日本語説教:「骨と骨がつながって」20191229

2019年12月29日「骨と骨がつながって」エゼキエル37:7 今日は2019年最後の主日礼拝です。時間は早いものでもう一年が過ぎ去ってしまいました。一年間お疲れ様でした。去年の今頃、2019年の年間聖句をもって新年礼拝をささげました。エゼキエル書でした。37章1節から10節までの本文を通して、干からびた骨が互いにつながって生き返るというメッセージをお話しました。もう一年を遡ってみると、2018年はイザヤ書54章2節と3節の御言葉を年間聖句に、「広げ、強くせよ」ということばを胸に抱いて新年を迎えました。2018年と2019年には神様が枝川愛の教会に多くの恵みを与えてくださり、礼拝と宣教の幕屋が広く拡張されました。 主日礼拝を午前と午後に分けましたが、それも定着してきていますし、小グループの集まりとQTも定着しているように思います。神様への礼拝がますます多くの人々に拡大し、御言葉が聖徒たちの中にとどまり、その恵みをいただいた聖徒の交わりが拡大しているのです。礼拝と交わりが定着して生きたものとなるならば、伝道は必ず進展します。2020年にはさらに豊かな御言葉の恵みと宣教の喜びが与えられるように、QTと小グループの集いに力を注いでくださることをお願いしたいと思います。御言葉がなければ生活が干からびてしまい、あらゆることが否定的になってしまいます。心配と誤解と憎しみを黙想せずに、神のことばを黙想しましょう。一人ひとりが御言葉のうちに生きる時に教会は生き返ります。 また今年の下半期には会堂購入に関する話が始まり、役員会と教会総会を通して購入を決議し、今は会堂購入に向けて準備しているところです。神様はご自身が与えて下さった御言葉に対し誠実にことを成して下さっていることに改めて気付かされました。今日は一年を締め括る礼拝です。後ろを振り返らなければならない時間です。なので今日の礼拝は1年前の新年礼拝で分かち合ったエゼキエル書のメッセージを再びお話したいと思います。それをもう一度嚙みしめることで、悔い改めるべきことが見え、神様が働かれた証もまた明らかになります。 エゼキエルは今から約2600年前の旧約時代に活動した預言者です。バビロンの時代です。世界史で言えば新バビロニア帝国です。バビロンの時代の中でも最強の時代です。誰もバビロンに抵抗することができない時代、バビロンが絶対的な権力を行使し世界を支配していた時代です。バビロンによってエルサレムは崩壊し荒廃となってしまいました。神に選ばれたと自負していた民はバビロンの捕虜となり、永遠に続くかのようであったダビデ王朝はユダとともに滅ぼされました。とてつもない衝撃が走りました。バビロンに連れて行かれた民は、そこで生活しなければなりませんでした。 エゼキエルはその民たちに対する励ましと同時に、神への礼拝と信仰の回復のために遣わされました。エゼキエルはその廃墟の時代に神のことばを伝えた預言者だったのです。信仰が崩れ落ちてまるで墓のようになった時代でも、預言者は神のことばを伝えなければなりませんでした。神様はエゼキエルを幻の中でどこかに連れて出します。エゼキエルは骨が満ちていた光景を目の当たりにします。死体ではありません。命の痕跡すらない、既に干からびた骨たちの墓場です。神様がエゼキエルにこの幻を見せられたのはなぜでしょうか?それは平地に満ちていた骨がイスラエルであるということを教えるためです。エゼキエルにこう尋ねられます。 37:3「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」本当に難しい質問のように思えます。骨の墓は死の結果ではありませんか?肉もなく皮膚もなく息もありません。死んでから結構な時間が経ったため、水分は全て無くなってしまい、干からびています。しかし神様は言われるのです。37:3「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」 質問に対する明確な答えではないように見えます。干からびた骨が生き返るというのは不可能なことですが、神様がなさるのであれば生き返るという告白でもあると受け取れます。神様が生き返らせないと言うのに生き返ると言えば、それは偽預言者です。また神様が生き返らせると言うのに生き返らないと言えば、それはもっと恐ろしい不従順になります。神様が生き返らせるならば生き返りますと信じなければなりません。神様が生き返るだろうかと尋ねれば、「はい、生き返ります」と答えなければなりません。なのでここから神様がエゼキエルの目の前で骨が生き返ることを示されれば良いのです。エゼキエルはそれを待っていました。しかし神様は骨を生き返らせることをなさらずに、再びエゼキエルにこう語られます。 37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。37:5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。37:6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」 神様はエゼキエルに対して、もう既に死んで何の希望もない、完璧な絶望に向かって神のことばを伝えるようにと言われます。この無理な要求を覚えてください。完璧な絶望の中で神様は生き返ることのできることばを伝えなさいと言われるのです。つまり、干からびた骨たちに息が吹きかけられ、筋と肉が生じ、皮膚で覆われるということを伝えなさいと。私たちは計算が速いようであっても、それは小学校の低学年に習った計算に過ぎません。自分の計算と世の中の合理性によって神の力を否定してしまうと、信仰は干からびた骨のように何も残るものがありません。骨のかけらは信仰の水分を含んでいないため、単なる干からびた骨たちの墓場だけが残るのです。一体誰が神様の働きを不可能だと断言できるでしょうか。 神様はエゼキエルにその骨たちに御言葉を語るように命じられます。死んでいく時も聞く耳を持たなかったのに、今干からびた骨となったものに対して、伝えなさいと言います。しかしその骨が神様のことばを聞けるでしょうか?エゼキエルは骨に向かって神様のみことばを伝え始めます。想像すればするほどこれは滑稽な光景です。信仰のなかった世代に信仰を伝えるというのはおかしな話です。聞く人が誰一人いないので愚かなことのように思えます。それでも預言者は聞くことのない骨に失望することなく、神のことばを信頼して伝えなければなりません。エゼキエルは神に聞き従って神のことばを伝えたところ、何と奇跡が起こり始めたのです。 37:7 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。 筋が生じて、肉が生じて、皮膚がその上を覆って、人の形にまで回復しました。でもその中には息がありませんでした。エゼキエルは再び神様のことばを耳にします。 37:9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。 エゼキエルが神様のことば通りに叫んだ時、その骨たち(彼ら)に息が入りました。息は空から吹いてくるものではなく、四方に散っていた息は神様のことばが宣言される時に一斉に集まってくるのです。骨はこうして息を吹きかけられ、自分の足で立ち、動き始めました。その骨は軍隊の数にまで増えたと言います。エゼキエルの干からびた骨の幻をもう一度読みました。死んだ骨たちが立ち上がり、筋が生じて互いにつながり、肉が生じて力を出し、皮膚で覆われました。 このように聖霊が入り、生きて動き出す、大きな軍隊となったエゼキエルの幻は単なる幻ではなく、実際の教会論です。教会はエゼキエルの幻のようにたてられます。一人で立ち上がって救いを得る人はいません。一人で神を探し求めてくる人もいません。誰かがその人の筋となることで、その人は教会に導かれるのです。筋ができるとどうなりますか?各器官を繋げることができます。太ももとふくらはぎを繋げてあげることで初めて立って歩くことができます。干からびた教会にはそのような筋が必要です。互いが干からびた骨であっても、お互いを繋げなければなりません。分離すると起き上がることはできません。人の体も神様の教会も有機的に繋がりあっているのです。骨一つで何かをすることはできません。 みなさん、QTはしていますか?数日前に読んだエペソ書の御言葉です。4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 筋によって繋がらなければ教会はたてあげられません。神様はエゼキエルに教会を建てることを命じたのではなく、信仰のない骨たちに信仰の御言葉を伝えて、その骨たちを立ち上がらせました。それぞれの筋を通して力を受け繋がり合い、それぞれの器官の賜物にしたがって働き、その体を成長させます。筋が繋がると筋肉が出来てその上に皮膚が覆われます。 コロサイ人への手紙2:19 …このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。 筋は結び合わされると力になります。重たい機械や構造物を繋ぎ合わせるのは一本の太い鉄線ではなく、幾つかの細い鉄線で作ったワイヤーです。ワイヤーは断ち切られることがありません。伝道者の書にこんな御言葉があります。 4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。 教会には繋ぎ合わせる力が必要です。互いが繋がり合い、有機的に建て上げられなければなりません。教会を成している建築資材は多様にあります。部分ごとに、体全体のために、自分だけが持っている独特の賜物に応じてその役割を果たすのです。そうやって集団的にキリストのからだを建築し維持していきます。息が入り軍隊となった時すでに兵士たちの兵科は異なります。賜物と役割が違うからです。それぞれ異なりますが、しかし必ず有機体の中にあってそれぞれの役割を果たさなければなりません。教会はキリストのからだであり、私たちはキリストのからだの各器官です。 キリストのからだである聖徒たちは互いに有機的につながっています。互いの力を合わせ、また助け合い、愛のうちに共に成長していくのです。私たちが一つのからだの各器官であることを深く認識する必要があります。私たちがこの地上で生きて行く間、神様は、私たちがそれぞれの教会に属すると同時に、聖なる公同の教会の一員となって、神様に与えられた賜物を発揮し教会を建て上げていくために奉仕させてくださるのです。これが共に成熟していく道であり、これが教会を強く建て上げていく道です。教会はこのような方法によってのみ成長し、建て上げていくことができることを覚えましょう。一人だけで成長することはできません。一緒に成長させてくださるのです。 60時間断食をしました。断食をした後に食べるお粥は山海の珍味よりも美味しく感じます。美味しいグルメを求めている人は教会に来て断食してみてください。この世で一番美味しいものを食べることができます。感謝なことがなければ断食してみてください。一杯のお粥で心から感謝することができます。お金やご飯のために断食するのではありません。自分のいるべき場所を探すためにするのです。神様がご飯をくださらなければ、干からびた骨のように何もできないのが人間です。 神様の霊が息を吹き込んでくださらなければ、学んでも無知であり、知っていても虚しいものです。その場所に自分がいるために飢えてみるのです。今朝一杯のお粥を食べてから教会に来ましたが、そのおかげで体の節々に力が行き渡り、筋肉にも力が満ちて、顔色も元どおりになり、気力も戻りました。小さなひとかけらの信仰が有機体の中を駆け巡ると、体の節々を繋ぎ合わせ、動かし、生かします。お互いが繋ぎ合わさる筋たちの奉仕がますます多くなればと願っています。どうすればそうなるでしょうか?最後にこの筋の正体についてお話して説教を閉じたいと思います。 4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 筋の正体は愛です。1年を過ごし、今再びこの御言葉の前に立たされています。私たちの筋は1年前よりも強くなったでしょうか?筋はなく骨同士がぶつかり合う音はしませんか?御言葉と息が抜けてしまい、混乱と絶望の中に置かれている人々の筋になってください。彼らを神様のことばと教会に繋ぎ合わせてください。 「息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」と宣言してください。不可能だと思わずに繋いでください。生き返らすのは神様です。愛の筋で結ばれた聖徒たちがキリストのからだなる教会を建て上げていくのです。

