神を見上げる信仰(姜旲憬 神学生)・하나님을 바라보는 믿음(강대경 신학생)

神を見上げる信仰 創世記4章1〜7節 姜旲憬 神学生   1.前回は創世記2章と3章から人間の堕落についてお話しました。人間に罪が入ってきたのです。その罪には必ず報酬があります。罪の報酬は死です。善悪の知識の木の実を取って食べたアダムとエバは、神様が語られた「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という言葉の意味に気づかぬまま、エデンの園から追放されました。実際に彼らの肉体が滅びることはなかったからです。しかし神様との関係が絶たれた以上、彼らはもはや死んだ者に他なりませんでした。これが堕落です。ちなみに堕落というのは、神様との関係だけでなく、この世界や自然との関係が絶たれ、そして人と人との関係も破壊されること、それが堕落です。さて4章に入ると、初めて人間の肉体の死が登場します。しかもそれは自然死ではなく殺人による死でした。カインがアベルを殺しました。まさに人間と人間の関係に破壊が生じたわけです。創世記4章8節、「カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。」人類の最初の死が殺人だというのは本当に悲しいものです。ただ殺人にも突発的なものと、計画的で意図的なものがあります。このカインの殺人はどちらでしょうか。明らかに後者の意図的な殺人です。なぜならカインは一緒に野に行こうとアベルを誘いだしたからです。さらに「襲いかかって殺した」という言葉からも、どれだけ残酷だったのかがわかります。第一ヨハネの手紙3章12節にはこうあります。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」別の訳ではカインは「悪い者に属している」と言っています。ここで一つお聞きします。カインは殺人をしたから悪い者なのでしょうか?決してそうではありません。カインは悪い者に属していたからアベルを殺害したのです。カインがいつも神様の前に正しい者ではなく、いつも悪い者として生きていた、少なくとも神様の目にはそう映っていたのです。これは今日の本文を考える上で大きな手がかりになることでしょう。   2.それでは今日の本文を見ていきいます。創世記4章1節から2節前半まで。「人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は、主によって一人の男子を得た』と言った。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。」堕落した人間に対しても、誠実な神様は、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という祝福の約束を忘れることはありませんでした。エバはその主によってカインを得たと告白しています。事実、カインという言葉は、「得る」「獲得する」という意味なのです。そのようにカインを与えられたエバは、次にアベルを産みました。ただアベルという言葉は「空しさ」「儚さ」という意味を持ちます。しかしなぜエバはカインの次に産まれた息子の名前を、このように、アベル、つまり、空しさ、儚さと付けたのでしょうか。聖書はそのことを語ってはいませんが、カインを育てるうちに何かを見たのでしょう。何かを悟ったのでしょう。その何かとは、人間の罪ではないでしょうか。エバは「苦しんでカインを産み」(創3:16)大事に大事に息子カインを育てたのに、またアダムも「顔に汗を流して糧を得て」(創3:19)カインを食べさせたのに、カインの成長を通して、様々な形で、人間とはいかに罪深い存在なのかということを見たはずです。人は虚しく、儚く、土のちりのような存在にすぎないという意味で、次に産まれた息子をアベルと名付けたのでしょう。その名前のように、アベルは兄カインの手によって、あまりにも空しく死んでいくことになったのです。これからその経緯をこれから見ていくことにしましょう。いずれにせよ、カインとアベルは成長し、それぞれの賜物によってアベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者になりました。   3.それでは3節から5節前半までをお読みします。「3しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。4アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。5しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」   4.神様はなぜカインのささげ物には目を留められなかったのか?この解釈については学者たちによって幾つかに分かれます。例えば、動物のささげ物の方が穀物のささげ物より神様に受け入れられるという解釈があります。しかし後にモーセの律法では穀物のささげ物を必要とする規定がたくさんあることから、この解釈は妥当性に欠けると言えます。また、土地を耕す者よりも羊飼いの方を神様は喜んだとする解釈もありますが、創世記2章15節で神様はアダムに地を耕す人になるように言われたこともありますし、そもそも神様は職業を差別される方ではありません。そして三番目の解釈として、重要なのは礼拝であり、この二人の礼拝の差がささげ物の差となって表れたというものです。この解釈がおそらく一般的な立場として受け入れられているものでしょう。ただどれも「ささげ物」に焦点を当てた解釈です。ここで私たちは二つのことを考えなければなりません。第一に、ヘブル人への手紙11章4節の「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。」という御言葉を考えると、二人の差は信仰の差であるということが言える点です。しかもその信仰がささげ物に形となって表れたということです。