マタイによる福音書 QT24 20210208月【疲れた人、重荷を負っている人】マタイ 11章 20~30
マタイ 11章 20~3011:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 なまけず、真面目に働くことは確かに良いことですが、仕事にも中毒というものあります。成り切っている人をほっとけば休まずに仕事に夢中になります。私の場合も、しばらくソファに座って休もうとすると、すぐに不安となり、ノートパソコンを探します。何かしなければならないという中毒症状です。休めない強迫は働かない怠惰と変わらない不幸な病気です。 神様はすべての人に「七」の周期で労働を休むとうにされました。現在、世界中のカレンダーはこれに従い、人が休むことなく労働することについては法律で禁じられています。7日を働いたら一日を休み、7年を働いたら一年を休み、七回を働いたら、一回を休むことです。 休むということは、疲れた肉体の労働を止めることではありますが、欲にブレーキをかけることでもあります。成り切ったところから立ち上がって世界を望むという意味でもあります。休むことににより、現在の位置と方向を把握し、動機と意味を確認することができます。そのような意味での旅行は、体を動かすことではありますが、休むことになります。 イエス様の言葉をよく聞いてみると、「あなたの重荷を下ろしなさい」で終わらず、「私のくびきは負いなさい」です。そしてイエス様のくびきは軽いと言われ、それからイエス様は、「わたしは心が柔和でへりくだっているから」と自己賞賛されます。 それはイエス様が柔和と謙遜という人格を誇るつもりではなく、負いやすく軽いくびきの性質について語られるのです。イエス様のくびきは柔和と謙遜で欲望による競争と紛争と高慢はありません。だからイエス様のものは軽いものであり、だから私たちのものは、そうでなく重苦しいのです。 イエス様が重荷を負った者を招待されたのは、人生の目的を変え、真の安息を味わせるためです。欲望により、休まない人間、休ませない世界を休ませるのが目的です。休みますが、神様の中で休むのです。同じ家に入って休むとしでもある人は快適に安息をとり、ある人にいらいらです。なぜなら、家主であれば楽ですが、他人の家に入ったのであれば不便だからです。私たちにおいてイエス様の人格がお家のような安息になることを願います。