한국어설교 송년예배 : 마른 뼈가 서로 연결되어 20191229

2019年12月29日 礼拝 エゼキエル 37:7 에스겔 37:7 「骨と骨とがつながって」「마른 뼈가 서로 연결되어」 趙鏞吉 牧師 조용길 목사 오늘은 2019년의 마지막 주일예배입니다. 시간이 빠르게 흘러서 벌써 일년이 지나갔습니다. 한 해 동안 수고 많이 하셨습니다. 작년 이맘 때 2019년의 새로운 연간 성구를 가지고 신년 예배를 드렸습니다. 에스겔이었습니다. 37장 1절부터 10절까지의 본문을 가지고 마른 뼈들이 연락하여 살아나는 말씀을 가지고 설교했습니다. 일년을…

日本語説教:「救いの希望」20191224

2019年12月24日「救いの希望」 クリスマスイブ礼拝に来られた皆さんを主イエス・キリストの御名によって歓迎し祝福いたします。聖書には誕生日をお祝いする内容が二箇所登場します。創世記に登場するエジプトのファラオ王の誕生日、マタイの福音書に登場するヘロデ王の誕生日の宴会です。エジプトの権力者ファラオが誕生日のパーティーを催し、ユダヤの支配者ヘロデ王が自分の誕生日パーティーを開きました。イエス様の誕生日であるクリスマスは聖書の中に登場しません。クリスマスを記念し始めたのは、初代教会の時からではなく、キリスト教がローマの国教になった時代からです。イエス様の誕生を記念し、お祝いし、感謝するクリスマスは聖書ではなく、教会の歴史に記録されています。私たちがその方をどれほど待ち望んでいたかは教会と歴史が記録するのです。 聖書にはファラオとヘロデの誕生日がありますが、教会史を見ると教会がイエス様の誕生日を記念し始めたことがわかります。その時代はすでにローマ皇帝もイエス様を信じて礼拝をしていました。皇帝がクリスマスに礼拝し、教皇も礼拝していた時、全ての人がその礼拝に出席したはずです。しかし誰もその意味を知らず、それが一般的に共有されなかった時、それを区別して礼拝できることは特権です。ルカの福音書に登場するイエス様の誕生の記事をお読みしましたが、誰もクリスマスを知らなかった時にイエス様の誕生を記念してお祝いした人は誰だったでしょうか?疎外され、貧しく、忙しかった人たちでした。羊飼いです。彼らは自分たちの誕生日を祝う暇すらなかった者たちでした。 私たちは世界で最も大きく華やかな文明の都市東京で生活しています。またクリスマスはどんな人にでも楽しく幸せな時間です。輝かしいイルミネーションと響き渡るキャロルの中デパートではクリスマスのバーゲンセールをしています。パーティーをして、プレゼントを交換し、美味しい食事とお酒を楽しみます。こんなクリスマスは誰にでも与えられています。しかしクリスマスはパーティーをするためのお祭りなのではなく、救いの神様に出会うことのできる喜ばしい日だから、お祭りなのです。 疲れ果てている中、救いの知らせを聞いて喜んだ羊飼いの少年のように、今ここで礼拝をささげている人もいれば、イエスとは全く関係なく、ファラオの誕生祝いのようにクリスマスを過ごす人もいます。ヘロデの誕生祝いで何が起こりましたか?ヘロデ王の幼い娘の一言で人を殺しました。その人は悔い改めなさいと叫んでいた預言者バプテスマのヨハネです。 しかし羊飼いの少年たちはイエスを始めて礼拝した者たちでした。神様は救いを望むその純粋な彼らの心に見守られお生まれになり、飼い葉桶の中でほめたたえられました。イエス様は赦しと平和のために来られました。2019年は残り一週間となります。クリスマスを感謝してお祝いする人にはこの一週間、期間限定の恵みが備えられています。 この一週間には天国の喜びと幸いを得ることのできるチャンスがあります。今日キリストがお生まれになった日を感謝し記念する羊飼いの様なキリスト者は、この一週間、憎しみを捨て、そのかわりに赦し、若いし、回復しなければなりません。イエス様がそのために来られたからです。イエス様の誕生祝いの場面は聖書にないですが、イエス様のご誕生に関する記録はあります。その場所は宮殿でもなくローマの教皇庁でもありません。ベツレヘムの飼い葉桶であり、幼子イエスが眠っていた馬小屋でした。さらにイエスの誕生をお祝いするために集まった人は、夜通し宿を探し歩いていたヨセフとマリア、そして夜通し羊の面倒を見ていた、天使の声を聞き訪ねてきた羊飼いイタチでした。日常に疲れていた者たちでした。礼拝者はそのような人です。だからこそ救いの希望を抱く人なのです。 私たちはなぜクリスマスの日にメリークリスマスと言うのでしょうか?イエス様の誕生を記念することがなぜ嬉しく喜ばしいのでしょうか?御使いの声に耳を傾けたいと思います。 ルカの福音書2:10,11 御使いは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 メシヤが来られます。メシヤはキリストです。キリストは救い主です。救いが必要ない人にはメリークリスマスではありません。救いを求める者、神様の御前にへりくだる人にだけメリークリスマスなのです。ユダという国は腐敗し堕落し、その結果国を守る力を失ってしまいました。そして侵略され支配される結果を招いてしまいました。その時代、その地に住んでいた羊飼いたちは寒い夜でも辛い労働を強いられていました。殺さなければ死んでしまう戦争の時代の残酷な人間、労働の苦しみ、また空腹のただ中にイエスは救い主という名で来られました。まだ人間の絶望に対して自覚できていない人は、野に出て夜通し仕事に没頭していたことでしょう。教会でさえ礼拝よりも職業を優先することに同意してしまう多忙な時代です。 その仕事の延長線上でどれほど多くの人が今晩快楽と酒を楽しむでしょうか?それは彼らがまだ救いを必要としていないからです。羊飼いとして生活していけるし、救いは要らないと考えてしまう怠慢な者たちです。私たちがクリスマスを喜ぶ理由は、その方が罪と死から私たちを救い出してくださる方だからです。今日私たちが、イエス様のところに最初にやって来た羊飼いのように、またイエス様に初めて礼拝をささげた彼らのように、キリストの誕生を礼拝する、まことのメリークリスマスの礼拝者になることをお祈りいたします。

