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ヨブ記 QT10 211012火【疑わしきは罰せず】ヨブ記 6章 14~30

ヨブ記 6章 14~30
6:14 落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。
6:15 兄弟たちは水無し川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。
6:16 それは氷で黒ずみ、雪で隠される。
6:17 炎天のころには、流れがなくなり、暑くなるとその場所から消える。
6:18 隊商はその道筋からそれ、荒れ地に上って滅びる。
6:19 テマの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。
6:20 彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやって来て、辱めを受ける。
6:21 今や、あなたがたはそのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。
6:22 私が言ったことがあるか。「私に贈り物をせよ」と。「あなたがたの財産の中から私のために賄賂を贈れ」と。
6:23 あるいは「敵の手から私を救い出せ。横暴な者たちの手から私を贖い出せ」と。
6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。
6:25 真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。
6:26 ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。
6:27 あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す。
6:28 今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。
6:29 思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。
6:30 私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。

 

エリファズは良い言葉を言いましたが、彼自身ヨブからは事実関係を聞いたわけではありません。ヨブの答えはエリファズに対する答えでもありますが、自分の中心を知っておられる神様への訴えであるかもしれません。誰が人の心を知り、その心を判断することができるでしょうか。

 

特に神様の前に立っている人間の真実さについては、誰もそれを測定することすらできません。信仰的に行うと、賞賛されることより、誤解を受けることも多くあります。もちろん人の目で偽善を見つけるのは難しいことでもあります。私たちは、信仰さえも行為と情熱に基づいて序列化することを好みますが、人の魂の中にある信仰を測るということが無理なことです。

 

憲法に「無罪推定の原則」があります。有罪が確定するまで被告は無罪とみなされます。捜査する人の経験や心証では、疑いがあっても犯罪者扱いはできません。有罪者に対して罪に定めることが出来ないのは事実ですが、もしかしたら罪のない人が濡れ衣を着せられることがないようにするためのものかもしれません。

 

ヨブの弁論は正当です。正義を言う友人に事実は伝えるべきですから。友人は思っていることが自分の中で確信になり、自分の論理を立てていきますが、ヨブは神学的悩みだけが蓄積されていきます。人間を説明することができないように苦難を神様の罰で説明することはできないということです。人間が知らないことを知るということは、いかに偉大な発見でしょうか。

 

ヨブに対する誤解は、神様を知ることの誤解です。私を取り巻く環境と人間から起こっていることに対し、無罪推定の原則を適用したいと思わされました。私の推定、私の中でさらに大きくなる確信を捨てて、理解と慰めの言葉を始めたいと思います。騙されることがあっても、「疑わしきは罰せず」の原則を守ったので指摘される非はないと言えるでしょう。