マタイによる福音書 QT11 20210123土【勝つ信仰】マタイ5章 38~48
マタイ5章 38~485:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。 『目には目を、歯には歯を』と言ったのは、律法が定めたいわゆる同害報復法です。被害を受けた分を返しなさいということで、厳密に言えば、報復してもよいということではなく、被害を受けた分だけ返しなさいということです。人の心は、一発殴られると一発打ちたいのではなく、殺したくなるわけです。憎しみと呪いの感情が入り込むと罪はさらにに大きくなるため、やられた分だけ返すようにという最小限の制限でした。 しかし、イエス様はそれでは勝つことができないと言われるのです。右の頬を打つ者に左の頬も向ける、下着を取ろうとする者に上着もあげる、一ミリオン行くように強いる者と一緒に二ミリオン行くようにと言われます。やられた分を返さずに、かえって不当に求める分以上に与えなさいということです。自分の正当性の中で怒っている人ではなく、世と人を支配している罪のゆえに悲しむ人です。 悪は常にあり、善が忍耐を失ってしまうとの戦いが常に起こります。ところが、戦いはいつも悪が勝つものです。悪は謝罪せず、和解もしません。だから善が正当であっても血を流すのは民です。ということでこの教えは決してやられるまま我慢するということではありません。神様の民を守るためにあるものです。 戦いを止めるのは、善良な人です。不当な要求だと思って拒むとそこで敵になってしまうことがあります。とはいえ強いられると悔しくなるだけです。このようなことは、悪により多くの口実を与えます。しかし、それを超えていくと、むしろ主導権を握ることができます。無理に一ミリオンを行かせる人の荷物を持って二ミリオンを同行してあげれば、向こうはもはや敵でなくなります。 悪にやられても我慢しなさいということではなく悪に負けず善をもって利己的な世に勝てる方法を教えてくださるのです。愛する人だけ愛しているなら、愛する人の間でも、また不和が生じます。愛の器が小さいからです。勝つというのは、誰かを押しつぶし、上に立つことではなく、最終的に平和をつくり、関係をつくることです。敵対する者を自分の器の中に入れてしまえば、その器の中は平和です。