크리스마스 이브예배 설교 : 구원의 소망 20191224

「救いの希望」 「구원의 소망」 趙鏞吉 師 조용길 목사   크리스마스 전야예배에 오신 여러분을 주 예수 그리스도 이름으로 환영하고 축복합니다. 성경에는 생일을 축하하는 내용이 두 군데 나옵니다. 창세기에서 애굽의 바로의 생일이 한번 나오고, 마태복음에서 헤롯의 생일잔치가 또 한번 나옵니다. 이집트의 권력자 바로가 생일에 파티를 열었고 유다의 지배자 헤롯왕이 자신의 생일에 파티를 열었습니다. 당연히 예수님의 생일인 크리스마스는 성경…

説教:クリスマスの目的 20191222

2019年12月22日クリスマス礼拝「クリスマスの目的」ルカ15:4-7 メリークリスマス!今日はルカの福音書2章14節のみことばをもって喜びの挨拶を交わしたいと思います。 2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」 この御言葉でお互いに祝福し合いましょう。「神に栄光が、私たちには平和がありますように。」もう一つだけ。「あなたには救いが、天には栄光が、地には平和がありますように。」魂に救いがあるクリスマスになることをお祈りいたします。 四福音書を詳細に読んだことはありますか?マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書です。四福音書を読んでみるとそれぞれ重複している内容もあれば、微妙に異なる内容を記録している箇所もあります。少しずつ違う理由は、記者であるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人が手にしていたイエス様に対する一次的資料が全て異なっていたこと、また彼らの記憶にも多少のズレがあったということ、そしてそれぞれの観点が異なっていたことが言えるでしょう。マタイの福音書は王として来られたイエス様の観点で記されています。今朝の主日学校のメッセージはマタイの福音書の東方の博士の箇所でしたが、彼らは王として来られたイエス様に黄金、乳香、没薬をささげて礼拝しました。しかしマルコの福音書にはそのような内容はありません。マルコの福音書のイエス様は、しもべとして仕えられるために来られた方として描いています。ルカの福音書はどうでしょうか?ルカは人として来られたイエスを伝えています。ヨハネは神であるイエスを語っています。このようにイエス様を見る観点がそれぞれが違います。ではどの福音書が正しいのでしょうか?誰の観点が正確だと言えるでしょうか?誰も間違ってはいません。聖書の著者は聖霊です。神様なのです。その聖霊が四人の記者の個性と経験を通してイエス様を記録するように働かれたのです。 したがって私たちは、四福音書を通してイエス様のことを立体的に知ることができます。イエス様は宇宙万物を創造された三位一体の神であり私たちの究極的な統治者、私たちの王です。それと同時に私たちを救うために、また仕えるために、人となって私たちの代わりに血を流し死んでくださった方です。クリスマスになるとルカの福音書が頻繁に引用されますが、クリスマスは単にイエス様のご誕生を祝う日なのではなく、神が人となられた日を記念する日です。ルカの福音書の観点は何だったでしょうか。人の子、つまり人としてこられた神に対する視点を持っています。だからクリスマスはイエス様のご誕生なので、クリスマスになるとルカの福音書に登場する幼子イエスの誕生エピソードが紹介されるのです。 19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。 ルカはイエス様が人となって来られたのは、失ったものを取り戻して救うためであると言っています。このことばの背景にはザアカイの話があります。人生の目的が虚しいお金だけにあったザアカイは取税人でした。不正な方法でお金に執着して人々に拒絶されていたザアカイという一人の人間がイエス様と出会い悔い改めた時、イエス様はザアカイを救われて、先ほどのみことばを語られました。。 19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。 この御言葉はルカの福音書のテーマです。また聖書全体の核心でもあります。神様は失われたものを捜される、それが私たちの言うところの救いです。私が信じたのではなく、神様が私を捜したのです。その救いを受けた人の喜びのパーティーがまさにクリスマスです。本来伝統的に教会はクリスマスになるとルカの福音書の話よりもヨハネの福音書1章の御言葉を礼拝中に朗読してきました。ヨハネの福音書の視点は何でしょうか。神であるイエス、という見方です。今日は私たちもヨハネの福音書を朗読してみましょう。 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 この御言葉が実現した日、それがクリスマスです。アダムはエデンの園で誘惑され禁じられていた善悪の知識の実を食べました。 3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 神様はアダムを捜すために呼ばれました。神様はアダムがどこにいるのか分からなかったわけではありません。アダムは罪を犯した後、木の間に身を隠していました。だから神様は呼ばれたのです。罪は暗闇なので、罪を犯した人間は光なる神の前に出て行くことを拒みます。疲れているから礼拝に行かないのではありません。その人の霊がそのことを知っています。暗闇に支配されると神の前に行くことができないのです。私たちは隠れ、しかし神様は捜します。今日の説教は飼い葉桶で生まれたイエス様のお話ではありませんが、イエス様がお生まれになった理由、つまりルカの福音書15章の失ったものに対する神様の御心を共に見ていきたいと思います。 先週、私は韓国に行っていました。滞在する間に使うSIMカードを空港で購入してタクシーに乗りました。まだSIMカードを携帯に入れていなかったので、携帯を使うことはできませんでした。タクシーの中で眠ってしまったのか、手に持っていた携帯を落としてしまい、それに気がつかずそのままタクシーを降りてしまいました。家に帰ってようやく気がつきました。運賃を現金で決済してしまったので、そのタクシーを調べることもできません。落とした携帯にいくら電話しても繋がりません。薄暗いタクシーの中の黒のカーペットの上に落ちた黒の携帯電話は見えにくいはずです。