Ⅰペテロ QT7 20201221月 【職分と謙遜】 1ペテロ 5章1~7
1ペテロ 5章1~7 1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。 2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。 4 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。 5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 共同体の拡大は必然的に組織を形成し、役割を分担することになります。出エジプトの直後には法律的、組織的な体制を備えていなかったため、共同体はあらゆることをモーセの判断に頼っていました。それで荒野のイスラエルの社会は葛藤と争いに包まれていましたが、モーセの舅エテロの提案により、イスラエル社会は中間リーダーを立ててリーダーシップを分割し、組織体制を整備するようになります。 初期エルサレムの教会も、共同体が拡大していました。教会は貧しい人々に配食をしていましたが、役割が分担されていなかったので使徒たちが配食の働きをしていました。それで使途たちがみ言葉と祈りに専念することができなくなったので教会は初めて執事を立てることになります。 だからといって配食のために執事を立てたことではありません。それをきっかけにして共同体の役割分担の必要性を分かったのです。執事は聖霊の満たされた人を選び取って立てました。その中の一人であったステパノの説教(使徒7章)を読んでみると、彼は知的にも霊的にも優れた教師の能力を持っていたことがわかります。 牧師と聖書教師は必ずしも一致することではありません。礼拝を執り行う牧師はもちろんのこと聖書教師を兼ねますが、牧師でなくても、聖書を教える職務はできます。聖徒が聖徒を教え、導くことができます。実はそのようにしなければありません。それは上下の構造ではなく、立体的な構造です。すべての聖徒はみ言葉において主体性を持たなければなりません。学ぶことと教えることが同時に行われます。教え合い、学び合うのです。 本文に出る当時の長老とは、現在の長老教会で教会の政治に参加する長老を言うことではありません。だからといって、牧師を指すことでもありません。当時に牧師や牧師を養成する神学校があったこともありません。いわゆる聖職と信徒を問わず、聖徒の群れを導かなければならない立場にある人を指します。 聖職者と平信徒という言葉は、言葉そのものに矛盾を含んでいます。牧師の職と信徒の職が当然違いますが、それが「聖」は「平」を区別されるものではないからです。信徒であれば信徒であれ、平信徒という言葉は、聖書的に矛盾であり、聖職主義という階級的文化の所産です。 多くの場合、牧師とは神学校を卒業して、所属教団の牧師試験を受け、按手を受けた人でありますが、あくまでも牧師を立てる主体は教会です。牧師は教会共同体が立てます。ですから、教会共同体によって建てられた牧師のリーダーシップの確保は、教会共同体によって守られます。 そうであるように、教会が聖書の教師として立てた人には、教会によってその権威と職務が確保されなければありません。もちろん、必須なのは、それに召されている使命の認識です。ペテロはその職を召されている人に対して召しを確かめさせ、一方共同体にはその権威の認めと従うことを求めます。そして6節ではへりくだることを願います。それは、上位と下位の概念ではないからです。