Ⅰペテロ QT1 2020122土【帰天】Ⅰペテロ 1章13-25
Ⅰペテロ 1章13-2513 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 第Ⅰペテロの手紙は、送られた地域や教会の名前ではなく、発信者のペテロの名前が付いています。アジア地域に送られた手紙ではありますが、手紙を受け取る受信者を「旅人」と呼んでいます。パウロの手紙のように受信者の名前を付けてこの手紙を名付けるなら、「旅人への手紙」になるかもしれません。クリスチャンの人生観は、世に立ち寄る旅人です。それに同意されるでしょうか。試みられるというのは、その認識に混乱が起こるからです。 ペテロがあえて旅人と呼んだのは、教会と信仰が苦しみを受けていたからです。旅人という言葉は、故郷を思い出させ、苦しむ旅人たちにとって故郷というのは、すなわち望みであり、励ましであるからです。旅人は送られたところに来て、時間になるとすべてを置いて家に帰りますが、旅人ではない人は主人として生き、いつかそれを剥奪され、どこかも知らないところへ行かなければなりません。生き方が同じにはなりません。帰るところがあるので旅人は主人よりも幸いです。 信仰の理由で苦難を受けるときにかえって喜ぶことができるのはすべてが「しばらくの間」からです。ペテロは苦しみの中に置かれているクリスチャンに「さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが」むしろ大いに喜ぶなさいと勧めます。苦難は絶望に見えますが、神様は、それを通して練られた純金を造られます。美しく生きること、それが旅人が生きる目的です。旅人の霊性が苦難を乗り越えられる力になります。 ペテロの手紙は、つかの間の旅人だからといって虚無主義で終わることを言っているのではありません。手紙は帰るべき天の望みの中で聖なる民として生きることを語ります。神様が聖い方であるように自分自身も聖く保つのです。偽善と形式を脱ぎ、真実の信仰を持って生きることを勧めます。 そして「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。22」苦難と天国の望みと信仰という主題は愛に帰結されます。互いに熱く愛することを語ります。先に帰った旅人、そして残された旅人の心に残るのは愛していなかった悔恨、それだけです。最期の言葉をお金、土地、財産の言葉で遺言を残す人の人生はどれほど虚しいことでしょう。旅人が帰った天国は愛にあふれるところです。私たちが故郷に帰った時、家に馴染めないのはおかしなことです。そのように私たち旅人が天の御国に帰った時、そこに馴染めず落ち着かないことなど決してありません。