです。どっしりとした鋭い金属の鎧が光っていますが、殺気や闘志が感じられません。彼らは送られただけですから。軍兵はこの物語に入りたくなさそうです。ところが、軍兵の間にもう一つの手が見えます。灯を持っている手です。弟子の一人でしょうか?彼はなぜ軍兵の間で明かりを灯しているのでしょうか?灯を持っていた人の手は、まるで絵を描いている画家の手のように見えます。そして位置もこの絵全体を描写しているようです。カラヴァッジオは作品の中に自分を入れて自分の信仰の内面を表現していた作家です。灯を持った手はカラヴァッジオ本人でしょう。彼は軍兵がイエス様を捕まえられるように灯をもって照らしています。もしかしたら、自分をユダの助力者と表現したかも知れません。もう少し広い視野から見れば、イエス様の恐れとユダの積極的な裏切り、弟子たちの消極的な裏切りも神様の救いの働きを止めることはできないそれぞれのパズルのピースです。カラヴァッジオは、全知的作家の視点を持ち、イエス様と目線を合わせることはできませんが、キリストの逮捕の事件に明かりを灯しています。十字架が失敗してはいけないからです。

마가복음 묵상 【다 예수를 버리고 도망하니라】 20240215(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 14:43~5214:43 말씀하실 때에 곧 열 둘 중의 하나인 유다가 왔는데 대제사장들과 서기관들과 장로들에게서 파송된 무리가 검과 몽치를 가지고 그와 함께 하였더라14:44 예수를 파는 자가 이미 그들과 군호를 짜 가로되 내가 입맞추는 자가 그이니 그를 잡아 단단히 끌어가라 하였는지라14:45 이에 와서 곧 예수께 나아와 랍비여 하고 입을 맞추니14:46 저희가 예수께 손을 대어 잡거늘14:47 곁에 섰는…

マルコの福音書 黙想 【人間イエス】 20240214(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 14:32~4214:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、14:34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。14:40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。14:41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。14:42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」   異端の中にはイエス·キリストの神性を否定したり、もしくは逆に人性を否定するところがあります。初期のキリスト教の時代にもあったし、今の時代にもあります。教派とかで区分されたりもしますが、ある場合は誤解と無知の中で無分別に混ざっていたりもします。各自が持つ理屈を基準にして聖書を読むと誤りが生じるのです。その中で人性を否定する人々はイエス·キリストは確かに神だったということに対しては認めるが、完全な人間ではなかったと言っています。霊知主義の仮現説(Doceticism)です。彼らは神様と世界を二元論的に理解したため、聖なる神が汚れている人間になることはできないと考えました。イエス様は肉体をもって実在したのではなく、人間世界にしばらく現れた幻の存在であると考えました。したがって、イエス・キリストが十字架に付けられたとしても、苦痛はなかったと信じるのです。   しかし、オーリブ山のゲツセマネで祈っておられるイエス様の姿は、神聖で、力ある神的な威容ではなく、哀れで凄絶な姿です。福音書がイエス様の神性を浮き彫りにしなければならなかったとすれば、おそらく削除されなければならなかったでしょう。なぜなら、今のイエス様の姿は、十字架の恐怖に包まれ、不安に落ちいている、一人の弱い人間だからです。もし、イエス様がご自身のために苦痛を免除し、幻想の中で十字架を背負ったのならば、その十字架は肉体が持っている私たちの恐怖と不安を共感することはできないものです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ヘブライ4:15」 イエス様は確かに神性に基づいて水の上を歩き、死んだ者を生かしましたが、人性に基づいて人間の苦痛をそのまま全て身に受けました。神の子は人間イエスとなられてこの地に来られました。その方は完全な神様であり、また体を持った間違いない人間です。私たちの信仰は、この人格的土台の上から始まります。   イエス様は十字架という使命を知っていましたが、知ることと体験することは違います。その時間が近づくと、恐怖と不安が増幅します。私たちも同じではありませんか?誰もが死を迎えるべきであるということは知っていますが、死の時間が近づく時に恐ろしくて震えます。さらに、その死に多大な苦痛が伴えば、その不安と恐怖に打ち勝つことができる人は誰もいません。ただ身に受けながら死ぬだけです。イエス様も十字架が近づくと驚き、恐れながら震えました。それでイエス様は弟子たちに頼りました。弟子たちは祈るふりもせずに眠っていましたが、再び行って祈りを求められました。私たちは神様に頼り、人には頼らないと言いますが、人を頼らずに生きることはできないでしょう。人を神のように、偶像のように頼ることはないですが、人と共感して互いに不安と苦痛を分かち合いながら生きなければなりません。   この時点でイエス様の願いは十字架の苦痛が免除されたいということでした。「他の方法があるなら他の方法でしていけませんか」と嘆願しているのです。イエス様は父なる神様に「私が肉体を持ってきた限り、この苦痛を受け入れるのはあまりにも恐ろしいことです」と訴えているのです。ルカはこのように描写しました。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。ルカ福音22:44」しかし、その苦痛の中でイエス様はこのように祈りました。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 これは神的宣言ではなく、一人の人間が血と汗を絞り出すまでついに自分をささげた従順です。イエス様の従順は「神様が私たちのために十字架で死にました」という言葉では足りません。「人間イエスが震えながら十字架の上に上りました」です。そして、痛みは依然として免除されていませんでした。今日から四旬節です。弟子たちは「疲れたから眠い」という言い訳でしたが、私たちの言い訳も「忙しいから」です。苦しみの十字架に背を向けずに深く考えることを勧めます。

