QT

列王記第二 7:11-20

7:11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。

7:12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」

7:13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」

7:14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。

7:15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。

7:16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。

7:17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。

7:18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、

7:19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。

7:20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。 

 神様の御言葉はどれ一つ地に落ちることなく、そのまま成し遂げられるということを私たちは頭では知っていても、本当にその事を信じることは思ったより簡単にはできません。
 
 今日の箇所で引き続き強調されていることは、神の人が告げたことばのとおり、つまり神様の御言葉のとおりに成し遂げられたということです。
 
 その御言葉を通して誰かは困難から立ち上がられ、誰かは悲惨な終わりを迎えました。しかし、それらのどれも、同じく神様の御言葉です。
 
 私たちは裁きの神様について考えることに恐れを覚えるしかない存在でしょう。しかし、私たちが裁き受けなければならない存在であるということを認めたくなくて、または私たちが信じる良いお方である神様が、そのような恐ろしい方であるということを認めたくなくて、私たちの色々な考えで神様のことをかってに解釈してしまうのです。
 
 しかし、私たちは神様が罪に対して裁かなければならない方であるという事実、罪に対する代価としては容赦なく裁く神様であるということを忘れてはいけません。その事実があるからこそ、私たちに与えられている恵みがどれほど大きなものかを知ることができるためです。
 
 確かに今日の御言葉は、神様の御言葉とおりに裁きがあると、私たちに語っています。しかし、聖書はその裁きから救われる方法も共に私たちに語っています。私たちがよく知っているように、イエス·キリストの福音を信じることです。
 
 私たちに伝えられた神様の御言葉はどれ一つ地に落ちることない。そしてその中には確かに裁きに対する御言葉も含まれています。しかし、そのすべての内容は裁きと救いという別のメッセージではなく、裁きからの救いという一つの御言葉なのです。
 
 裁きに対する御言葉は間違いなく私たちが恐れるべき御言葉であり、その神様を恐れなければなりません。しかし、その裁きから救い出すために、今日も私たちの日常の中で働いておられる方が神様です。そのため、私たちは恐れを通して、より大きな恵みを知ることになるでしょう。
 
 裁きとそれに対する恐れは、誰かにとっては聞きたくもないお知らせであるかもしれません。しかし、救われる者たちにとっては、裁きとそれに対する恐れは、救いへの感謝と喜びをさらに大きくしてくれる美しいお知らせの一部であるでしょう。