ヨハネによる福音書 黙想 【広場を通るろばの子】 20250212(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 12:12~19 12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、 12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」 12:14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。 12:15 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」 12:16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。 12:17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。 12:18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。 12:19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」     時は過ぎ越しの祭りであり、すべてのユダヤ人がエルサレムに集まっていました。イエス様がエルサレムに入られると、人々はナツメヤシの枝を手にし、「ホサナ!」と叫びながらイエス様を歓迎しました。イエス様の人気は最高潮に達していました。しかし、その人気は政治的な人物を歓迎するものでした。長年の圧政に疲れ果てたユダヤ人たちは、ローマからユダヤを救う政治的英雄を待ち望んでいたのです。 イエス様はエルサレムに入る際、ゼカリヤ書9章の預言を成就するために、子ろばに乗って入られました。小さなろばに座るイエス様の姿は、ご自身が政治的英雄ではないことを雄弁に物語っていました。馬に乗り、高いところから人々を見下ろすのではなく、人々の目線に合わせて挨拶し、子ろばの行列を進まれたのです。弟子たちは、なぜ子ろばなのか理解できず、それを不満に思ったかもしれません。しかし、後になってその意味を悟ることになります。 ナザロの奇跡を目の当たりにした多くの人々がその出来事を証言しながら、イエス様の行列に加わりました。そして、人々の歓声はますます高まっていきました。しかし、パリサイ人たちはイエス様の人気に危機感を覚えました。彼らは政治的な理由でイエス様を警戒し、人々は政治的な理由でイエス様を歓迎していました。しかし、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られたことは、彼らの期待とは全く異なるものでした。 イエス様がエルサレムに向かわれたのは、政治的な勝利を得るためではなく、罪の代価を支払うための法的手続きを遂行するためでした。イエス様は軍隊を率いてローマと戦うことなく、罪を背負い、十字架で死なれる道を選ばれました。人々はイエス様が政治的に勝利することを望みましたが、イエス様は死ぬためにエルサレムへ向かわれたのです。 キリスト教の政治勢力化は、最も基本的な誤解です。イエス様は政治を通じて正義を実現するために来られたのではありません。政治は正義を扱う場ではなく、人々の生計を支える仕組みであり、そこには複雑な利害関係が絡み合っています。各々の正義の尺度は誤解や扇動を生み、敵意や暴力を生み出すだけです。 今、政治目的で動員されたキリスト教徒は、お互いに殺せと叫び合っています。その叫びの中を、イエス様は静かに子ろばに乗って通り過ぎておられます。ご存じでしょうか?かつて政治的な目的でイエス様を熱烈に歓迎した人々が、すぐに十字架につけろと叫んだことを。今、広場では正義が叫ばれているのではなく、政治的権力を求める人々によって扇動された群衆がいるだけです。信仰が政治的利益の道具として利用されてもよいのでしょうか?私たちは、壇上で叫ぶ者たちの怒りや扇動に巻き込まれるのではなく、子ろばに乗られた、小柄なイエス様の謙遜と献身を見つめ、従わなければなりません。

요한복음 묵상 【광장을 지나는 나귀 새끼】 20250213(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 12:12~19 12:12 그 이튿날에는 명절에 온 큰 무리가 예수께서 예루살렘으로 오신다 함을 듣고 12:13 종려나무 가지를 가지고 맞으러 나가 외치되 호산나 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이 곧 이스라엘의 왕이시여 하더라 12:14 예수는 한 어린 나귀를 만나서 타시니 12:15 이는 기록된바 시온 딸아 두려워 말라 보라 너의 왕이 나귀 새끼를 타고 오신다 함과 같더라 12:16…

요한복음 묵상 【깨어진 옥합, 쏟아진 향유】 20250212(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 12:1~11 12:1 유월절 엿새 전에 예수께서 베다니에 이르시니 이곳은 예수께서 죽은 자 가운데서 살리신 나사로의 있는 곳이라 12:2 거기서 예수를 위하여 잔치할새 마르다는 일을 보고 나사로는 예수와 함께 앉은자 중에 있더라 12:3 마리아는 지극히 비싼 향유 곧 순전한 나드 한 근을 가져다가 예수의 발에 붓고 자기 머리털로 그의 발을 씻으니 향유 냄새가 집에 가득하더라…

