QT

ルカ 9章 1~17
9:1 イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。
9:3 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。
9:4 どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。
9:5 人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」
9:6 十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。
9:7 さて、領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。ある人たちは、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、
9:8 別の人たちは、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人たちは、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」と言っていたからである。
9:9 ヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか。」ヘロデはイエスに会ってみたいと思った。
9:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。
9:11 ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。
9:12 日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」
9:13 すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」
9:14 というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」
9:15 弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。
9:16 そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。
9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。

 

本文にはイエス様が教えてくださった伝道者の生き方、そして五つのパン、二匹の魚の記事があります。それぞれ異なる話しが一日の本文にあるので難しいです。まず、伝道者の生き方について考えてみました。「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。3‐5」準備してかた出発しても地元で調達しても、源泉的な供給策は神様であるからです。これのゆえに伝道者が神様の働きをする自信を持ちます。人のしたいことなら人が準備しなければならず、神様の働きなら神様がご用意くださいます。その中で人が神様の働きに用いられるということです。

 

人と財政は宣教の主体ではありません。宣教の主体は神様であり、人と財政は神様が用いられる道具です。それで、神様の働きをする人は、神様のご用意されたものの上で自分の人生を生きるので、不安の理由がありません。信仰のゆえに不安であるならばそれは矛盾です。信仰ではないかもしれません。「杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」と言われたのは、杖に頼らず、パンに頼らず、お金に頼らず、少し備蓄した生活の余裕にも頼ってはいけないということです。神様を信じるということは、神様ではないものを信じないということです。

 

長い留学生活を終えて神学校に入る時、もう家族がおり、お金は一杯もありませんでした。日本政府と大学から多くの恩恵を受けて勉強した私としては、4年間支払わなければならない神学校の学費は現実的に不可能な金額でした。入学すると仕事はできず、貯えもありませんでした。神学校で私を相談したスタッフは、神学校に入るような信仰があるのかチェックして、それから財政状況をチェックしました。私はそれが同じことだと思いましたが、別々に聞かれました。信仰はあるようですが、お金はないようですので、学費について信仰を強調せずに、学費をきちんと準備するようにと言われました。周りにも大変心配をかけました。しかし、私は「今でなければ信仰で生きる機会はない」と宣言しました。

 

その時も今も同じ考えを持っています。「私が行けば、私が準備しなければならない、しかし神様が召されれば、神様がご用意なさる。」私は4年間、今朝の本文に出てくる五つのパン、二匹の魚を食べて生活しました。毎朝、神様がくださるマナを食べて生きました。どこから来たのかわかりませんが、授業料と生活費は与えられました。ぎりぎりではありませんでした。かえって困っている神学生を助け、財政にも教会を精一杯仕えました。個人的に宣教師もサポートしました。神様の働きは、持っているものを分けて使うことではなく、神様の働きにささげ、そのうえに神様与えられるものを持ってしていきます。宣教の主体は神様であるからです。それが五つのパン、二匹の魚の奇跡です。そういえば、伝道者の生き方と五つのパン、二匹の魚の奇跡は、異なるテーマではないかもしれません。