SIMカードは一度も使用することなくカバンの中にそのままあります。カカオトークはパソコンでも使えるのでパソコンを開いたところ、操作を誤ったせいか、携帯の認証が必要だというのです。携帯を失くしたので当然パソコンでカカオを開くことはできません。その時カカオトークが自分を完全に支配していた事実を悟りました。 1分1秒を節約して色々な人と会うために来たのに、連絡先をすべて失くしてしまいました。私は島のように孤立していまいました。警察の落とし物センターに連絡しました。見つける方法は誰かに携帯を発見してもらい、さらに携帯を交番に届けもらうしかありませんでした。私はその誰かのために祈りました。誰かが私の携帯を発見し、それを届けてもらえれば、私は取り戻すことができるからです。警察は私の携帯を探すために動くことはありません。歩いている誰かが持ってきてくれるまで待つのです。それが戻ってきてくれれば本当に嬉しいはずです。私の全神経は携帯を見つけてくれる誰かさんに向けられていました。その人を待っていました。携帯はどこかにあります。この世界に確実に存在しています。ただどこにあるのか私が分からないだけなのです。その存在が本来の役割を果たすためには私に戻ってこなければなりません。私がその携帯を使う時に、その携帯ははじめて存在価値を発揮するのです。携帯のために祈っても携帯が歩いて来るわけではありません。人の手と足を通してでなければ戻って来ません。 すべての連絡と日程がストップして私は家でぼーっとしていました。そのおかげで母と一緒に食事をしたり、家の壊れていたものも直したりできました。しかしこんな思いを抱きました。「それがそんなに難しいことなのか。拾って交番に届けるだけでいいのに。ポストに入れても届けてくれるというのに。」自分の携帯を見つけてくれない人に対してがっかりしていました。でもそんな中こんなことも考えました。神様が私に対してこういう思いを持っておられるのではないか?神様の失ったものが私の周りにはたくさんあります。車に乗っている時も、仕事をしている時も、ご飯を食べている時も、私の周りには神様の落とし物がたくさんありました。神様が気が気でないのは、失ったものに対するものではありますが、その失ったものを知っていて、またそれを見ていて、触れているのにもかかわらず、神様のもとに返さない私自身に対する神様の思いであることに気づかされました。関心をもってそれを捜し、元の場所に返したとき、神様は喜ばれるのに。交番に届けるだけで元の場所に帰ることができるのに。 教会に連れて来ればその人の道が開かれるのに、私たちはそのわずかな苦労さえ担うことを拒みます。失った当事者だけがそわそわするのです。今日の本文に神様の失った一人の罪人が登場しますが、彼がもとの場所に帰ってきたとき、神様の喜びはどのようなものだったでしょうか? 15:7 …ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 神様は失ったものに対してどれだけ多くの関心をもっておられるでしょうか。一人の罪人が悔い改めて、イエス様のところに帰ってくるならば、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びがあると言われます。 私たちは忙しい毎日を送っています。自分にだけ興味と関心があるので、失われたさまよい続ける人に対するあわれみをもつことが難しいかもしれません。今日は五人の兄弟姉妹が洗礼を受けます。神様が失った、神様の子ども五人が神様のもとに帰る日なのです。この五人のうち一人の方は、昔から私が仲よかった友人のお母さんです。そして今日は私の母も韓国から来ていますが、私は思春期の時にひどく反抗していて非行の時期を過ごしていました。高校1年の時、私は家出をしました。数人の友人も誘って一緒に家出をしました。今日受洗される方は私が誘って一緒に家出をした一人の友人の母親です。このお母さんにとって私は悪い友達だったはずです。 しかし人生は面白いものです。私はそれから非行を悔い改め、一浪して大学に行き、日本へ留学のためやってきました。私の友人のお母さんも私よりも先に日本に移住されました。悪い友達は日本でイエス様を信じ牧師となり、友人のお母さんは悪い友達が牧会する教会に出席し始めました。そして信仰告白をして今日ついに受洗されるのです。今日の司式は悪い友達が執り行います。私は今年牧師の按手を受けたので、今日は最初の洗礼式です。今日受洗される私の友人のお母さんと私の母親はその誰よりも神様の御心をよく知っていると思います。それは家出をした息子が帰ってきた日のその安堵と喜びを経験しているからです。私たちが自分たちで家に帰ったのではなく、実は私の父に捕まってしまったからです。家に戻ってきたとき、私の部屋にはほこり一つありませんでした。息子が家出をして連絡もつかない間、母が出来ることは私の部屋を掃除することしかなかったのです。そのとき、私は母が自分の部屋の床を涙で綺麗にしていたことを知りました。先週携帯電話を失くしたことを聞いた母はすぐに祈りました。私が家出をしたときはまだイエス様を信じていなかったので祈ることを知りませんでした。神様が失くした神の子どもたちを捜す気持ちはそれと似ています。私が日本でクリスチャンになってから母親にこんな手紙を送ったことがあります。「お母さんも家出をしたのは同じだから早くイエス様を信じて帰ってきてくださいね。」感謝なことにその祈りは実を結んだと思います。家族と隣人を神様のもとに導くことを伝道と言います。その伝道は神様が失くした神の子どもを捜す方法です。神様は信じるの者の唇を通して救われるべき者を捜されます。 コリントⅠ1:21 …神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 離脱して彷徨う者たちへのあわれみ、子どもを失くした親の気持ちに、少しでも関心を持つならば、その失った者を元どおりの場所に帰すことができます。再び取り戻した主人は喜び、あるべき場所に帰った者は平安を覚えます。今日の洗礼式は自然にできるものではありません。失くした羊を捜してくださった方々がいます。職場でも日常でも、親切と愛を施し、教会に導き、または家族の救いのために祈り続けてきた方々のその信仰のゆえに今日の洗礼式があります。 ダニエル12:3 …多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。…