ヨハネによる福音書 黙想 【割れた壺、注がれた香油】 20250212(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 12:1~11 12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。 12:2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。 12:3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 12:4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。 12:5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。 12:7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 12:8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」 12:9 すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。 12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。 12:11 彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。   イエス様はラザロの出来事の後、殺害の陰謀が始まると、荒野に近いエフライムという場所に行かれ、過越の祭りの六日前に再びベタニアに戻られました。過越の祭りの六日前とは、イエス様の死が近づいていることを意味します。世の罪を負う小羊は過越の祭りに血を流されるからです。したがって、本日の本文の香油の壺の出来事は受難週の始まりです。イエス様が再びベタニアに戻られたのは、時が来て十字架を背負うため、苦しみを受けるためでした。 マリアは高価な純粋なナルドの香油をイエス様の足に注ぎ、自分の髪で拭いました。壺を砕いて注ぎ、髪でイエス様の足を拭ったため、それは取り返しのつかない方法で完全に消費されました。その価値は当時の労働者の一年分の賃金に相当するものでした。彼女はそれを現金に換えて献金したのではなく、壺ごと包装して贈り物として捧げたのでもありません。マリアは再び取り戻せないように、その壺を砕き、惜しみなく注ぎ尽くして捧げたのです。人間イエスは苦難が始まるその日に、マリアと彼女が捧げた香油によって慰められたことでしょう。 まるで全焼のいけにえを捧げるとき、何一つ残さず完全に焼き尽くすように、彼女は惜しみなく捧げました。その価値は香油の値段にあるのではなく、完全に捧げたいと願った彼女の心にあります。神様に自分の心を捧げるとき、惜しみなく、ためらいなく、後悔なく、完全に燃え尽きるように捧げること、それにこそ真の価値があります。ユダのように計算する人、神様と取引をする人、陰で何かを隠し持つ人には、この完全に捧げる礼拝の喜びを知ることはできません。 ツァレファテのやもめは最後の一握りの粉と油でエリヤをもてなし、やもめの二レプタの話の本質もまたすべてを捧げること、完全であることにあります。マリアの香油が美しいのは、その香りが良いからでも、その値段が高いからでもなく、すべてを捧げてもなお、もっと捧げたいという純粋な心があったからです。アナニヤとサッピラが突然死したことよりも、もっと哀れなことは、彼らが香油を砕いて捧げる喜びを知らなかったことです。 弟子たちの中で会計を担当していたイスカリオテのユダは、マリアが捧げた香油を経済的価値に換算しました。そして、それを売って貧しい人々を助けなかったことを非難しました。しかし、ユダの本当の関心は貧しい人々にあるのではなく、現金そのものにありました。もっと具体的に言えば、マリアが香油の壺を献納すれば、自分がそれを現金化し、自分の意志で管理し、流用あるいは横領することもできたのです。そのため、ヨハネはユダを盗人と指摘しました。ユダが哀れなのは、神様の前にいながら、神様に従うふりをしながら、一生計算ばかりして生きたことです。 マリアの香油はラザロを生き返らせてくださったことへの感謝ではなく、イエス様のお葬式の準備でした。マリアが当時その意味を理解していなかったとしても、イエス様とヨハネ福音書は香油の壺の出来事をそのように定義しています。マリアはイエス様のために最も良いものを捧げたいと願い、ユダは自分のために計算に没頭していました。 その結果、マリアの香油は、イエス様のお葬式のために捧げられた最初の香ばしい供え物となり、永遠に記憶されました。一方、経済的価値ばかりを求めたユダの合理主義は、「血の畑」で内臓が裂けて死ぬ結末を迎えました。ユダと同じように計算に長けた祭司長たちも、イエス様を殺すだけでなく、ラザロまで殺そうと計算していました。

요한복음 묵상 【깨어진 옥합, 쏟아진 향유】 20250212(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사 (복제)

