Ⅰコリント 黙想7【キリストと連合した聖徒】220513(金) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 6:12~206:12 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。6:13 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。6:15 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。6:16 それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。6:18 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。   「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです15」で、パウロはからだを複数で書いています。直訳すれば体たちです。からだの一部とは独立的な存在でありながら連合的な存在です。人間は独立した人格であり、キリストと連合するときに聖徒として生きることができます。聖徒として生きたからその結果によって連合されるのではなく、そもそも連合されなければ聖徒になることができません。自力で救いを成すのではなく、義とされて救われ、連合によって信仰を営むのです。それが「キリストとの連合(Union with Christ)」です。それぞれの人格は異なりますが、キリストと連合した人々は教会の中でも連合を成すことができます。   毎月に聖餐式を行いますが、聖餐がキリストの肉と血を持って連合するということを知り、それを信じて参加するなら、聖徒の体は決して自分のものではありません。キリストの肉と血を食べることの意味を深く吟味しなければなりません。イエス様が葡萄の枝をもって教えてくださったように枝は木に付いているだけで、実を結びます。   今朝の本文は、有機体としての教会と聖徒のアイデンティティを語っていますが、直接的な動機は淫行に対する警告です。神様と連合した聖徒が淫行することはできないということです。心だけを信じる場合はありません。心が信じれば、体が信じ、考えが信じ、手が信じ、足が信じます。人間は不完全であるので、神様と連合しなければ他のものと連合してしまいます。家庭で連合していなければ、他のものと連合して離脱します。結婚しないことを非難できない時代に生きていますが、結局、家庭が崩れると人間も一緒に崩れるでしょう。世の流れに神様のみことばを裏付けることが解釈ではありません。神様のみことばで世の中を判断することが解釈です。家庭が弱くなることと、性が家庭から出ていくことは、キリストとの連合が断たれたからです。世の嘘にだまされてはいけません。キリストと連合して聖徒聖なる服を着た人は、おそれおそれ気を付けなければなりません。

고린도전서 묵상7【그리스도와 연합한 성도】2200513(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 6:12~206:12 모든 것이 내게 가하나 다 유익한 것이 아니요 모든 것이 내게 가하나 내가 아무에게든지 제재를 받지 아니하리라6:13 식물은 배를 위하고 배는 식물을 위하나 하나님이 이것 저것 다 폐하시리라 몸은 음란을 위하지 않고 오직 주를 위하며 주는 몸을 위하시느니라6:14 하나님이 주를 다시 살리셨고 또한 그의 권능으로 우리를 다시 살리시리라6:15 너희 몸이 그리스도의 지체인 줄을…

Ⅰコリント 黙想6【基準を立てる教会】220512(木) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 6:1~116:1 あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。6:2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。6:3 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。6:4 それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。6:5 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。6:6 それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。6:8 それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。6:11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。   コリント教会の中で争いが起きたとき、聖徒たちは問題を世の法廷に持って行き、戦い合いました。コリントの手紙に敷かれているコリントの文化というのは、快楽と拝金主義でした。財産上の損害の争い、名誉毀損による争いがあったと思います。パウロはそれを懲らしめます。しかし、是非を判断してはいけないということではありません。片方に損害をあるのに我慢しなければならないというわけではありません。もし、意図的な加害があるならば、それは積極的に明らかにし、妥当な責任を負わせなければならないということがパウロの一貫した姿勢です。   ただし、パウロは教会がそれを判断する基準にならなければならないということを言います。教会には神様のみことばがあるからです。みことばで基準を立て、その基準で世を分別しなければなりません。ところが、教会が世にその役割を任せ、世が教会を判断するのが恥ずかしいことです。もちろん、法に依頼しなければならない問題もあると思います。しかし、教会の中で起こる損害の問題、誤解と紛争の問題を世の法に持っていくというこは、当事者だけでなく教会全体が未熟であるということです。教会は、神様のみことばの権威を持って世を解釈し、評価し、判断しなければなりません。

고린도전서 묵상6【기준을 세우는 교회】2200512(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 6:1~116:1 너희 중에 누가 다른이로 더불어 일이 있는데 구태여 불의한 자들 앞에서 송사하고 성도 앞에서 하지 아니하느냐6:2 성도가 세상을 판단할 것을 너희가 알지 못하느냐 세상도 너희에게 판단을 받겠거든 지극히 작은 일 판단하기를 감당치 못하겠느냐6:3 우리가 천사를 판단할 것을 너희가 알지 못하느냐 그러하거든 하물며 세상 일이랴6:4 그런즉 너희가 세상 사건이 있을 때에 교회에서 경히 여김을…

