マタイによる福音書 QT21 20210204木【伝道者のアイデンティティ】マタイ 10章 1~15
マタイ 10章 1~1510:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。 イエス様は十二弟子を派遣しながら伝道者のアイデンティティについて言われます。宣教において伝道者は主語ではありません。伝道の主体は聖霊様です。大学生伝道の情熱を持っていたキャンパス・クルセードが伝道について教える「成功的な伝道とは、聖霊の力の中で、キリストのみを伝え、その結果は神様に委ねること」としました。そうであれば、伝道者に与えられた使命は、結果を恐れずに伝え続けることです。伝道の愚かさ、すなわち、誰かの口から誰かの耳に渡っていかなければありません。 宣教の問題は、伝道をしても人々が信じないことではなく、そのような理由と言い訳を並べて何も伝えないことです。たましいを救うのは神様がなさることです。伝道者には伝える責任があるだけです。福音を伝えなければ罪はそのまま残り続けます。赦しの唯一の情報が配信されないからです。伝えると言っても皆がそれを聴いて信じるのではありませんが、伝えなければ救いは起こりません。自分の信仰を確かめたいと思ったら伝道をすべきです。伝道の言葉を口にしてみると、自分が何をどのように信じているかが明確に分かります。 公教会の聖徒が共有する一般的宣教論は必ずありますが、それぞれの地域と時代に与えられた宣教の有り様と形は、皆がそれぞれ異ります。伝道者はそれを悩まなければなりません。自分が置かれた地域と時代、神学的考察なしに、誰かが考案した教会成長セミナーなどに頼ることは意味のないことです。自分だけに与えられた状況と賜物をそのマニュアルが知るはずがありません。各自に与えられた宣教があります。それを見つけて従うのです。それに必要な人と財政は宣教の主体である神様が供給します。 ですから対象と方法などの具体的なことについては宣教の主体に聞き頼る必要があります。そのような脈絡で、イエス様は弟子たちに、伝道の範囲を制限し、さらに宣教に必要な財政の主権をも持って送られます。イエス様は宣教が始まる時に財布にお金を持たないようにとしました。信仰がないか、従われない場合は、この段階で離れていきます。お金がなくて座り込みます。神様が財政の主であるということを経験した人は分かります。お金があったからできるのではなく、始めるとお金がまかなわれること、神はそのような信仰を求められます。 お金の必要は現実的に常に切実なものです。宣教も財政が必要です。しかし、それが宣教の主体になることはできません。お金は信仰の真正性が確認された後にきます。伝道者は財政に頼ってはいけない、また、財政の不足のためにアイデンティティと誇りを忘れてしまってもいけません。何ごとにおいても正当な補償があることが神様の原則です。財政の必要が貪欲につながってはならないし、献身が欠乏の理由になってもいけません。財政から神様に出会うことが出来なかったら財政が常に神の座を占めようとするはずです。