Ⅱペテロ QT3 20201229火 【自由になるためには】Ⅱペテロ 2章 12~22
Ⅱペテロ 2章 12~2212 ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。18 彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。20 主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。22 彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。 ペテロは偽教師を「理性のない動物」と批判し、またベオルの子バラムにたとえました。バラムは神によって始めましたが、偽預言者で終えた人です。霊によって始め、肉によって終えた人です。13節以下で見ると、彼らは昼夜を問わず貪欲と淫乱を行ったようです。そのような人に騙された人に対しペテロは「犬は自分の吐いた物に戻る、豚は身を洗って、またどろの中にころがる」と批判します。ペテロの口調には、かなりの怒りと断固さがあります。 本能は生活を営む上で必要な基本的ニーズを知らせるアラームのようなものです。その設定は、設計し造られた神様がしたものです。同時に、神様はその本能を制御することができる理性と呼ばれる機能をも与えてくださいました。ということで獣は本能的な自己欲求に基づいて生きますが、人間は理性に基づいて、自分自身を制御することができる力を持っています。神様が息を吹き込む、霊的な存在として造られた人間のみが、この機能をもっています。本能は良いものに違いありませんが、理性を忘れ、本能によって生きれば、決して良い人生にはなりません。 このように人間は動物とは異なり、自己統制力を持っているので自由という権利を享受することができます。暴力性によって自由が抑圧され、権利が剥奪されると人間性は後退します。一方、自由が与えられても自己制御ができなければまた人間性は後退してしまいます。現代が近代的な秩序を解体していく中で、これまで抑えられてきた人権を回復する機能をしていますが、一方絶対性と権威を否定することによって自己制御を欠いた感覚的な本能を自由だと考えてしまう傾向が強いのも確かです。 私たちが生きている現代という時代は、考えを放棄した時代と言っても過言ではありません。近代に入って資本と産業が起こり、個人や市民の地位が向上しました。長い間、宗教に縛られていた世界は新しい期待感、理性と科学が人間を啓発させ、解放させると思いました。神の代わりに幸せをもたらすと信じていた人々は、知識と文明の発達が二度に渡った世界大戦で全世界を虐殺することを目撃しました。 それにもかかわらず、人々は神様に戻りませんでした。現代が選んだ生き方は、今日一日を懸命にそして楽しく生きる、ということです。いつの時代よりも人々は学校に長く通いますが、愚かさは昔余よりも深刻です。始まりや終わり、目的や理由を聞くことは許されません。考えてはいけません。すでに世界を支配した資本は、それを考える時間すら与えません。ありのまま、感情に充実し、今を楽しめと言います。 多様性を認める発言だけが現代的なもののような錯覚をしますが、多様性と均一性の反対語ではなく、絶対性に属している言葉です。神様の中で多様にあることはできます。しかし、神様なしに自らが多様になることはできません。神様がくださった自由を抑圧し、剥奪するものに対しては尊厳な自由を守るために抵抗しなければなりませんが、神様が造られた秩序には、それを認め、保つことによって自由は守られます。