Ⅰヨハネ QT3 20210108金 【神から出たもの】Ⅰヨハネ5章 1~12
Ⅰヨハネ5章 1~125:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。5:2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。5:6 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。5:7 三つのものが証しをします。5:8 御霊と水と血です。この三つは一致しています。5:9 私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。5:10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。5:11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 カルヴァンが「キリスト教綱要」の始まりに書いたように、「神を知ることが、自分を知ることであり、自分を知ることが、すなわち、神を知ること」です。神様を知れば知るほど、人間の存在は、絶望的なものであり、その悲惨な現実を自覚したときに、聖なる神様に対する知識は大きくなります。自分について知りたいなら、神様を探らなければならないし、神様について知っていくと、自分が誰なのかがわかります。相互補完的な知識であり、循環する知識です。 ヨハネは同様の構造で兄弟を愛することは神様を愛することを語ります。4:20以下で、「神を愛していると言いながら兄弟を憎むと嘘をつくのだから、神を愛する者は、兄弟を愛しなさい」と言いました。 そして、5章の始めに「神を愛する人が兄弟も愛することができる」と言いました。どっちが先なのか判断に困りますが、これも神様と自分を知っていく知識と同様に、順序的に矛盾しているのではありません。兄弟を愛すればそれが神様を愛することであって、神様を愛すると、それが兄弟を愛することです。 神様の恵みを受けると、神様への信仰が生じ、成長します。そして、その信仰があったからこそ恵みはより大きくなってきます。相互補完で、循環します。多くの恵みを受けた人が多くの従順をすると、恵みは広がり循環します。順序的に矛盾しません。 これで、私たちの信仰を成している形を確認することができます。自ら神様への信仰であると定めているものがあれば、それが兄弟愛にどう関係しているのかを点検するのです。神様を愛する心と兄弟を愛する心が表されたものが信仰でなければならないからです。例えば、礼拝は神様と交わる場所ですから、礼拝は神様を愛することであり、そのための奉仕というのは、皆の礼拝、つまり兄弟のための奉仕となりますから、この二つの愛を満たすことになります。 4章の兄弟愛は5章につながっています。4:21の「神」と「兄弟」は、5:1で、「生んでくださった方」と「生まれた者」という言葉に変わります。(神:兄弟=生んでくださった方:生まれた者)です。存在の出所を明らかにしています。3節以下を言い換えれば「神様を愛することは、兄弟を愛することであって、それは決して難しいことではない。なぜなら、出所が神様である人々はみな、世(愛ではないもの)に打ち勝っているからです。 」 愛せないようにする世にある悪に対して、既にキリストが私たちの兄弟になって愛のゆえに死なれました。4章で霊を見分けることについて読みましたが、それも兄弟を愛することと別々ではありません。そのように5:5以下のキリストへの信仰も、兄弟愛と別のテーマで扱っているものではありません。 キリストが再び来られるとき、これを確認するでしょう。「イエスを信じれば救われる」は、「イエスの愛を信じれば救われる」ということです。そして、その信仰は聖徒の愛に現われます。愛するということに恐れを持ちますが、愛は重いいびきではありません。愛は神様から出たものによってより大きなものになって循環していきます。