크리스마스예배설교 : 크리스마스의 목적 20191222

2019年12月22日 クリスマス礼拝 「クリスマスの目的」 「크리스마스의 목적」 ルカによる福音書 15:4-7 누가복음 15:4-7 趙鏞吉 牧師 조용길 목사 메리 크리스마스! 오늘은 누가복음의 2장14절로 기쁨의 인사를 나누면 좋겠습니다. 2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」 2:14 지극히 높은 곳에서는 하나님께 영광이요 땅에서는 기뻐하심을 입은 사람들 중에 평화로다 하니라 이 말씀으로 서로 축복 인사를 합시다.”하나님께 영광을, 사람들에게는 평화” 하나 더 인사합시다. “당신에게는 구원을” 하늘에는 영광, 땅에는 평화, 영혼에 구원이…

크리스마스 콘서트 설교 :특별한 크리스마스 201912015

「特別なクリスマス」 「특별한 크리스마스」   へブル13:5 …主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。 히브리서 13:5 …그가 친히 말씀하시기를 내가 과연 너희를 버리지 아니하고 과연 너희를 떠나지 아니하리라 하셨느니라   한 남자가 여자에게 마음을 빼앗겼습니다. 사랑한 것이지요. 그래서 작년 크리스마스에 사랑의 편지를 적어서 선물과 함께 그녀에게 주었습니다. 12월 24일 크리스마스 이브에 선물을 주었습니다. 그런데 바로 그 다음날 25일에 여인은 남자를 버리고 떠나버렸습니다. 남자는…