また第二に、今日の本文の4節と5節を見るとわかるように、神様は「アベルとそのささげ物」に目をとめられ、「カインとそのささげ物」には目を留められませんでした。つまりささげ物の前に、それをささげた人をまず神様はご覧になったということです。この二つの点を合わせてみると、二人の信仰がそれぞれのささげ物に表れたのであり、神様は二人のその信仰に注目されたということが言えるでしょう。因みに韓国語では、この「目を留められる」という言葉が、「喜んで受け取る」という言葉に訳されいますが、正確なのは日本語の聖書で言う、「目を留める」「関心をもって見る」という翻訳です。   5.話を戻して、では二人の信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。本文には信仰という言葉は登場しませんが、「神様が目を留められる」という時に、どういう動機で目を留められたのかを理解する必要があると思います。なので、まずこの「目を留める」という言葉の特徴について見てみましょう。ヘブル語で「シャアー」というこの言葉は、旧約聖書に12回しか登場しない言葉です。そのほとんどが「人が神様を見る」という文脈で使われています。例えば、第二サムエル記22章42節、「彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした。」という時の「目を留める」、また詩篇119篇117節、「私を支えてください。そうすれば私は救われ、絶えずあなたのおきてを見つめることができます。」という時の「見つめる」が本文の「目を留める」という言葉と同じ単語です。他にもたくさんありますが、いずれも神様とその戒めを「見る」という時は、深い関心をもって、信頼をもって見るというニュアンスがあることは明確です。その一方で、「人が人を見る」という時にも使われます。例えば、イザヤ書22章4節、「私から目をそらせ。私は激しく泣きたい。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めるな。」という時の、「目をそらす」もまた「シャアー」という言葉です。「〜から目をそらす」というのは、「そのことだけに関心を持っていた」というニュアンがあるのではないでしょうか。このように「シャアー」という言葉は、人間に対してはそのことだけに目を留める、神様に対しては信頼をもって見る、という意味であることが言えます。では本文の「目を留める」はどうでしょう。主語が人ではなく、神様なのは今日の本文にだけ登場しますが、その言葉のニュアンスは変わりません。なので、神様はアベルとそのささげものには信頼をもって目を留められたのであり、一つのことだけを見るという言葉の特徴から、アベルとカインのささげものを比較することはなかったとも言えるのです。   6.しかしなぜ神様はアベルとそのささげものを信頼してご覧になったのでしょうか。それはアベルが神様を信頼して見ていたからです。神様は個々の人間の行為に対して、それと同じように報われるお方です。それは旧約聖書全体で一貫して語られています。イスラエルの民の不従順な行為の度に、神様はそれに応じた裁きを与えられたのは、私たちもよく知っている事実です。他にも、例えば、第一サムエル記2章30節、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」と語られているし、第一サムエル記15章23節ではサウルに対して、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と語られました。このような神様のご性質はアベルとカインにも同じだったはずです。アベルが神様を見たので、神様もアベルをご覧になった。カインは神様を見なかったので、神様もカインをご覧にならなかった。そう言えるのではないでしょうか。そして何よりもこの二人の「ささげ物」に、それぞれの心がよく表れていることは言うまでもありません。3節ではカインが「大地の実り」を主にささげたと記しているのに対し、4節ではアベルが「自分の羊の初子の中から肥えたもの」をささげたと言っているからです。この「初子の中から肥えた物」というのは最も良いものを意味します。それをアベルは神様に献げたのです。しかし皆さん考えてみてください。羊飼いだったアベルがある日突然神様に一番良い羊を献げるためには、どうすればいいでしょうか。もちろん羊たちの数にもよりますが、私が思うに、彼が普段の生活から多くの羊を飼う中で、神様を見ていたと思うのです。つまり、この羊の中から神様に何をささげれば神様は喜ばれるだろうかと、神様のことを考え、あの羊がいいと予め区別していたと思うのです。そのようにいつも神様に自らの目と心を向けていたはずなのです。でなければ、3節の「しばらく時が過ぎた」その日に、最も良いものを献げることが難しかったことでしょう。神様を見続けていたアベルだからこそ可能だったのでしょう。神様に対するアベルの信頼と感謝がその羊に込められていました。アブラハムがイサクを神様に献げた時、イサクが全焼のいけにえであったと聖書は語っています。それが意味するのは、イサクを献げるアブラハムの従順と神様に対する信頼が、全焼のいけにえとして表れたことを言っているのです。自分を献げるほどの従順がそこにはあったのです。このように、ささげる人とそのささげ物は一つとなります、いわば一体化です。このように、神様はそのささげものに込められる人間の心を喜ばれるお方です。主はホセア書で「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」と言われました(6:6)。ささげものよりも、それをささげる人の心、真実の愛を喜ばれるのです。アベルとそのささげものが、まさにこのようなものだったのではないでしょうか。   7.一方のカインはどうでしょうか。5節では神様が拒まれたことを見て、「激しく怒り、顔を伏せた」と言っています。なぜ神様は拒まれたのか?を考え、自分とささげものに何か間違いがあったのではないかと反省しなかったカインは、この後弟アベルを殺すことになります。