마가복음 묵상 【인간 예수】 20240214(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 14:32~4214:32 저희가 겟세마네라 하는 곳에 이르매 예수께서 제자들에게 이르시되 나의 기도할 동안에 너희는 여기 앉았으라 하시고14:33 베드로와 야고보와 요한을 데리고 가실쌔 심히 놀라시며 슬퍼하사14:34 말씀하시되 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니 너희는 여기 머물러 깨어 있으라 하시고14:35 조금 나아가사 땅에 엎드리어 될 수 있는대로 이 때가 자기에게서 지나가기를 구하여14:36 가라사대 아바 아버지여 아버지께는 모든…

マルコの福音書 黙想 【聖餐の記憶】 20240213(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 14:22~3114:22 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」14:23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。14:24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。14:25 まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」14:26 そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。14:28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。   KOSTAという集会でイエス·キリストを信じましたが、数年後、信仰と献身の現在が分からず混乱していた時、再びKOSTAに参加しました。最終日に集会を導いた講師は宣教のために献身する青年たちを引き起こし、その日に恵まれた青年たちはあたかも全体起立を命じられた軍人のようにたくましく立ち上がりました。起きずにすっぽりと座っていたのは私だけのようでした。献身したくなうからではありませんでした。何度か経験があり、そういうような集団的な感性に流された対応はしたくなかったからです。もちろん個人的なこだわりにすぎません。皆が立ち上がる集会で、私も皆について立ち上がるのはそれほど難しくありませんが、一人で歩いていく道でその約束を覚えて生きることは、確かに恐いことでした。   そのあとの聖餐式を覚えています。先生方は大きなパンを持って立っており、青年たちは各自の分を裂き、ボウルに入ったぶどうジュースに濡らして食べる聖餐でした。まさに野戦聖餐でした。私はパンのかさが減るほど大きく裂いて、ぶどうジュースをたっぷり濡らして食べました。しばらく噛んで食べるほどの量でした。お腹が空いていたからではありません。何かに渇いていたからです。口の中にはまだ主のからだと血があり、それが少しずつ私の喉に移るのを感じました。聖餐は一対一です。説教の時間には居眠りすることがあるかもしれませんが、聖餐は自分の手で受け取らなければならず、それを口に入れて嚙み砕かなければなりません。自分の六腑で消化しなければなりません。とりわけ聖餐を大切にしているルーテル教会が「私たちのためのキリスト(Christus pro nobis)」といった時は神様の御言葉、すなわち説教のことを言いますが、「私のためのキリスト(Christus pro me)」といった時は聖餐のことを言います。だから、聖餐はイエス様の視線を避けられない個別的かつ直接的なものです。あの日は私がイエス様に献身したことではなく、イエス様が私のために裂かれ、血を流したことを聖餐を通して確認する日でした。   これは断食祈祷会にあったことです。断食が終わると、朝には白粥と大根を入れた味噌汁とみかんを一つが食べられます。人々はおいしい店を探して海外旅行にまで行きますが、世の中で一番おいしいものはお腹が空いた時に食べるもので、喉が渇いた時に飲む水です。だから、ご飯の匂いと味噌汁の匂いが天国の匂いのように思っています。断食が終わった朝、奉仕があったかた食事しうることができませんでした。奉仕を終えて食べようと思いましたが、すぐに礼拝が始まったので食事はできませんでした。人々はお粥を食べて血色が戻ってきて大きくなった声で賛美していましたが、依然としてお腹が空いていた私は一隅に座って礼拝しました。礼拝には聖餐式がありました。私にだけ特別に与えられたその日の朝食のメニューは、お粥と味噌汁ではなく、イエス様のからだと血でした。一口にもならない飲み物が空腹の体の中に入り、まもなくイエス様の血が毛細血管の隅々まで染み込んでいるようなその日の気分を忘れることができません。キリストの血潮が私の中に流れていることを疑えなかった経験です。   今日の本文には最初の聖餐、すなわちイエス様が執り行った聖餐があります。聖餐がある前にイスカリオテ·ユダはイエス様を売るために出て行き、最後の晩餐の後にペトロと弟子たちはイエス様に対して忠誠を誓いました。しかし、彼らはその誓いを守ることができませんでした。ある人はイエス様を売り、ある人は裏切って逃げました。結果的にイエス様を売ったユダには聖餐がなかったから戻る道を見つけられませんでしたが、イエス様を否定して呪った弟子ペトロには聖餐があったから再び始めることができました。だから信仰をリセット(Reset、初期化)ができたのです。象徴的な解釈ではありますが、福音書の著者も象徴的な記述意図があったのではないでしょうか。間違って、落ち込んで、躓くことは特別な状況ではなく、日常です。イエス様はそのすべてを知っておられるので、ご自身で制定してくださったのが聖餐という聖礼典です。高慢は謙遜に、二つに分かれた心は一つで、無責任は献身に、初期化されなければなりません。私たちの教会は毎月初めの週に大人と子ども区分なしにすべての神様の子どもたちが一堂に会して祝祭(ジャンチ)のような聖餐をします。子どもたちは親たちの聖餐式を見ながら信仰を学びます。聖餐を大切にして、主の聖餐の日に集まりましょう。

마가복음 묵상 【성찬의 기억】 20240213(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 14:22~3114:22 저희가 먹을 때에 예수께서 떡을 가지사 축복하시고 떼어 제자들에게 주시며 가라사대 받으라 이것이 내 몸이니라 하시고14:23 또 잔을 가지사 사례하시고 저희에게 주시니 다 이를 마시매14:24 가라사대 이것은 많은 사람을 위하여 흘리는바 나의 피 곧 언약의 피니라14:25 진실로 너희에게 이르노니 내가 포도나무에서 난 것을 하나님 나라에서 새것으로 마시는 날까지 다시 마시지 아니하리라 하시니라14:26 이에…