説教:メリークリスマスの秘密 20191208

2019年12月8日「メリークリスマスの秘密」ヨハネの黙示録22:20-21 クリスマスになるとキャロルが聴こえ、あちこちでツリーが綺麗に装飾されています。子どもたちにとってピカピカしているクリスマスツリーは思い出として残ります。私は幼い頃教会には通っていなかったので教会の外ではありましたが、クリスマスシーズンになるとそんな私の目にも世の中が違った色に映っていたことを思い出します。クリスマスになると一年中見ることのできなかった輝く色たちがあちこちに飾られていました。 クリスマスキャロルはその色を「五色の煌びやかな街々にクリスマスの光」と表現しました。それは世界の五色の煌びやかなクリスマスのイルミネーションのようで美しいものでした。釜山に住んでいたのでホワイトクリスマスはほとんど経験することができませんでしたが、雪が降るとその光はさらに輝かしいものでした。東京も雪は滅多に降りませんが、やはりクリスマスには雪が付き物です。少し歩くのが不便だったりしますけど、白く降り積もった世界の上で五色のクリスマスのイルミネーションが輝く景色を想像してみてください。そこにクリスマスの鐘が響き渡れば、きっと自分の罪に疲れ果てた聖徒の罪を覆い、また洗い清めてくださる神様の慰めがあるはずです。イザヤ書のこの詩のような表現を引用しましょう。 1:18 たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。 クリスマスの真っ白な世界は美しいものです。私が小さかった時の韓国のクリスマスは、今よりももっとお祭りの雰囲気がありました。街にはたくさんの明るいキャロルが流れていました。クリスマスの意味を知らず、キリストを知らなかった時は、クリスマスになると友人たちと一緒に夢中になって遊びにふけていました。イエスを信じる前の放蕩時期だったと言えば、それが教会の中では通用する言葉となります。「君は恵まれて新しい人になったんだね」と言うわけです。それは確かにそうなのですが、しかし私にとってイエスを信じなかった時のクリスマスの記憶も幸せなものでした。神様は教会に入った私を愛したのではなく、私を愛してくださったから教会に呼んでくださいました。神様の愛が先にあり、そのあとに信仰が来るのです。 ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 愛が始まったのは先に悔い改めた時からではなく、未だに罪人だった時からです。振り返るとノンクリスチャンの時にも私の人生は神様の恵みで溢れていました。今はイエス様を信じて信仰生活を送っていますが、人間は簡単に変わるものではありません。少しずつ変わっていくことが生涯の課題です。私の中にはまだ弱さがあり欠けがあります。罪を捨てきることのできない偽善的な自分の姿にいつも直面します。許容範囲の中で耐えているのであり、隠すことのできる範囲の中でやっとの思いで耐えているだけなのです。 皆さんは私と異なるでしょうか?ただ変わったことがあると言えば、それは私がそのような人間にすぎないと認めるようになったことです。誇れるほどの変化はありません。本質上何の望みもない罪人であることをさらに悟り、認めるだけです。これが私の証です。「あがないの喜び 歌となりあふれる これが我が歩み 我がうた 救い主たたえる」(賛美) 昔は教会に行って礼拝をささげることはありませんでしたが、寒い冬のただ中にクリスマスが近づくと世界はむしろもっとあたたかくなるように感じました。ノンクリスチャン家庭の私の家の中にも、ピカピカと輝くツリーの装飾が飾られていました。クリスマスにはいつもとは違うスペシャルメニューのご馳走を食べました。テレビのクリスマス特番は面白く、どこかあたたかいものでした。嘘もたくさんつき、悪いこともしてきましたが、サンタクロースはそのことを知らなかったのか、私の所にプレゼントを置いていきました。 なので私はノンクリスチャンの家庭で生まれ育ちましたが、クリスマスの恵みを多く享受してきました。信じてもないイエス様の誕生日のおかげで小さい頃の冬は幸せでした。神様の温もりは教会に通わない私にも伝わっていました。赤色と緑色が調和し、その上に金の粉をふりかけたクリスマスカードを友人と交わしました。メリークリスマスの意味も知らないまま、メリークリスマスと書かれた小さいカードを交換したものです。 ただメリークリスマスをMerry X-masとも書くようです。Christmasと書くよりも簡単だからでしょう。昔の私も何も考えずにX-masと書いていました。ChristmasがなぜX-masになったのか知りませんでした。神学校に入ってギリシャ語を学んだ時、ChristをΧριστόςと書きます。英語のアルファベットのエックスではなく、ギリシャ語のカイという文字です。これがラテン語で礼拝という意味のミサと合わさってChristus massaとなり、英語表記ではクリスマスになったということです。だからクリスマスはキリストを礼拝する日になります。それが本来のクリスマスの意味だからです。サンタクロースが残していったプレゼントの恵みを受けた私が、キリストを礼拝する恵みに預かったのですから、これこそ本当の恵みではないですか。 神様の恵みはさらに特別なもので、身近なものとなりました。それまで神様の恵みがなかったわけではありません。この世に遍満する神様の恵みが私の人格の中にも入ってきたのです。クリスマスはメリーさえあれば幸せなものだと思っていました。楽しく遊んで、美味しいものを食べれば、それがメリーなクリスマスだと思っていました。しかし本当はキリストをミサしなければメリーではないということなのです。キリストを礼拝すれば幸せになります。それがメリークリスマスの秘密です。 今日の本文である聖書の最後の箇所は、22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。 という御言葉で締め括られています。すべての人に神様の恵みがあるようにと、祝福しながら聖書は終わっています。クリスマスは単なる教会のイベントではなく、世界の喜びでなければなりません。今日は午後の礼拝を終えた後、宣教チームと一緒に枝川の家々を訪問しながら小さなプレゼントを渡して、祝福しつつ伝道する予定です。一緒にメリークリスマスを伝えましょう。クリスマスの祝福が教会の垣根を越えていくことが枝川愛の教会の宣教となることを願います。今日私たちはクリスマスがまだ訪れる前にキリストが来られることを待ち望み、待降節の礼拝をささげるために集いました。喜びをもってキリストを礼拝するから、本当のメリークリスマスなのです。私たちの魂が幸せになるクリスマスになることをΧριστόςの御名によって祝福いたします。 