한국어설교 : 공동체의 성장과 일치 20200105

2020년1월5일 「공동체의 성장과 일치」 에베소서 3:17-19 2020년 새해에 처음 맞는 주일예배입니다. 새해 복 많이 받으십시오. 2020년은 가정과 직장과 교회에서 이전과 다른 하나님의 은혜를 체험하는 한 해가 되시기를 축원합니다. 오늘 본문은 에베소서입니다. 지난12월에 큐티를 성실히 한 분들은 에베소서를 다 읽었을 것입니다. 에베소서 중에 오늘 본문은 사도 바울의 기도의 형태로 되어 있습니다. 기도는 성도의 가장 강력한 무기입니다.…

日本語説教:新年礼拝「過去との和解」20200101

2019年1月1日新年礼拝「過去との和解」イザヤ書43:18-21 ハイデッガーという哲学者は人を「死に向かう存在」であると言いました。嬉しい言葉ではないですが否定もできません。死ぬために生きるのではありませんが、人生とは明らかに死を前提に始まります。避けようとしても死は必ず人間の背後から追ってくるものです。生という原因は、死という結果に終わります。生きている人は死の平凡性について考えなければなりません。死は特別なものではありません。死は一般的なものです。他人の死に対する関心がないために自分の死について驚くだけなのです。死がいつから驚くほどに新鮮なものだったでしょうか?この世界は死で溢れています。死は雷のようなものではなく、秩序正しい海の波のようなものです。人は絶えず死んでいきます。この瞬間も海の波が絶えず迫ってくるように、一つの世代が過ぎ去り、次の世代が迫ってくるのです。   その平凡で一般的な秩序を知らない人は、自分に訪れる死を雷のようなものだと考えることでしょう。しかしいくら考えても、死ぬということは、一般的で平凡な日常です。このことを覚えるのが知恵です。これを覚えて生きれば、信仰生活の半分は成功です。死を目前に、憤ったり、憎んだり、欲張ったりする人はいないでしょう。愛と赦しと謙遜と譲歩は教えるものではなく、自分の存在を悟る時にわかるようになるものです。死に対する忘却のゆえに愚かさと高慢がわき起こるのです。   尊敬するある牧師が癌の闘病生活をきっかけに、毎日早天祈祷のYouTubeをアップし始めたのですが、そのチャンネル名を「素晴らしい早天」と名付けました。死を前提に置くと、生きていることは毎日感謝でしかありません。正月から「死」についてお話する理由は、「生」をお話したいからです。死があるからこそ、生が毎日新しいものになるのではないでしょうか?2019年の終わりなき2020年の始まりが何の意味がありますか?結局その2020年も2021年によって価値なきものになってしまうならば、私たちが迎える2020年の意味は何でしょうか。2019年の命が途絶え死んでしまいました。1分1秒たりとも余すことなく、自分の時間を使い果たして死にました。   そしてその次の波である2020年がやって来ました。過ぎ去った時間を手離してあげましょう。命が尽きて死んでいった2019年にお別れしましょう。多事多難という言葉はたくさん言われますが、多事多喜や多事多福という言葉もあります。韓国には「過ぎ去ったものは過ぎ去るだけの意味がある〜♪」という歌があります。すべてのことに意味があると思います。よかったことでも、辛かったことでも、過ぎ去ったことに意味を見出そうとする時、それに支配されてはいけません。過去の記憶に支配されるのは、死んだものに支配されることだからです。2019年の時間は私たちを支配しましたが、これからは2019年の記憶を私たちが支配するのです。   悔い改めた信仰は実を結びます。まだ憤りと憎しみの中にあるならば、それは悔い改めていないのです。しかし悔い改めて実が結ばれているならば、これからは自分を苦しめてはいけません。 第Ⅱコリント7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。   悔い改めは悩みを伴いますが、それは生きさせる悩みです。ただ神の前に悔い改める悩みではなく、過去に対する悩みは死であると言いました。過ぎ去った時間の自分の過ちを赦すことで兄弟の罪も赦すことができます。 ヨハネの福音書20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。   この世には悔しいこともあります。おかしなことではありません。そのような悔しく無念なことも忘れるべきです。そういったものも死んでいった時間とともに送ってしまいましょう。「水車は過ぎ去った水では回れない」という言葉があります。過去にとらわれてはなりません。現在に安住してもいけません。漠然とした未来を憧れる必要もありません。過去は振り返るものであり、現在は忠実に生きるものであり、未来は望むものなのです。   ヨブ記11:17,1817 あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。18 望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。 暗闇の日、苦しみの日、困難の過去を早く忘れてしまいなさいということです。過去に縛られるのは良くありません。カレンダーを見てください。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。私のことを嫌う人はいると思いますが、敵だと思う人はいないと思っています。しかし年末に考えてみたら、私のことを憎んでいる人がいるかもしれないと思いました。それでメールを送って丁寧に謝罪しました。そのまま年を越すのが嫌で連絡をしました。すみません、許してください、と言いました。「最期」を迎える2019年が、12月31日に遺言で私にそのようにするように言ってきました。夜になるまで憤ったままではいけないと言いますが、年を越してもまだ憎しみを抱いているのであれば、自分の心が枯れてしまいます。だから謝罪と若いの言葉を交わしました。そのおかげで平安なうちに眠ることができました。   私を縛り付けている過去のことは忘れてください。過ぎ去ったものを考えてはいけません。なぜならこれから神様が新しいことをなさるからです。イザヤ書のみことばです。 43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。   昔のことを忘れれば、これからは神様が新しいことをなさると約束しています。新しいことのために昔のことから脱却しなければなりません。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。新年には神様の贈り物として自由を受け取ってください。赦してください。そして和解してください。そうすれば自由になります。それこそ私たちが行くべき天国と最も近い感情です。過去と和解して2020年を迎えられますようお祈りいたします。あけましておめでとうございます。