요한복음 12:1~11 12:1 유월절 엿새 전에 예수께서 베다니에 이르시니 이곳은 예수께서 죽은 자 가운데서 살리신 나사로의 있는 곳이라 12:2 거기서 예수를 위하여 잔치할새 마르다는 일을 보고 나사로는 예수와 함께 앉은자 중에 있더라 12:3 마리아는 지극히 비싼 향유 곧 순전한 나드 한 근을 가져다가 예수의 발에 붓고 자기 머리털로 그의 발을 씻으니 향유 냄새가 집에 가득하더라…

ヨハネによる福音書 黙想 【神を殺す人々】 20250211(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ヨハネによる福音書 11:45~57 11:45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。 11:46 しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。 11:47 祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。 11:48 あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」 11:49 しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。 11:50 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」 11:51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、 11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 11:53 その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。 11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。 11:55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た。 11:56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。」 11:57 祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。   今この瞬間にも、神様を嘲り、指をさして非難する人がいるでしょう。たとえ彼らが神様を否定し、侮辱したとしても、神様は決して彼らの悪口によって否定されることも、侮辱されることもありません。その悪行の重みは、ただ彼ら自身の頭上に降りかかるだけです。神様は、人間の邪悪な動機さえも、ご自身の義なる御業のための材料として用いられます。 イエス様の人気と影響力に危機感を抱いた宗教的権力者たちは、イエス様を殺すための陰謀を企て始めました。大祭司が掲げた名目はこうでした。「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。11:50」 これは、イエス様の存在が原因でローマがユダヤを敵視するという無理な主張であり、イエス様を殺す正当性を説明するための言葉にすぎません。 しかし、イエス様がいるからといって、ローマがユダヤを憎むことなどあり得ません。これは宗教的権力を維持するための卑劣な陰謀にほかなりません。そして、ここに神様の逆転の御業が見られます。大祭司の言葉は、まるで神様の救いの預言のように響きます。神様を殺そうとする悪意に満ちた殺害計画の言葉が、全人類を救う贖いの預言となったのです。 人間は邪悪ですが、神様はその邪悪さに屈することはありません。人間は神様を侮辱しますが、神様は決して侮辱されません。人間は陰謀を巡らせますが、神様はその陰謀に倒れることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、キリスト教信仰を嘲笑し、「聖書とキリスト教は間もなく消え去り、私の著作のほうが広く読まれるようになる」と語りました。しかし、彼の死後、彼の家は聖書協会の倉庫となり、聖書がそこから広まっていきました。 神様は、人間の愚かさと邪悪さに決して負けることはありません。ヴォルテールは神様を侮辱しましたが、神様は彼の言葉さえも愛のうちに用いられました。殺害計画の言葉が、福音の宣言となったのです。ユダヤ人は神様を殺そうとしましたが、神様はユダヤ人によって殺されることはありませんでした。ユダヤ人は神様を侮辱しましたが、神様は決して侮辱されませんでした。イエス・キリストを死に追いやったのはユダヤ人ではなく、その邪悪な人間の陰謀や策略をも超えて働かれる神様の愛です。神様の愛は、人間のいかなることにも決して敗北することはありません。

요한복음 묵상 【하나님을 죽이려는 자들】 20250211(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 11:45~57 11:45 마리아에게 와서 예수의 하신 일을 본 많은 유대인이 저를 믿었으나 11:46 그 중에 어떤 자는 바리새인들에게 가서 예수의 하신 일을 고하니라 11:47 이에 대제사장들과 바리새인들이 공회를 모으고 가로되 이 사람이 많은 표적을 행하니 우리가 어떻게 하겠느냐 11:48 만일 저를 이대로 두면 모든 사람이 저를 믿을 것이요 그리고 로마인들이 와서 우리 땅과 민족을…

요한복음 묵상 【나사로야 나오라】 20250210(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 11:36~44 11:36 이에 유대인들이 말하되 보라 그를 어떻게 사랑하였는가 하며 11:37 그 중 어떤이는 말하되 소경의 눈을 뜨게 한 이 사람이 그 사람은 죽지 않게 할 수 없었더냐 하더라 11:38 이에 예수께서 다시 속으로 통분히 여기시며 무덤에 가시니 무덤이 굴이라 돌로 막았거늘 11:39 예수께서 가라사대 돌을 옮겨 놓으라 하시니 그 죽은 자의 누이 마르다가…