今日は黙示録を説教の本文としました。11月に続き12月もヨハネの黙示録をQTで分かち合っています。枝川愛の教会の皆さんが最近一生懸命QTをしていると聞いています。まだ始められていない方は是非初めて下さい。信頼できる信仰の友たちと集い互いに分かち合いって見て下さい。皆さんが教会の外にいる時間、皆さんの日常の中でQTを通して神様と交わってください。 QTはどうすればいいのかという質問に対して、お話ししたいことはたくさんありますが、最も良い方法はまず始めることです。そして読んでみて気になるところがあれば神様に直接聞いて見てください。その力を育むためにQTをするのです。神様は皆さんだけが知ることのできる方法で囁くように御言葉の奥義や秘密を教えてくださるはずです。神のことばは公開された秘密です。公開されていますが、ベールに包まれているので誰もがそれを悟ることができるわけではありません。しかし私がそれを悟ることができるようにしてくださいと祈らなければなりません。そうして神様との交わりの中で御言葉を悟っていきます。聖霊の照明がなければ、聖書に記録された文字を読むだけで、それが何の意味なのかがわかりません。知的能力だけでは御言葉を悟ることができず、霊的な追及だけでも分別することはできません。知的に理解していき、霊的に悟っていくものなのです。御言葉を読むとき、聖霊の照明を受けなければなりません。そのときにQTを通して神の御声を聴くことができます。 皆さん毎日お忙しいことはよく知っています。でもいくら忙しいと言ってもQTができないわけではないと思います。いや、むしろ忙しいからこそ神様の御言葉の前に出て行くべきなのです。今日はチュンヒョン教会の宣教チームが演奏してくださいました。ありがとうございます。この演奏がもっと素晴らしく思えるのは、皆さん60代から楽器を始められたと耳にしたからです。チュンヒョン教会にこのような方々がたくさんいらっしゃいます。牧師先生が聖徒たちに楽器を一つずつ習いましょうとすすめたことを受けて、多くの聖徒たちが一生懸命練習し、今は彼らによって礼拝音楽が豊かになったそうです。教会に幾つかのオーケストラがあるほどです。ある方にお尋ねしました。「50、60代で楽器を習い練習するのは、現役で働いている方は難しくないですか?」しかしその方は「忙しいですが情熱があればできますよ」と答えました。その情熱はどのようなものか分かるような気がします。最初は吹いても音すら出せません。音が出るようになっても、綺麗な音はなかなか出ません。時間がかかります。 練習をしていると、ある日突然、短い歌でも最後まで演奏できるようになります。その時の喜びを味わうための情熱です。だから忙しくて、疲れていても、練習するのです。一曲を最後まで演奏できるようになった時にその疲労と労苦は全て消え去ります。その時からはステージに立つことを夢見ることでしょう。これと同じです。QTを通して御言葉を握りしめていくと神様の御声が聞こえるようになります。それが御言葉に対する情熱になり喜びになっていきます。そうなると誰かと分かち合いたくなります。だから御言葉の黙想と聖徒の交わりが深まっていけば、聖書を手放すことはできないのです。 QTは忙しくてできないのではなく、神様の御言葉と自分の魂の情熱がないからできないのです。年が変わって来年からは新しい心を持って、新しいノートを準備して、新たなにQTを始めたいと願います。とは思わずに、今始めてください。2019年が終わる前に始めてみましょう。手に書くなり、石に書くなり、神の言葉を読んで、思ったことを書き留めてください。そうすると私たちの中に散らかっている信仰のかけらが整理されていくはずです。12月30日にテキストを購入して、31日だけQTをしたとしても、テキスト代はもったいなくありません。 今日の本文は聖書の最後の箇所から選びました。最後の御言葉というのはヨハネの黙示録の最後という意味、また聖書の最後ということ、さらには世界の最後の御言葉、待望の最後の御言葉だということです。QTの本文も黙示録の最後に向かっています。終末のさばきを通過しています。さばきはいつあるのですか?キリストが再臨してから最後のさばきがあります。しかし今のQTの世界の中にも再臨以降に起こることの預言が記されています。アドベントはすでに来られたキリストと再び来られるキリストに対して待ち望むことと同時に記念する神秘的で逆説的な待望の期間です。だから私たちはクリスマスが来られる前にイエス様が再臨されて為さる事柄にまず触れているのです。私たちはこの二つの来臨を同時に待ち望んでいます。 イエス様はキャロルソングを響かせて再臨するのではありません。飼い葉桶の赤ん坊イエスとして来られるのはなく、十字架上で死なれた死刑囚の姿で来られるわけでもありません。さばき主として来られます。しかしそのさばきの根本的な理由は選ばれた者たちを救うためです。だから選ばれた聖徒は恐れる必要がありません。私たちはキリストを待ち望むのです。私たちはこの待ち望むシーズンを目前に自分自身を見つめなければなりません。主を待ち望んでいますか?主が来られるのは嬉しいが、その再臨の前にまだすべきことがあったり、したいことがあったりして、まだ「マラナタ」と告白できずにいる方はいませんか? それはポイントです。私たちに「主よ来てください」と言えなくさせるもの、あらゆる心配事、それをキリストの中で行なってください。今キリストの外でそのことを思い悩んでいるのだと思います。お金を稼ぐ事であればキリストの中で稼ぎ、子どもを養育する事であればキリストの中で育て、結婚であれば主にあって結婚し、食べて楽しむ事であれば主にあってそうすればいいのです。誰よりも忠実で誠実にそうしてください。主にあって主を待ち望む聖徒になりましょう。信仰も生活もその時に維持する事ができるからです。それを終末論的信仰と言います。最後を意識しない過程は愚かなものに過ぎません。 間違った終末論に惑わされると生活の座から離れてしまいます。しかし主に属する終末論的信仰は私たちの日常を大胆で強靭なものにしてくれます。私たちの信仰の舞台は今与えられている日常です。その日常を偶像としないで、神様の中にあって日常を歩んでいくべきです。必ず最後は訪れます。しかし終末論的信仰を持つ選ばれた聖徒は、その日に戸惑うことなく、恐れることもないでしょう。このアドベント、一緒に使徒ヨハネの告白をしたいと思います。 22:20 アーメン。主イエスよ、来てください。 この告白が皆さんにとって切実で真実ですか?そうならば最後の御言葉を告白し、これを決心したいと思います。 22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。 キリストの教会と聖徒が息あるすべての者たちにメリークリスマスを伝える季節となりますようにお祈りします。