한국어설교 신년예배 : 과거와의 화해 20200101

2019年1月1日 新年礼拝 신년예배 「過去との和解」 【과거와의 화해】 イザヤ43:18-21 이사야 43:18-21 説教 趙鏞吉 師 설교 조용길 전도사 하이데거라는 철학자는「인간은 죽음으로 향하는 존재」라고 했습니다. 그런 정의가 반갑지 않겠지만 부정할 수가 없는 것입니다. 죽기 위해 사는 것은 아니지만, 삶은 분명히 죽음을 전제로 시작됩니다. 회피해 보아도 죽음은 도망가는 인간의 뒤를 어김없이 쫓아옵니다. 삶이라는 원인은 죽음이라는 결과를 맺게 됩니다. 살아있는 사람은 죽음의 평범성을…

日本語説教:「骨と骨がつながって」20191229

2019年12月29日「骨と骨がつながって」エゼキエル37:7 今日は2019年最後の主日礼拝です。時間は早いものでもう一年が過ぎ去ってしまいました。一年間お疲れ様でした。去年の今頃、2019年の年間聖句をもって新年礼拝をささげました。エゼキエル書でした。37章1節から10節までの本文を通して、干からびた骨が互いにつながって生き返るというメッセージをお話しました。もう一年を遡ってみると、2018年はイザヤ書54章2節と3節の御言葉を年間聖句に、「広げ、強くせよ」ということばを胸に抱いて新年を迎えました。2018年と2019年には神様が枝川愛の教会に多くの恵みを与えてくださり、礼拝と宣教の幕屋が広く拡張されました。 主日礼拝を午前と午後に分けましたが、それも定着してきていますし、小グループの集まりとQTも定着しているように思います。神様への礼拝がますます多くの人々に拡大し、御言葉が聖徒たちの中にとどまり、その恵みをいただいた聖徒の交わりが拡大しているのです。礼拝と交わりが定着して生きたものとなるならば、伝道は必ず進展します。2020年にはさらに豊かな御言葉の恵みと宣教の喜びが与えられるように、QTと小グループの集いに力を注いでくださることをお願いしたいと思います。御言葉がなければ生活が干からびてしまい、あらゆることが否定的になってしまいます。心配と誤解と憎しみを黙想せずに、神のことばを黙想しましょう。一人ひとりが御言葉のうちに生きる時に教会は生き返ります。 また今年の下半期には会堂購入に関する話が始まり、役員会と教会総会を通して購入を決議し、今は会堂購入に向けて準備しているところです。神様はご自身が与えて下さった御言葉に対し誠実にことを成して下さっていることに改めて気付かされました。今日は一年を締め括る礼拝です。後ろを振り返らなければならない時間です。なので今日の礼拝は1年前の新年礼拝で分かち合ったエゼキエル書のメッセージを再びお話したいと思います。それをもう一度嚙みしめることで、悔い改めるべきことが見え、神様が働かれた証もまた明らかになります。 エゼキエルは今から約2600年前の旧約時代に活動した預言者です。バビロンの時代です。世界史で言えば新バビロニア帝国です。バビロンの時代の中でも最強の時代です。誰もバビロンに抵抗することができない時代、バビロンが絶対的な権力を行使し世界を支配していた時代です。バビロンによってエルサレムは崩壊し荒廃となってしまいました。神に選ばれたと自負していた民はバビロンの捕虜となり、永遠に続くかのようであったダビデ王朝はユダとともに滅ぼされました。とてつもない衝撃が走りました。バビロンに連れて行かれた民は、そこで生活しなければなりませんでした。 エゼキエルはその民たちに対する励ましと同時に、神への礼拝と信仰の回復のために遣わされました。エゼキエルはその廃墟の時代に神のことばを伝えた預言者だったのです。信仰が崩れ落ちてまるで墓のようになった時代でも、預言者は神のことばを伝えなければなりませんでした。神様はエゼキエルを幻の中でどこかに連れて出します。エゼキエルは骨が満ちていた光景を目の当たりにします。死体ではありません。命の痕跡すらない、既に干からびた骨たちの墓場です。神様がエゼキエルにこの幻を見せられたのはなぜでしょうか?それは平地に満ちていた骨がイスラエルであるということを教えるためです。エゼキエルにこう尋ねられます。 37:3「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」本当に難しい質問のように思えます。骨の墓は死の結果ではありませんか?肉もなく皮膚もなく息もありません。死んでから結構な時間が経ったため、水分は全て無くなってしまい、干からびています。