Ⅰコリント 黙想5【教会の戒規】220511(水) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 5:1~135:1 現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。5:2 それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。5:3 私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。5:4 すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、5:5 そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。5:6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。5:7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。5:8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。5:9 私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。5:10 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。5:11 私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。5:12 外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。5:13 外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」   牧師は、聖餐式で戒規のもとにある人に対して聖餐には参加できずに、教会が定めた期間に、謙虚に悔い改めた後に、主の聖餐を回復するようにと告知します。ところで、最近2か月間、私はそれを省略しました。戒規を受けた人がいなく、恐ろしく聞こえますし、ジャンチ礼拝で長い時間を待った子どもたちのために気持ちが焦るからです。聖徒の深刻な罪を発見したときに教会は果たして懲戒を行うことができるかという問題は難題です。聖書的な解釈では難しくありませんが、現実的には難しいです。戒規を受けなければならない牧師も立ち回って懲戒を受けないから,聖徒がそれを受け入れるはずはありません。牧師も聖徒も骨組みは失し、太っています。おそらく職場では懲戒処分があると思います。勤務怠慢や法人カードの違反使用などがある場合、会社掲示板に実名と懲戒理由と懲戒範囲を公開します。それは恥ずかしいことですが、ほとんどは会社を辞めません。なぜなら、会社には権威があり、秩序があるからです。社会の法律と規則​​も同じです。   しかし、教会はそれを失いました。教会で戒規を行うと、ほとんどの人は教会を離れます。来なければいいし、別の教会に行けばいいと思ってしまいます。しかし、すべての教会は神様の教会です。あそこにおられる神様は、ここにあったことを知っておられます。もともと、すべての教会に教籍制度があります。教会の戸籍です。何らかの事由で教会を移る時は教籍を発給します。牧師は牧師に聖徒が移動する理由を伝えて、よろしくと願います。あちらこちらを行ったり来たりすることは、韓国の教会が市場の論理で競争し、乱立した弊害です。問題を起こしてからその問題に責任を負わずに、捨てるように離れていくことはありませんでした。   今朝のパウロの手紙は、教会を立てなければならない時代に書いたものです。淫乱は、コリントという都市で一般に広がってしまった文化でした。そのよなものはいつでも教会に入ることができました。パウロはそれをパン種と言いましたが、今の時代でいえば、コロナにたとえたかもしれません。あまりにも当然ですが、コロナが入ってきたらそれを隔離し、切り取り、消毒しなければなりません。それを受け入れないといって愛がないとは言いません。厳しさが愛の道です。教会の中で再び強制性を強化しようということではありません。道徳的ウイルスの攻撃には、物理​​的な隔離よりも敬虔な共同体性の免疫力が大切です。しかし、神様の裁きは決して自律的ではありません。権威を解体するポストモダンの時代だと言っていますが、世を見ると権威が消えていません。ここから離れてそこに移動しているだけです。神様のみことと教会に対する権威を回復することは、私たちの信仰の根拠を守ることです。  

고린도전서 묵상5【교회의 권징】2200511(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 5:1~135:1 너희 중에 심지어 음행이 있다 함을 들으니 이런 음행은 이방인 중에라도 없는 것이라 누가 그 아비의 아내를 취하였다 하는도다5:2 그리하고도 너희가 오히려 교만하여져서 어찌하여 통한히 여기지 아니하고 그 일 행한 자를 너희 중에서 물리치지 아니하였느냐5:3 내가 실로 몸으로는 떠나 있으나 영으로는 함께 있어서 거기 있는 것 같이 이 일 행한 자를 이미 판단하였노라5:4…

