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列王記第二 8:1-6

8:1 エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」

8:2 この女は神の人のことばにしたがって出発し、家族を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。

8:3 七年たった後、彼女はペリシテ人の地から戻って来て、自分の家と畑を得ようと王に訴え出た。

8:4 そのころ、王は神の人に仕える若者ゲハジに、「エリシャが行った大いなるわざを、残らず私に聞かせてくれ」と話していた。

8:5 彼が王に、死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。ゲハジは言った。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」

8:6 王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。すると王は彼女のために、一人の宦官に「彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりなさい」と命じたのであった。

 

 私たちは神様から恵みを受けたものでありますが、その恵みを簡単に、そしてすぐに忘れてしまう存在でもあります。そして、この事実について私たち自身よりも、神様の方がよくご存じでしょう。
 
 人間に向けた神の救いは取り消されることがあるか、そうでないかの神学的論争は数百年にわたって今も続いています。どちらかが正しくて、片方が間違っていると定義できないのは、どちらも聖書的、神学的根拠を持っているからです。
 
 人間の視点から見ると、救いは十分に取り消される可能性があるものです。それは、先ほどお話ししたように、人間は神の恵みを忘れてしまう存在であるからです。しかし、神様の視点から見れば、神様が救おうと決めた人の救い決して取り消されないでしょう。人間がその恵みを忘れるとしても、神様がその人を忘れず、最後まで彼らにアフターケアを行ってくださるためです。
 
 神様がエリシャを通して息子を生き返らせてくださった今日の箇所の女は、この神様のアフターケアの姿をよく見せてくれる証人であるでしょう。恐ろしい飢饉の中で生き返れたその家族に、再び飢饉が襲ってきます。このままでは、彼らは再び死を迎えるしかないでしょう。その飢饉で生き返ることができたのは、彼らの力ではなく、ただ神様の力であったからです。
 
 しかし、今日、神様はエリシャを通して再び彼らを命に導いてくださいます。改めて神様の力で彼らを飢饉から、迫り来る死から救い出してくださったのです。
 
 今日の私たちも同じく、神様の御言葉を通して死から命に移された者たちです。しかし、それにもかかわらず、自ら再び死に向かって進む者たちでもあります。しかし、神様はそのような私たちを手放さず、私たちを命の道に続いて導いてくれます。
 
 救いが私たちの力で獲得しなければならないことであれば、私たちの救いは明らかに取り消される可能性があります。おそらく、誰も救いに至ることはできないでしょう。しかし、救いが完全に神様の恵みで行われるものであるということは、私たちにとって大きな恵みです。私たちの力ではなく神様の力であれば、それが取り消されることも、忘れられることもなく、一度救おうと決めた者たちに絶えず与えられる神様のアフターケアによって、必ず救いに至ることになるからです。