しかしここでもう既にカインの心は、殺人へのプロセスを踏んでいたのです。怒って顔を伏せた事実がそれを物語っています。神様から目を背けることが罪に直結します。正しい人はアベルのように神様を見続けています。カインは神様を見ませんでした。だから神様は7節でこのように言います。「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。」受け入れられるとは、別訳にもあるように、カインが神様に対して「顔を上げられる」ということです。つまり神様と顔を合わせることができるということです。しかし、そうできなかったカインの心には、もう既に神様を見ることのできない状態、罪があったのです。旧約聖書では「良いこと行う」という言葉は全て、文法的に未完了形で登場します。まだ完了していない、今も続いているということです。神様の前に正しいこと、それはどんな時でも神様を信頼して、見続けるということ、決して一瞬たりとも神様から目をそらさないということではないでしょうか。カインに対して神様は言われます。「しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せしている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」結局罪を治めることができなかったカインはとうとうアベルを殺してしまうのです。   8.アベルとカインの差は、神様をいつも見ていたのかということです。神を見るということが信仰の表れでもあります。今日の説教題、神を見上げる信仰というのは、実は「神を見る=(イコール)信仰」でもあるのです。この二人の差は大きな違いとして私たちに語られていますが、その一方で二人にはある共通点があります。それは3節にあるように、「しばらく時が過ぎて」ささげ物をささげる日が二人に訪れたということです。このしばらく過ぎてというのは、「収穫の日」という意味になります。この収穫の日にアベルとカインは神様にささげ物を捧げました。私たちにもいずれ収穫の日がやってきます。ある意味でさばきの日が訪れるのです。その時に神様が私たちと私たちのささげものに目を留めてくださるためには、どうすればいいでしょうか。しかしその前に私たちのささげものとは何でしょうか。毎週日曜日にささげる礼拝でしょうか。アベルは神様に最高のささげものを献げました。ただ神様はそれよりもアベルの信仰をもっと喜ばれたはずです。それはいつも神様を信頼し続け、神様だけを見続けた信仰、つまり彼の人生そのものです。ささげものよりも人間が大事なのです。神様は私たちにもそのようなささげものを求めておられるのではないでしょうか。私たちが神様にささげるべきささげ物とは、私たちの人生、私たちの日常です。それが礼拝となり、それを通して私たちの信仰を表していくのです。   9.このように私たちの信仰というのは、点ではなく、線なのです。1日ではなく、毎日なのです。点の信仰ではなく、線の信仰を持つためには、私たちが私たちの信仰をしっかりと考えなければならないでしょう。カインのように、何かあった時、ただ怒り顔を伏せるのではなく、自分の信仰に間違いがあるのではないか、点検し続けることが大事なのです。信仰は抽象的な言葉ですが、しかし本物の信仰とは具体的で実際的なもの、目に見える形として表れるのです。イエス様を信じたザアカイは「財産の半分を貧しい人たちに施します。脅し取った物があれば4倍にして返します」という具体的な決断をしました。また百人隊長の信仰を見てイエス様は「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」と言われました。このように信仰は見えるものなのです。いや、むしろ見えなければなりません。信仰は告白を通しても表れれますが、最も美しいのは、私たちの礼拝、つまり私たちの日常を通して、表される時ではないでしょうか。   10.今は四旬節です。私たちがカインのように悪い者に属する者ではなく、アベルのように神様の目にとまる者として生きていくためには、キリストから目を離してはいけません。かつてカインの側にいた私たちは、キリストの義によってアベルのように神様に受け入れられる者となったからです。民数記21章には、イスラエルの民が神様とモーセに逆らって、「なぜわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」と不満を爆発させました。そこで主は燃える蛇を送り、噛みつかれた民たちは死んでいった記事が記されています。しかし主は一つの青銅の蛇をモーセに作らせ、それを仰ぎ見る者は「生きる」と約束されました。こうしてその青銅の蛇を見た者たちは生きたのです。皆さん、私たちにとってのこの青銅の蛇とは何ですか。ヨハネの福音書3章14〜15節をお読みします。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」私たちのために上げられたお方、イエス・キリストを、私たちは見上げなければなりません。イエス・キリストから目を離さず、見続けましょう。そして私たちに与えられた信仰を通して、信仰の創始者であり完成者である、イエス・キリストに最高の礼拝を、最高の人生をささげましょう。それが私たちの生きる道であり、それが私たちの生きる目的だからです。神様と以心伝心ができる、神様の御心、キリストの想いを私たちが汲み取ることができる、それは本当に素晴らしいことではないでしょうか。幸せな以心伝心を果たすためには、まず相手を見なければなりません。これからもイエス様とアイコンタクトを取り続け、イエス様から決して目をそらさない、そのような枝川愛の教会の礼拝共同体、信仰共同体となることを心からお祈りします。     하나님을 바라보는 믿음 창세기4장1~7절 강대경 신학생  지난 번 설교 때는 창세기 2장과 3장에서 인간의 타락에 대한 말씀을 드렸습니다. 인간에게 죄가 들어온 것입니다. 죄의 삯은 사망입니다. 그럼에도 선악과를 따먹은 아담과…