Ⅰコリント 黙想4【使徒の証拠】220510(火) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 4:9~214:9 私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。4:11 今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、4:12 労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、4:13 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。4:14 私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。4:15 たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。4:17 そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。4:18 あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。4:20 神の国は、ことばではなく力にあるのです。4:21 あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。   コリント教会はパウロによって建てられた教会でしたが,一部の人々はパウロを否定し,言葉で離間をはかっていました。彼らはパウロはもちろん、誰の言葉も聞かない人です。教会の中からもアドバイスがありましたが、気にせずに乱れを起こす人でした。もし、パウロに非難されることがあったなら,コリント教会の聖徒は正当に問題を提起することができます。しかし、彼らは実際にパウロの前では言えませんでした。裏で陰口をするだけです。彼らの言葉は、陰謀の言葉で、離間をはかる言葉です。パウロは彼に会って力のない言葉の虚像と信仰の力がないことを明らかにすると警告します。   今日の本文で、パウロは大丈夫と言いますが、文章で隠すことができず、現れる感情というのは、実は心に深い傷がついています。当然ですが、パウロは感情と心を持っている人です。パウロが偉大であれば、偉大であるほど、心は傷ついたものです。パウロがいない間にパウロを否定し、攻撃する人々があり、教会を分裂しようとする人々がいました。教会は分裂の歴史です。人が分裂します。外部からの攻撃ではなく、内部からです。貪欲、悪口、嘘、陰謀する人々によって分裂しました。しかし、責任は偽の数人にあるのではなく、それらの偽に分裂を許容してしまった共同体にあります。   歴史的に否定できない事実は、偽物は神様の教会を分裂しますが、神様は教会を解体させるということです。教会らしさを失うと、歴史的な教会は消えていきます。教会を再び起こさなければならない目的と使命が明らかになると、次の人々によって教会は再び立ち上がります。教会の存在の意味と目的を知り、それを守るような使命がなければ、教会は他人のことになってしまい、偽物に犯されてしまいます。パウロが困難にさらされても耐え忍んだのは、パウロが弱いからではなくて、教会を愛することに強いからです。   パウロの偉大さは、それにもかかわらず、まるで親が子どもを育てるように教会を愛するということです。子どもを産み、育てるということはいつも楽しいことばかりではありません。出産の時から苦しみ、重い責任が与えられます。心配と不安と問題は次々と絶えません。育てた子どもたちに心寂しいこともあります。しかし、親は子どもをあきらめません。邪魔者には分裂させる言葉がありましたが、パウロにはこの力がありました。子どもがいるから親は幸せです。教会があるからパウロは幸せです。誰がその幸い使命を妨げることができるでしょうか?これがパウロの使徒である証拠ではないでしょうか。

고린도전서 묵상4【사도된 증거】2200510(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 4:9~214:9 내가 생각건대 하나님이 사도인 우리를 죽이기로 작정한 자 같이 미말에 두셨으매 우리는 세계 곧 천사와 사람에게 구경거리가 되었노라4:10 우리는 그리스도의 연고로 미련하되 너희는 그리스도 안에서 지혜롭고 우리는 약하되 너희는 강하고 너희는 존귀하되 우리는 비천하여4:11 바로 이 시간까지 우리가 주리고 목마르며 헐벗고 매맞으며 정처가 없고4:12 또 수고하여 친히 손으로 일을 하며 후욕을 당한즉 축복하고…

Ⅰコリント 黙想3【】220509(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 4:1~84:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。4:6 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。4:7 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。   忠誠、忠実という言葉には力を尽して最後まで絞るような感じがありますが、忠誠、忠実と名づけられている限り、忠実な人が主人ではなくて、忠実の対象が主人です。忠実はしもべが主人に対して行うであり、もし、それに業績があってもそれも主人に従属するものです。もし、神様に忠実したことが自分の功績になるなら、それは神様に対する忠誠ではなく、自分のための業績です。自分のための業績も悪いわけではありませんが、それを忠誠だとは言えません。   もう一度、福音宣教を考えされられます。「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。4:1、2」神様の秘密がしもべに共有されたので、当然のことながら、その秘密を預かったしもべに求められるのは忠実です。任せなかったが人には忠実を求めません。ただ、任せられたら忠実が求められます。忠実はあちこち走り回るのではなく、責任を持って任せられた仕事をこなす力です。神様の秘密を任せられたのですか?任せられてなければ否といえばいいのですが、任せられたら忠実を尽くさなければなりません。   信仰の初期に、アメリカの牧師たちの説教集をよく読みました。それらの本の中で印象的な表現は「献身したクリスチャン」でした。献身したクリスチャンという言葉が出ると、必ず問題が解決されます。コミュニティは献身したクリスチャンが与える信頼の中で安定します。世の人々は神様を信じません。ただ、献身したクリスチャンを信じます。そしてそれが神様を信じる入口になります。

고린도전서 묵상3【헌신된 그리스도인】2200509(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 4:1~84:1 사람이 마땅히 우리를 그리스도의 일군이요 하나님의 비밀을 맡은 자로 여길지어다4:2 그리고 맡은 자들에게 구할 것은 충성이니라4:3 너희에게나 다른 사람에게나 판단 받는 것이 내게는 매우 작은 일이라 나도 나를 판단치 아니하노니4:4 내가 자책할 아무 것도 깨닫지 못하나 그러나 이를 인하여 의롭다 함을 얻지 못하노라 다만 나를 판단하실 이는 주시니라4:5 그러므로 때가 이르기 전 곧…