ヨハネによる福音書 黙想 【ラザロよ、出て来なさい】 20250203(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 11:36~44 11:36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」 11:37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。 11:38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。 11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」 11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」 11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」 イエス様がすでに死んだラザロを生き返らせた物語です。イエス様はラザロが亡くなり、四日が過ぎた後に葬儀の場に到着されました。しかし、ラザロの家に到着したイエス様にラザロの命を求める人は誰もいませんでした。誰もイエス様に「癒してください」と願わず、「生き返らせてください」と求めることもありませんでした。ただ、「主よ、もっと早く来てくださっていたなら、彼は死ななかったのに」と、恨みがましく嘆く言葉があるだけでした。人々の悲しみには限りがありませんでしたが、彼らはイエス様の力には限界があると考えていました。 イエス様は、体が腐敗し、自然に還ろうとしていたラザロの前に立たれました。イエス様がその時に到着されたのは、偶然ではなく、意図的なものでした。イエス様は、ラザロが亡くなるまでわざと家に行かず、彼が危篤であった時にも急いで向かわれることなく、時間を遅らせました。それは、イエス様が時間を統制しているのは、信仰において必ず学ばなければならない必修の授業を備えておられたからでした。 イエス様は、障害を持つ人を癒し、死にかけた病人を救い、ナインの町のやもめの息子を生き返らせ、またヤイロの娘をも生き返らせました。しかし、そのたびに人々はそれを「死に打ち勝った出来事」ではなく、「命が少し延びた奇跡」として喜んでいました。しかし、ラザロの場合は異なりました。彼は死後すでに腐敗が始まり、その状態から再び生き返ったのです。これは否定しようのない「復活」でした。死が訪れる前に奇跡を行い、死を未然に防いだのではなく、医学的に明らかな「死」を覆し、復活させた出来事だったのです。 イエス様はマルタに問いかけられました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。11:25、26」イエス様は、イエス・キリストを信じる信仰が、死を超えて広がるものであることを教えなければなりませんでした。罪を赦し、死を打ち破る信仰がなければ、信仰は単なる現実的な助けを求める手段にすぎなくなってしまいます。そして今、週の始まりの忙しい月曜日の朝、イエス様は私たちにもう一度問いかけておられます。「わたしはよみがえりです。いのちです。あなたは、このことを信じますか?」

ヨハネの福音書 黙想 【死で終わる病気】 20250208(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 11:1-16 11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。 11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。 11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。 11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」 11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」 11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」 11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」 11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。 11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。 11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」    日々発達していき、注目されている科学の中でも、最も注目される分野は医学でしょう。 科学の中には、科学者ではない一般人にとって少し便利になるだけ、気になっていた疑問が解消されることに止まる分野も多い反面、医学はすべての人に適用され、すべての人が必要性を感じる分野であるためです。それなら、なぜ人は医学に必要性を感じているのでしょうか。 それは、そのすべての人に訪れてくる「死」があるためです。    その死を避けようと、少しでもその時を遅らせようと医学は発展し続けてきました。 しかし、そのような発展にもかかわらず、今もなおこの死を完全に解決することはできませんでした。 それはすべての人々が持っている一つの「病気」のためです。    今日の箇所のラザロは病気によって病み、やがて死を迎えました。 実際にイエス様も彼は死んだとをおっしゃっています。 しかし、イエス様はラザロの病気を指して、「死で終わるものではない」と言われました。 彼が死んでしまうことを知っていたにもかかわらず、そのように言われたのです。 イエス様の目線で、その病気はラザロを「完全に」死なせることはできない病気だったのです。    しかし、すべての人が持っている、その存在を完全に死なせることができる病気があります。 それは「罪」という病気です。 その病気はこの世の誰も治せない病気です。 だからこそ、その病気を治せる唯一の存在、イエス様がこの地に来られたのです。    イエス様はこの地に来られて、ただ人々の肉の病気だけを治してくださったのではありません。 人々の本質の中にある罪という病気を治すために、十字架の死と復活という唯一で、確実な処方をしてくださったのです。…