QT

マタイ 23章 13~24
23:25 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
23:26 目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
23:27 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
23:28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。
23:29 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、
23:30 こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』
23:31 こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。
23:32 おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。
23:33 蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。
23:34 だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。
23:35 それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。
23:36 まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
23:38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
23:39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

 

神殿を頼りとしていたユダヤ人は、バビロン捕囚時代の神殿崩壊によって、頼れる信頼の根拠が律法しかありませんでした。70年が過ぎ、帰還した後、ユダヤ人たちは、神殿を再建し、祭司は職務に復帰しましたが、捕虜の期間中、ユダヤ人においては祭司の権限というのはやや後退してしまいました。

 

説教で述べたことがあるかも知れませんが、ペルシャ時代からギリシャ時代に移る過程でギリシャ王朝が任命した祭司たちは、レビ系列でなかったので、祭司への信頼と権威が落ち、その状況の中で律法を解釈する律法学者という階級が生まれました。

 

レビ族出身のアロンの血統という世襲祭司はモーセ五書だけを教えましたが、学問的に世襲祭司よりも優れていた、一般信徒徒出身の律法学者たちは、旧約聖書全体をテキストにして民を教えました。この改革的な勢力をパリサイ派と呼び、パリサイ人の登場で聖職貴族階級と律法学者階級が対立し始めたのです。

 

そういう味で、初期のパリサイ人は、進歩主義者だったのです。当時、サドカイ人はハスモン王朝と癒着していた政治団体と何も変わらず、パリサイ人は、そのような宗教的な腐敗に問題を提起し、律法と聖潔を目指した信仰運動でした。

 

しかし、イエス様の時代はそれから、すでに150年が過ぎた時代です。結局、パリサイ人も政治化されました。本来ね動機が悪かったわけではないものの、宗教と政治の中で既得権を味わい、その後、信仰的本質が変質してしまいました。しかもそれに彼らは気づきません。自分たちの立場を信仰と定め、それを固く信じていたのです。

 

今朝に続く残りの3つの「わざわい」を読んでみると、3つの並列ではなく、一つのことを繰り返します。繰り返しによる偽善ということに対する強調です。わざわいのを宣言において一つも偽善、二つも偽善、三つも偽善に対する確認です。

 

イエス様がこれほどに怒ったことがあったでしょうか?イエス様が怒った対象が異邦や世ではなく、信仰者であったという、衝撃的な事実を受け入れなければなりません。世と区別したという安心感はかえって偽善の材料になるかもしれません。確かに区分しますが、自分の思い込みから、自分自身を区別しなければなりません。それ以外に言葉や行動をもって偽善に気をつけようするなら、それ自体がもう既に偽善なっています。