マタイによる福音書 QT6 20210118月【サタンは誘惑はどのように来るのか】マタイ4章 1~11
マタイ4章 1~114:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。 悪魔がイエス様を試みましたが、それを受けた場所は荒野であり、荒野に導いたのは御霊です。イエス様が受けた誘惑というのは今の私たちにおいても変わらず脅威的な誘惑であります。聖霊は、悪魔の力を根本的に取り除くのではなく、悪魔の策略を知らせ、それから打ち勝つことができるように霊的な耐性に養います。 最初の誘惑は、石をパンにすることです。悪魔は一番弱いところを狙います。40日間の断食で飢えを覚えているイエス様に食べものの誘惑は致命的なものです。イエス様が石をパンにするとしたら、先にご自分の当面の飢えを解決することになります。悪魔が、まずイエス様が自分のために食べることによって、イエスをパンで生きるものにしたいという試みです。 空腹であるなら食べものを切に求めるし、満腹になったらよりよい美味しいものが食べたいという貪欲が起こります。歴史上、今のような消費時代はありませんでした。消費中毒の人々は、お金を使えないということに深刻な不安を感じています。食べものの確保、経済戦争が、人生の唯一の目的になってしまったのは久しいことです。 経済力を持てという悪魔に向かって、イエス様は、人間は経済力のみで生きるのではなく人間らしく生きるものであって、それは神様の御言葉を通して、人間の本来にあるべき姿を回復し、目指すべき目的を見つけることだと答えられました。 最初の試みがお金のことであったなら、第二の試みは、力の誘惑です。神殿という場所はへりくだった人間が神様を礼拝するための場所です。悪魔は、イエス様を、その神殿の頂に立たせ、スーパーマンのように飛び降り、自分の能力を誇るようにと誘惑します。 超越を追い求める信仰は、現実と乖離した神秘主義を生み出します。教会は力を追い求め、それを誇るところではありません。教会の上に掲げている十字架が大きくなればなるほど、それは宗教の力が大きくなっていくのではなくて、悲惨な人間に与えられた神様の恵みが大きくなるということを覚えなければなりません。 第三の試みは、この世のすべての王国とその栄華を与えるという悪魔のうそです。すべての王国とその栄華とうことも実際、悪魔のものでもありません。無断に持ち主ふりをするだけですが、悪魔は自分にひれ伏し、拝むなら世界と栄光を与えると言うのです。悪魔にひれ伏し、拝む人はいません。しかし、世とそれがもたらす栄光に膝をまずくす人は大勢います。その栄光に心を奪われること、それがすなわち悪魔にひれ伏し、拝むということです。 イエス様はこれらの誘惑に対して、人はパンで生きることではなく、神様の口から出る言葉によって生きると答えられ、神様を試みないようた答えられ、ただ神様のみ礼拝するように答えられした。悪魔の試みはすべて聖書的な根拠を持っていますが、すべて文脈を考慮していない恣意的かつ断片的な根拠でした。 神様の御言葉は切り取って財布に収めるお守りではなく、年明けのくじ引きで当たる宝くじでもありません。文脈と状況の中で言葉の意図と目的を理解し、その精神を聖徒の生活の価値観にするのです。神様の御言葉によって人生の態度と求める価値が変わるなら、それがまさに最大の神秘であり、力ではないでしょうか。