QT

ヨブ記 22章 1~20
22:1 テマン人エリファズが答えた。
22:2 人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。
22:3 あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。
22:4 あなたが神を恐れているためか。神があなたを責められるのは。神があなたとともにさばきの座に入って行かれるのは。
22:5 いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。
22:6 あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、
22:7 疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。
22:8 土地を所有している有力者のように、そこに住む、名のある者のように、
22:9 あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。
22:10 そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。
22:11 あるいは、闇のために見ることもできなくなり、みなぎる水があなたをおおうのだ。
22:12 神は天の高きにおられるではないか。星々の頂を見よ。それらはなんと高いことか。
22:13 あなたは言う。「神に何が分かるだろうか。黒雲の中からさばくことができるだろうか。
22:14 濃い雲が覆いとなって、神は見ることができない。神は天空を歩き回るだけだ」と。
22:15 あなたは昔からの道を守って行くのか。悪人どもが歩んだあの道を。
22:16 彼らは年若くして取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。
22:17 彼らは神に向かって、「私たちから離れてくれ」と言った。全能者は彼らに何をなさるだろうか。
22:18 しかし神は、彼らの家を良き物で満たされた。だが、悪者のはかりごとは私と何の関係もない。
22:19 正しい者は見て喜び、潔白な者は彼らを嘲って言う。
22:20 「まことに、私たちに向かい立った者は滅ぼされ、悪人どもが残した物は火が焼き尽くした」と。

 

22章から26章は、ヨブと友人の3回目の議論です。友人たちは、ヨブに悔い改めを促しましたが、ヨブの立場が変わらなかったので、ヨブに対する非難と攻撃の水位を高めます。エリファズは、ヨブの苦しみについて、間違いなく誰かの財産を奪い、貧しい人々に慈悲を与えず、権力と富を用い、利益を貪ったからだと言います。もちろん推測です。その推測は、神様は、人間の行為によって処罰される方であるという考え方に基づいています。

 

しかし、ヨブは人を搾取する無慈悲な人ではありませんでした。エリファズは,ヨブが主張する自分の敬虔が神様に利益にならないと言いながらも,自分が推測したヨブの搾取が神様の懲罰を受けるようになった原因である、という矛盾的な話をします。隣人の権利に対する尊重と配慮が神様に罰を受けないためのこと、または祝福を受けるためのこととして展開される論理に虚無を覚えます。

 

エリファズの中では、神様と自分の信仰の関係で何かの計算法があるようです。 「あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。」神様の利益を取り上げます。いわゆる「ギブアンドテイク(Give and Take)」です。このような論理が成立すれば、神様に有益にならなければ、人間は祝福を受けることができないので、人間は祝福を受けるために神様に一生懸命何かをしなければなりません。もちろん神様に対して何かをするということは素晴らしいことですが、恵みを知らずにそれを行うならば、それは友達のケースのように、むしろ刃物になることがあります。ささげれば祝福を受け、ささげなければ罰を受けるという考え方が律法主義です。

 

「人間に対する神様の恵み」と「神様に対する人間の信仰」は、それ自体が相互関係にあります。関係性を離れては単なる無駄話にしかなりません。神様と人の関係が「取り引き」になってはいけません。それを区別する必要があります。新約聖書で使う「恵み(カリスκαρις)」という言葉は、値なしに与えられる救いの恵み、つまり福音です。たとえば、親の愛という恵みを返すと言うときに、それを債務の返済という取り引きの意味で考える人はおそらくいません。愛を受けることが恵みであり、それをまた伝えていく、流していくことが恩返しです。エリファズも多くの恵みを受けています。自分の罪は隠されたまま祝福の生活をしています。ヨブを攻める前に、神様から受けた恵みを少しでも、かわいそうなヨブに受け流せたら、それは素晴らしいのではないかと思います。