しかし神様は言われるのです。37:3「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」 質問に対する明確な答えではないように見えます。干からびた骨が生き返るというのは不可能なことですが、神様がなさるのであれば生き返るという告白でもあると受け取れます。神様が生き返らせないと言うのに生き返ると言えば、それは偽預言者です。また神様が生き返らせると言うのに生き返らないと言えば、それはもっと恐ろしい不従順になります。神様が生き返らせるならば生き返りますと信じなければなりません。神様が生き返るだろうかと尋ねれば、「はい、生き返ります」と答えなければなりません。なのでここから神様がエゼキエルの目の前で骨が生き返ることを示されれば良いのです。エゼキエルはそれを待っていました。しかし神様は骨を生き返らせることをなさらずに、再びエゼキエルにこう語られます。 37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。37:5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。37:6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」 神様はエゼキエルに対して、もう既に死んで何の希望もない、完璧な絶望に向かって神のことばを伝えるようにと言われます。この無理な要求を覚えてください。完璧な絶望の中で神様は生き返ることのできることばを伝えなさいと言われるのです。つまり、干からびた骨たちに息が吹きかけられ、筋と肉が生じ、皮膚で覆われるということを伝えなさいと。私たちは計算が速いようであっても、それは小学校の低学年に習った計算に過ぎません。自分の計算と世の中の合理性によって神の力を否定してしまうと、信仰は干からびた骨のように何も残るものがありません。骨のかけらは信仰の水分を含んでいないため、単なる干からびた骨たちの墓場だけが残るのです。一体誰が神様の働きを不可能だと断言できるでしょうか。 神様はエゼキエルにその骨たちに御言葉を語るように命じられます。死んでいく時も聞く耳を持たなかったのに、今干からびた骨となったものに対して、伝えなさいと言います。しかしその骨が神様のことばを聞けるでしょうか?エゼキエルは骨に向かって神様のみことばを伝え始めます。想像すればするほどこれは滑稽な光景です。信仰のなかった世代に信仰を伝えるというのはおかしな話です。聞く人が誰一人いないので愚かなことのように思えます。それでも預言者は聞くことのない骨に失望することなく、神のことばを信頼して伝えなければなりません。エゼキエルは神に聞き従って神のことばを伝えたところ、何と奇跡が起こり始めたのです。 37:7 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。 筋が生じて、肉が生じて、皮膚がその上を覆って、人の形にまで回復しました。でもその中には息がありませんでした。エゼキエルは再び神様のことばを耳にします。 37:9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。 エゼキエルが神様のことば通りに叫んだ時、その骨たち(彼ら)に息が入りました。息は空から吹いてくるものではなく、四方に散っていた息は神様のことばが宣言される時に一斉に集まってくるのです。骨はこうして息を吹きかけられ、自分の足で立ち、動き始めました。その骨は軍隊の数にまで増えたと言います。エゼキエルの干からびた骨の幻をもう一度読みました。死んだ骨たちが立ち上がり、筋が生じて互いにつながり、肉が生じて力を出し、皮膚で覆われました。 このように聖霊が入り、生きて動き出す、大きな軍隊となったエゼキエルの幻は単なる幻ではなく、実際の教会論です。教会はエゼキエルの幻のようにたてられます。一人で立ち上がって救いを得る人はいません。一人で神を探し求めてくる人もいません。誰かがその人の筋となることで、その人は教会に導かれるのです。筋ができるとどうなりますか?各器官を繋げることができます。太ももとふくらはぎを繋げてあげることで初めて立って歩くことができます。干からびた教会にはそのような筋が必要です。互いが干からびた骨であっても、お互いを繋げなければなりません。分離すると起き上がることはできません。