説教:메리 크리스마스의 비밀 20191208

2019年12月8日 主日礼拝 「メリークリスマスの秘密」 「메리 크리스마스의 비밀」 黙示録 22:20、21 요한계시록 22:20、21 趙鏞吉 牧師 조용길 목사   크리스마스에는 캐롤이 들려오고 가는 곳마다 트리가 예쁘게 장식됩니다. 아이들에게 반짝거리는 크리스마스 트리는 추억의 방 중에 가장 깊은 곳에 예쁘게 간직될 겁니다. 저는 어린 시절에 교회에 다니지 않아서 교회 담 밖에 있었지만 크리스마스를 맞이할 즈음이 되면 그런 저의 눈에도 세상의 색깔들이 달라졌던…

説教:공동체의 일치를 위해서 20191201

2019年12月1日 主日礼拝 「共同体の一致のために」 「공동체의 일치를 위해서」 ヨシュア 4:10-14 여호수아 4:10-14 趙鏞吉 牧師 조용길 목사   지난 번 설교에서 하나님의 백성들은 동편에서 요단강을 건너 서편으로 건너갔습니다. 르우벤 자손과 갓 자손과 므낫세 반 지파 사만명이 무장하고 먼저 강을 건너 여리고 평지에 도착했습니다. 이제부터 가나안 정복전쟁이 시작될 텐데 정복 후에는 열 두 지파에게 땅이 분배될 것입니다. 최종적으로 가나안 정복이…