人の体も神様の教会も有機的に繋がりあっているのです。骨一つで何かをすることはできません。 みなさん、QTはしていますか?数日前に読んだエペソ書の御言葉です。4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 筋によって繋がらなければ教会はたてあげられません。神様はエゼキエルに教会を建てることを命じたのではなく、信仰のない骨たちに信仰の御言葉を伝えて、その骨たちを立ち上がらせました。それぞれの筋を通して力を受け繋がり合い、それぞれの器官の賜物にしたがって働き、その体を成長させます。筋が繋がると筋肉が出来てその上に皮膚が覆われます。 コロサイ人への手紙2:19 …このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。 筋は結び合わされると力になります。重たい機械や構造物を繋ぎ合わせるのは一本の太い鉄線ではなく、幾つかの細い鉄線で作ったワイヤーです。ワイヤーは断ち切られることがありません。伝道者の書にこんな御言葉があります。 4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。 教会には繋ぎ合わせる力が必要です。互いが繋がり合い、有機的に建て上げられなければなりません。教会を成している建築資材は多様にあります。部分ごとに、体全体のために、自分だけが持っている独特の賜物に応じてその役割を果たすのです。そうやって集団的にキリストのからだを建築し維持していきます。息が入り軍隊となった時すでに兵士たちの兵科は異なります。賜物と役割が違うからです。それぞれ異なりますが、しかし必ず有機体の中にあってそれぞれの役割を果たさなければなりません。教会はキリストのからだであり、私たちはキリストのからだの各器官です。 キリストのからだである聖徒たちは互いに有機的につながっています。互いの力を合わせ、また助け合い、愛のうちに共に成長していくのです。私たちが一つのからだの各器官であることを深く認識する必要があります。私たちがこの地上で生きて行く間、神様は、私たちがそれぞれの教会に属すると同時に、聖なる公同の教会の一員となって、神様に与えられた賜物を発揮し教会を建て上げていくために奉仕させてくださるのです。これが共に成熟していく道であり、これが教会を強く建て上げていく道です。教会はこのような方法によってのみ成長し、建て上げていくことができることを覚えましょう。一人だけで成長することはできません。一緒に成長させてくださるのです。 60時間断食をしました。断食をした後に食べるお粥は山海の珍味よりも美味しく感じます。美味しいグルメを求めている人は教会に来て断食してみてください。この世で一番美味しいものを食べることができます。感謝なことがなければ断食してみてください。一杯のお粥で心から感謝することができます。お金やご飯のために断食するのではありません。自分のいるべき場所を探すためにするのです。神様がご飯をくださらなければ、干からびた骨のように何もできないのが人間です。 神様の霊が息を吹き込んでくださらなければ、学んでも無知であり、知っていても虚しいものです。その場所に自分がいるために飢えてみるのです。今朝一杯のお粥を食べてから教会に来ましたが、そのおかげで体の節々に力が行き渡り、筋肉にも力が満ちて、顔色も元どおりになり、気力も戻りました。小さなひとかけらの信仰が有機体の中を駆け巡ると、体の節々を繋ぎ合わせ、動かし、生かします。お互いが繋ぎ合わさる筋たちの奉仕がますます多くなればと願っています。どうすればそうなるでしょうか?最後にこの筋の正体についてお話して説教を閉じたいと思います。 4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 筋の正体は愛です。1年を過ごし、今再びこの御言葉の前に立たされています。私たちの筋は1年前よりも強くなったでしょうか?筋はなく骨同士がぶつかり合う音はしませんか?御言葉と息が抜けてしまい、混乱と絶望の中に置かれている人々の筋になってください。彼らを神様のことばと教会に繋ぎ合わせてください。 「息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」と宣言してください。不可能だと思わずに繋いでください。生き返らすのは神様です。愛の筋で結ばれた聖徒たちがキリストのからだなる教会を建て上げていくのです。